冥界の門
夜。私は窓から、外を見る。
月のない晩だ。闇色の空は、どうしたって、ハーデスを思い出す。
頬に涙が伝う。
見ているだけで幸せなのに。見ているだけで幸せなひとがいるのに、どうして、別のひとと結婚しないといけないのだろう。
ペイリトゥスの隣に自分が立つ未来を想像し、私はぞっとした。
どう考えても、嫌だ。
手におちたペイリトゥスの唇の感触を思い出すだけで、吐き気がする。笑っているようで、私を『モノ』のように値踏みをしていたあの目の光は、見間違いではないだろう。
――でも。大神であるゼウスが、『承知』しているのであるならば、私に逆らうすべはない。ゼウスが「白」といえば、「黒」といえど「白」になるのだ。
「ハーデスさま」
私は闇に向かって呟く。
闇夜は静まり返り、風のささやきさえ聞こえてこない。
私は涙をふいた。
迷っている暇はない。私は、母に気が付かれないように、荷物をまとめて、足音を立てぬよう、窓から外へと飛び出した。
野の果てにあるという、大地の裂けめに、冥府への入り口があるという。
ハーデスには迷惑かもしれない。それでも、ひとめだけでも会いたい。
私は、闇夜の中、野の果てに向かって走り出す。暗闇は、少しも怖くなかった。
どれくらい走ったであろう。
足が野原の草葉の露にぬれ、東の空の星が遠くなり始めた。
闇色の大地に、一りん。小さな白い花が咲いている。
美しい水仙の花だ。闇の中だというのに、はっきりと見える。
「綺麗」
私は足を止め、水仙に手を伸ばすと、いきなり、大地が大きく揺れた。
身体のバランスを崩して、思わず大地に膝をつく。
「嘘……」
目の前に、大きく裂けた大地の割れ目。深い谷底へと向かう、闇色の階がそこにあった。
「私を呼んで下さったと、思っていいのかしら?」
私は谷底を見つめる。深淵まで続く、その道は、きっと冥府へと続いているのだろう。
東の空から陽の光が差し込み始める。
迷いはなかった。二度と陽の光を見られないとしても、あの人のそばにいたい。私は階に足をかけた。
地の裂けめの奥は、思ったほど暗くはなかった。
闇色の階段は、黒い不思議な光沢があり、大地の壁は、ほんのりと明るいヒカリゴケにおおわれている。
私は足元に気をつけながら、ゆっくりと下へ降りていった。
階段が終わると、そこは、とても広い空間になっていて、ひんやりとした空気に包まれている。
目の前に広がるのは、広い大河。よく見ると明るさをもたらしているのは、その河の水のようだ。淡く光る水面が、あたりをぼんやりと照らしている。
河には、小さな桟橋があり、粗末な舟が一艘つながれていて、ひとりの老人が立っていた。
「おやおや、『冥界の門』から女神がおいでになるとは」
「冥界の門?」
振り返ると、私が降りてきたハズの階が消えていて、大きな岩壁が後ろにあった。
「神だけがそこを通ることができるのです。普通は、あのように冥界の洞窟からやってきます」
老人は、私が来たのとは別の方向の石壁の隙間の昏い洞窟を指さした。そこから出てきた、げっそりと痩せた老婆が、のろのろとこちらへと歩いてくる。
「あなたのような美しい女神さまが、冥府に何の御用で?」
「私は……ハーデスさまにお会いしたくて」
私の言葉に、老人は驚いたようだった。
「これは驚いた。我が王に、女性の客人とは」
彼は、私の手を取り、舟にのせた。
「そこの老婆、しばし、そこで待て。女神さまを渡してくるゆえ」
老人は老婆に声をかけ、櫂をとる。
「ごめんなさい。私が先でいいの? お婆さんが先でもいいのよ?」
「なあに、死者はどのみち、渡しの先でも、『裁判』待ちでさあ。王の客人を冥界の河の岸で待たせる訳には参りません」
「客といっても……私、勝手に来たのよ?」
私の言葉に、老人は目を細めた。
「ならば、なおのこと早くお連れしなければ。このカロンが、王にしかられます」
老人はそういって、大河へと漕ぎ出した。




