外道料理人(7)
熱した鉄板の上に、卵と小麦粉をベースにしたタネをゆっくりと垂らしていく。フライパンというものがこの世界にはないらしかったから、こうして鉄の平たい道具をこしらえるのに随分かかったと、そんなことを思い出す。
鉄板の上のタネを、半円型のヘラで丸く引き伸ばす。そこで傍にいる魔術師に合図を送れば、火力調整を担当して付き合いの長い、相棒ともいえる中年の男はよく心得た顔で鉄に送っていた熱量を止め、一歩後ろに下がった。
そこで竜二郎はオレンジに似た果物で作った果実酒を勢いよく注ぎ、そこに魔術師がぶつぶつと唱えた魔術が発動、つまりは着火しフランベ状態が出来る。
その勢いよく上がる炎に、魔術工房にいる見習い魔術師の少年が軽い悲鳴を上げるが、竜二郎はもとより、相棒魔術師も今更この程度では声を上げない。
炎が一瞬で収まり、あたりにはアルコールが飛んで濃厚になったカラメルソースの良い香りが漂う。
「毎度毎度、よくもまぁ、こんなに薄くムラなく一枚に焼けますね」
「あたりめぇだろう、卵を使った調理ってのは料理人の基本中の基本よ。しかもクレープシュゼットとくりゃあ、おめぇ、目を閉じててもできらァ」
感心する魔術師に、竜二郎はニヘラ、と笑って答える。
クレープ、クレープ、クレープシュゼット。
フランス料理を代表するクレープ、あるいはガレットの中でも簡単だが素材の味をよく引き出す料理の一つである。
元々クレープというのは、貧しい地域でそば粉で作られ食べられていたガレットがどこぞの王妃殿の口に偶然入って気に入られ、宮廷料理として迎え入れられたことが始まりである。
宮廷で出される際に、そば粉ではなく上質なムラのない小麦粉が使われた。そして、その焼いた模様が美しく縮緬のようであったことから、絹のような、という意味のクレープと呼ばれるに至ったと、そういう料理。
竜二郎はあの美しい人に拾われて、その口に入る物を作るよう命じられてから毎朝、欠かさずこのクレープを彼女の為に焼いていた。
「今日はラズベリーを添えるのがいいな。ご婦人にゃビタミンCをたっぷりとって貰うのがいい。それに動脈硬化の予防、眼精疲労やら、良いこと尽くしだ」
井戸の水でよく冷やして保存しておいた木苺はそのままでは酸っぱいと、かの人には不評だった。元々この世界では木苺は薬として使うことが多く、食事に出した時は顔を顰められたものだ。
竜二郎は木苺にたっぷりと砂糖を使ってソースを作っているので、今日はそちらを使う。そして先に泡立てておいた生クリームを盛る。
皿の色は深いグリーンだ。この色も、竜二郎は満足している。
木製か、あるいは白い皿しかこの世界にはなかった。そこに色を加える、あるいは塗る、という発想がないようだった。
だから竜二郎は魔術工房で皿を作った。魔術式を書き込めば陶磁器の粘土が変色した。竜二郎は魔術やら魔術式やらという小難しいことはわからなかったけれど、もう十年来の付き合いになる相棒の魔術師が、セイシツヘンカだかなんだか、そういうことが得意だったのは運が良い。
深い緑の皿に、黄金色のクレープが敷かれ、その上に真っ白なクリームと鮮やかなラズベリーソースを添える。ただぽん、と置くなんて野暮なことを竜二郎はしない。
フランス料理はソース文化。ソースで皿の上に美しい絵を描く。料理は芸術で、皿は料理人にとってキャンパスだ。
「うん、いい出来だ。今日も最高だ」
よし、と目を細め満足げに竜二郎は頷くと、手を丁寧に洗い直し、コックコートの襟をきちん、と立てた。
前掛けを外して壁にかけると、そのままスキップしながら工房の隅にあるマンホールほどの大きさの魔法陣に飛び込む。
「おはようございます、マダム。今日も美しいですなァ!」
「今日も変わらず軽い口ですこと」
一瞬で、油まみれの工房から貴族の屋敷へと場所が変わる。
大きな窓に、周囲には竜二郎には見慣れぬ植物がたくさん飾られた、開放感のある広間だ。かの婦人は毎朝ここで朝食をとる。
転移魔術式とかなんとかいうものらしい。詳しいことはわかないが、そういう便利なものらしかった。転移するには条件のようなものがあり、竜二郎はこの転移に適正があるらしいが、それはとても珍しいことのようだった。
竜二郎はいつも通り、恭しく皿を掲げて、毛の長い絨毯にたくさんのクッションを敷き詰めて居心地の良い場所を作っている婦人の傍に近づいた。絨毯の上に料理を並べるスタイルのこの国であるが、竜二郎の料理を食べ慣れている婦人は肘置きと、傍に小さなテーブルを用意してくれていて、そこには竜二郎が頼んで作って貰った銀食器が並べられている。
「今日は、赤い……このソースは木苺ですね。以前食べて、とても美味しかったことを覚えています」
「へェ、ですがあの時よりぐーんと美味くなってやすぜ。今回は蜂蜜の良いのが手に入りましてね。味も抜群に良くなってますよ」
「それは楽しみですね」
かの婦人の長く伸ばした髪がキラキラと朝の光を受けて輝いている。漆黒、という言葉がまさに相応しいほど黒い髪が、明るい日の光で輝くさまは美しかった。
ゆっくりと、婦人が食事を始める。それ以降、竜二郎は口を利かない。ただ黙って、じっと、その美しい人が静かに竜二郎の作った料理を食べてくれるのを眺めている。
ある日突然、竜二郎はこの世界に来た。
始めは夢でも見ているのかと思った。
戦時中も戦後も経験した竜二郎だ。並大抵のことじゃ驚かないとそう思っていたが、見知らぬ場所、まるで見当もつかない言語、文化の世界にやってきて、すぐに死にかけた。
ポン、と放り投げられたように野にいて、獣に食われそうになり、なんとか村にたどり着いたけれど、そこは戦に巻き込まれて燃えた。
言葉もわからない。わけがわからない場所で、野たれ死ぬばかりだった竜二郎は、馬に踏みつけられた。
その馬に跨っていたのがかの婦人で、聞けばあの時は、夫に浮気されてむしゃくしゃしていたのだと、そう話す顔が可愛らしかったのを覚えている。
「リュージ」
「へェ」
「今日もとても、素晴らしい料理でした」
「そりゃあ、当然ですわ。儂がマダムに作る料理は、いつも最高のものって決まってるんですぜ」
食事を終えた婦人がカチャリ、とフォークを置き、いつものように竜二郎は軽口を叩く。婦人は小さく笑い、ナプキンでそっと口元を拭うと、その長い睫毛を伏せた。
「異端審問官と接触したと聞きましたが、怪我などはしなかったでしょうね」
「もちろんです。あんなモヤシみてぇな若造にやられる儂じゃあねェですよ、マダム」
「工房に異端審問官が不作法にも入ってくるようでしたら、わたくしの名を出して構いません」
「お家の庇護を頂けて十分です」
家紋入りの板を持たせてもらえるだけでその効果は絶大だった。黄門さまの印籠みたいだな、と使った時に思ったものだ。
婦人は、己が関わっていることを異端審問官どもに知られても良いと言う。だが、竜二郎はそれは望んでいなかった。ザリウス公爵家を後ろ盾にしている、と自慢げに振る舞っても、それが誰のものであるのか、はっきりはさせない。
寧ろ、あの気に入らぬ宰相が関わっているのだとでも謀れないものかとすら思っている。
食器を持って再び魔術工房へ戻ると、迎えた見習い魔術師が顔を真っ赤にし、興奮した様子で話しかけてきた。
「大変です、おやかた! 空から、女の子が!」
「アン? 何寝ぼけてやがる、このガキが。それに、儂のことはおやかたじゃなくてシェフと呼べっつってんだろうが」
こき使いすぎておかしくなったかと一蹴にすると、相棒の魔術師が「いや、それが」と困ったように頬をかき、ついっと、窓の外を指差した。
「どうも、平成の大悪党、神崎竜二郎シェフ、おはようございます、ボンジュール。野生の転生者、エルザです! 名刺代わりにプリン作ったんで食べていただけません?」
工房の二階のベランダに、銀髪の少女が立っていた。
この世界で誰も知らない、竜二郎のフルネームと、異国の言葉の挨拶を当たり前のように吐いて。
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毎回死人が出ることに定評のある作品ですが、今回はフラグが立ちっぱなしですね!!
生き残って!シェフ!