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オルフェウス 2

 冥府の裁判は、王宮の離宮で行われることになっているらしい。

 部屋自体はそれほど大きいものではない。いつもは、死者が一人ずつ呼ばれ、三人いる裁判官のうちの一人が、死者の生前の行いを裁く。

 タルタロスや、エリュシオンに行く者はまれで、たいていは、王宮の眼下にひろがる街に住処を構えるらしい。

 本来、関係者以外は入ることができないのであるが、今回特別に私も中に入れてもらえることになった。

 もちろん、アドニスは先に部屋に返している。

 冥府の裁判官のアイアコスは例によって、私の異母兄妹。いや、私が姉なのだろうか。よくわからない。どちらでもいいことだけど。

 父に似ず、とても温厚そうなひとだ。彼もまた、半神で、死後、その人柄ゆえ、神の列に加わったらしい。もちろん、初対面だ。

 裁判の行われる部屋には、私とハーデス、それとアイアコスが並んで座り、一段低い位置に膝をついたオルフェウスがいる。

 相変わらず、うすぼんやりとした世界の中で、生者であるオルフェウスは異彩を放っていた。彼からは、死者達にはない、濃い影がのびている。

「それで、君の妻というのは?」

ハーデスが静かに問う。

「エウリュデケという名です。先日、毒蛇に噛まれ、実にあっけなく身まかりました」

 オルフェウスは、沈痛な表情で答える。

「……すでに裁きは終えて、城下にて生活を始めている」

 その言葉を受けて、アイアコスが静かにオルフェウスに告げる。

「もはや、彼女は、冥界の住人。生者と会うことを許すわけにはいかない」

「そんな――」

 オルフェウスの顔が絶望に沈む。

「一目だけでも、会わせてあげられないの?」

 つい、私は口をはさむ。

「女神のお口添えとあっても、冥府の理を曲げることはできません」

 アイアコスは丁寧に私に頭を下げ、しかし毅然として、そう言った。

「……そう」

 オルフェウスは肩を落とす。彼の影はますます濃くなった。

 このまま、彼は地上へ返されてしまうのだろうか――いつか、私が地上へと帰されるように。

 私は身につまされて、自分の服の裾をぎゅっと手で握り締めた。

 こほん、とハーデスが小さく咳払いをした。

「一度だけ、チャンスをやろう」

 ハーデスの手が、くるりと円を描き、どこからともなく水仙の蕾を取り出し、なぜか、私に手渡した。

 まだ硬い蕾だ。

「妻に会いたいならば、お前の音楽で、ペルセポネが手にしているこの蕾を咲かせて見せよ」

「……そんな」

 私は開きそうもない蕾を見つめる。花が音楽で開くなんて、聞いたことがない。

 優しいハーデスの言葉とは思えず、その眼を見た。彼の眼は、とても厳しく否を言える感じではなかった。

 ハーデスは、この冥界を束ねる王なのだ。優しいだけで、務まるものではない。

「わかりました」

 オルフェウスは頷いて、ポロンと竪琴をつま弾いた。

 流れ出した音楽は、水のように清らかで、大地を照らす日差しのように暖かだった。

 なによりその歌声には、愛があふれていた。

 彼が、どれだけ妻を愛しているか、二人がどれだけ求め合っていたのか。

 離れていても、離れがたいその絆が私の胸を締め付けた。

 うらやましいほどに強い絆――それを生と死がむざんに引き裂いたのである。

 気が付くと……私の頬は涙にぬれていた。苦しくて、切なくて、渡された蕾を胸に抱いたまま、オルフェウスの竪琴と歌声に魅了され、ただひたすらに泣いた。

 最後は、みっともなくも、嗚咽をこらえきれなくなり、肩を震わせて下を向いた私の涙がぽたぽたと蕾を濡らす。

――すると。

 私の持っていた蕾が淡い光を放ち始め、竪琴の音色に震えるように花弁を開き始めた。

 オルフェウスの最後の旋律に合わせたかのように、水仙の花は見事に咲いた。

「……ハーデスさま」

 その奇跡に、私の声が震える。

「やはりな」

 ハーデスは私の手元を見ながらそう呟いた。まるで開くことがわかっていたかのようだ。

「ペルセポネ、その花を、アイアコスに」

 歌を終えたオルフェウスは、じっと私たちをみたまま動かない。

私は、言われるがまま、開いた美しい水仙の花をアイアコスへと渡した。

「花は開いた」

 ハーデスは大きく息を整えて、手を振ると、背後の壁に大きな穴が現れた。冥界の洞窟だ。

「オルフェウス、約定を果たそう。エウリュデケとともに帰るが良い」

「本当ですか!」

 ハーデスの言葉に、オルフェウスの顔が歓喜に染まった。

「ただし、ここから地上まで、決して後ろを振り返ってはならん」

「はい。もちろん」

 オルフェウスは頷く。

「では、行け。良いか、理を曲げるは一度だけ。二度はない。決して振り返るな。エウリュデケは、必ずお前の後を行くだろう。約定は違えぬ」

 しつこいほどのハーデスの言葉を、オルフェウスは歓喜のあまりにあまり聞いていないようだった。

 ただひたすらに謝礼を述べて、頭を下げるばかりだ。

 私は、その姿に不安を感じた。

「オルフェウスさん」

 私は思わず声をかける。

「お願いですから。絶対にハーデスさまを信じてくださいね」

「もちろんです。光の女神様」

 彼はそう言って。冥界の洞窟へと入っていった。

 ほどなくして。扉の向こうにいたらしいオルフェウスの妻であるエウリュデケを、アイアコスが迎え入れた。

 とても美しい女性であったけれど、死者である彼女の影は薄い。

「これを持ってオルフェウスの後をついていきなさい」

 エウリュデケは、アイアコスから水仙の花を受け取って、洞窟へと入っていった。

 二人が洞窟への奥へと消えていくのをみながら、なぜか不安が胸に膨らんでいった。

「……大丈夫でしょうか?」

 ハーデスは静かに目を閉じた。

「冥界の理に反して、人が蘇るは、私の力でなく、君の力だ」

「私の?」

「だが、問題は、力じゃない。人というのは、もろいものだ」

 ハーデスは辛そうに首を振った。

 ほどなくして。男女の悲痛な叫びが洞窟から響いてきて穴がとじられた

「ダメだったようですね」

悲しげにアイアコスが洞窟の前に倒れている女を助け起こす――エウリュデケだった。

青白い彼女は、諦めたように冥界へと戻っていく。

 ハーデスの目にも悲しげな光が浮かんでいたが……閉じられた穴が開くことはなかった。


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