冥府の泉
それからしばらく私は外出を禁止されていた。
「だー、だー」
声を上げるアドニスをあやしながら窓の外を見ると、眼下にハーデスが立っていて、私を見上げて微笑んだ。
「気晴らしに、散歩に出るかい?」
「いいのですか?」
「私と一緒で良ければ」
それこそ、ハーデスと一緒に散歩だなんて、夢のようである。
「アドニスは私が見ていますわ、ご心配なさらずに」
エウドキアがそう言って、私を外に送り出した。
「陽の光が恋しくはないか?」
庭園を歩きながら、ハーデスはそう言った。
「いえ。地上はもちろん美しいですけれど、冥府もまた美しいと思います」
全てが淡い光に包まれた世界。汚らわしい世界と母は言ったけれど、この世界は全てを受け入れる寛容さがある。
眩しい陽の光はないけれど、閉ざされたような影もない。
「君は変わっている」
ハーデスはくすりと笑った。
「ここを美しいというものは、ここの住人だけだと思っていた。それに、あれほどまでに怖い思いもしたのに」
「あの時は怖かったです。でも、ここが美しいという事実は変わらないと思います」
タルタロスの奈落は深く、とても怖い。でも、母が言うような汚らわしさを私は感じない。
「君は……不思議な人だ」
私たちは庭園をぬけ、庭園から見える泉へと降りていく。泉の水はてらてらと発光し、とても神秘的だ。
「ハーデスさまは、メンテーさまとご結婚なさるのですか?」
泉のほとりに立ち、水面を見つめながら私はハーデスに問う。
「結婚?」
ハーデスが驚いたように私を見る。
「……メンテーさまは、王妃候補だとうかがいました」
神々といえども、一夫一妻というのは常識である。私の父であるゼウスがあまりにも非常識なのだ。
もし、ハーデスが本当にメンテーを妃とするのであれば、地上に戻るべきだろう。
「そうか。そんな話になっているのだな」
まるで他人の話をするようにハーデスは呟く。
「私はとこしえを生きる身。ひとの子のように、結婚して子をなす意味は、それほどにはないと思う。ただ、私も王である以上、周囲の声がそのようであるというのは、理解している」
「そうですか……」
おそらく。それ程気乗りしているわけではないけれど、彼女が王妃候補だというのは事実なのだろう。
あの日。エリュシオンで白いポプラを見上げていたハーデスを思い出す。
きっと、彼の心の中には今もまだ、亡くなった女性の影が住んでいるのだろうな、とほろ苦く思った。
「おや? あれはなんだ?」
泉の底から一人の男が浮かび上がり、こちらへと泳いでやってくる。
おそらく、神ではあろう……その手には、白い花をつけた木の枝があった。
「ペルセポネさまはどちらに?」
男はハーデスに問いかけた。
「君は、何者だ? 神のようだが」
「私の名は、デュオニソス。ゼウスの子です」
彼はそう言って、ハーデスに頭を下げる。
またしても、はじめて会った弟の登場に、なんだか嫌な予感がしたのだった。