タルタロス
エリュシオンの門を再びくぐって、私はアドニスを抱いて部屋に戻る。
すっかり眠ってしまったアドニスをゆりかごに寝かせた。
「ペルセポネ様、大丈夫ですか?」
エウドキアが心配そうに私の顔を覗きこむ。
「ええ。平気よ」
「平気というお顔ではありませんわ。慣れない子守でお疲れなのでしょう。アドニスさまはしばらく私が見ておりますので、外の空気をお吸いになられては?」
「……そうね」
実際、疲れていた。体力的なものではなく、考えることがたくさんありすぎる。
ハーデスは今もレウケーという女性を愛しているらしい。
そして、もし、彼女を忘れたとしても、メンテーという王妃候補がいる。私の入る隙間はどこにもない。
私は、宮殿を出て、冥界を歩いた。
町には穏やかな日常がある。ここには、時の流れというものがあってないようなものだ。
母デメテルは、冥界を汚らわしいといった。しかし、この国は、こんなにも穏やかだ。
どこをどう歩いたのであろう。
私は誰かに呼ばれた気がして、ふらふらとそちらへ歩いていった。
「ここは?」
町を抜けたさきに、大きな崖があった。深く暗い、底の見えない谷になっている。
谷底から風が吹き上げ、私の名を呼ぶ声がする。
「何?」
不意に黒い触手が谷底から立ち上り、私の右足をからめとった。
「え?」
闇がずりずりと私の右足を引っぱり、私は体勢を崩して倒れた。
「誰かっ!」
私は左足と両手をついて、必死で大地にしがみつくも、身体がどんどん谷底へと引っ張られていく。
「ペルセポネ!」
不意に、足に絡みついていたものが振り払われた。見上げるとハーデスが槍をかざしている。
「地の牢獄へ、戻れ!」
まばゆい光とともに絶叫が谷底へと沈んでいった。
「大丈夫か?」
ハーデスは私の肩に手をまわし私を抱き起す。
「無茶をする。君のもつ輝きは、強い魅了の力を持っている。不用意に一人で歩いてはいけない」
「ごめんなさい。私……」
私はうつむいた。嫌われるようなことばかりしているな、と思う。
「ここは、タルタロスの入り口だ。この底にティターン族の牢獄がある」
ハーデスは谷底へと目をやった。
「もちろん、番人がいるはずなのだが……監視の目をくぐって君を手に入れようとは」
「私を?」
「とにかく、宮殿へ戻ろう。ここは危険すぎる」
谷底は静まり返り、私を呼ぶ声は聞こえなくなっていた。




