エリュシオン
アドニスには冥府の飲み物を与えてはならないので、ヘルメスが『天のしずく』のはいった壺を置いていった。
これは、甘い液体が、つきることなく壺から湧いてくるというものだそうだ。
冥府の飲み物は禁止されているので、私もこれを飲むといいと、ヘルメスは告げた。
正直、冥府では仕事がない私にとって、アドニスの存在は、ありがたかった。何もしないでいると、ハーデスさまのことばかり考えてしまうから。
私はアドニスを抱いて、エウドキアと散歩に出かけた。
淡い光を放つ庭園を歩いていくと、黒衣を着たハーデスと、白銀の衣装をまとった男性が話しているのが見えた。
邪魔してはいけないと思い、そっと離れようとしたら、アドニスが突然、きゃっきゃっと声をたてた。
「わ、アドニス、どうしたの?」
しきりに手を、白銀の衣装の男性の方に伸ばす。
「ペルセポネさま。お初にお目にかかります」
にっこりと男性は笑い、アドニスにも笑いかけた。
「ペルセポネ、こちらは、ラダマンティス。エリュシオンを管理してもらっている」
「こんにちは。ペルセポネです」
私は、慌てて頭を下げた。
エリュシオンというのは、生前、善行を積んだ選ばれた人だけが行ける楽園である。
「初めましてというのも、おかしいですよね。姉弟なのに」
くすりと、私はラダマンティスに笑った。
彼は、ゼウスとエウロペの子。だから、私の弟にあたる。会ったのは初めてだけど。
「姉弟だなんて、もったいない。私は半神で、しかも、死したのちに神の列に加わった者。あなたのように神々しい方とは、持っている神力が違います」
ラダマンティスはアドニスの手を握る。アドニスがとても嬉しそうに笑った。
「この子は、ひとの子。私の中のひとのにおいが懐かしいのでしょう」
「ひとの子?」
アフロディーテが預かっていると聞いただけで、そういえば、いきさつとか誰の子なのか全く聞いていない。
「ハーデスさま、せっかくですから、ペルセポネ様をエリュシオンにご招待してもよろしいですか?」
「……ああ」
ハーデスが頷くと、ラダマンティスがゆっくりと宙に手を伸ばした。
白金の光が生まれ、白い門の向こうに、色鮮やかな緑の野原が見えた。
「わあっ」
アドニスを抱いて、門をくぐると、世界に光が溢れていた。
「エウドキア?」
「……私は、ここでお待ちしております」
エウドキアは、門の外で微笑む。
どうしようと思いながら、さらに足をすすめると、エウドキアは光の向こうに隠れてしまい、みえなくなった。
「こちらです」
ラダマンティスに連れられて、私はアドニスを抱いて、ハーデスとともに美しいエリュシオンを歩く。
緑の野の向こうに、白いポプラが生い茂っていた。
「少し、席を外す。ラダマンティス、ペルセポネを頼んだぞ」
ハーデスは、そういって、ポプラの方へと歩いていった。
「綺麗なところですね」
あたたかで、緑の草の香り。冥界とは思えない、眩しい光に満ちている。
「縁談から逃げてきたと、ハーデスさまからお聞きしましたが」
ラダマンティスはそういって、草原に咲いてた花を一厘、私に手渡す。
「ええ、そうです」
私は花を受け取りながら頷いた。
「もし……ハーデスさまを想ってとのことでしたら、諦めになって、地上にお戻りになったほうがいいです」
「え?」
ラダマンティスが指さした先を見る。
ハーデスは、白いポプラをじっと見上げて、微動だにしていない。
「かつて、ハーデスさまはレウケーという女性を愛された。レウケーは、不死でなかったため、冥界に入って死んでしまったのです。ハーデスさまは、レウケーをポプラに変えられ、今もあのように会いに来られている」
私はハーデスの姿を見つめた。離れていて、表情は見えないけれど。
「あのかたは、私やペルセポネ様の父とは違います。レウケーを死なせてしまった自分を責めつづけている。あなたを大切に思うほど、ハーデスさまは決して、あなたの想いには応えないでしょう」
「そんな……」
私の想いをよそに、アドニスが無邪気な笑い声を立てていた。




