右腕 -7-
祈と桃模の間に割って入るように現れた女性。
桃模は女性を睨みつけ、女性は落ち着いた様子で微笑んでいる。
片や敵意を剥きだして。
片や友好的に微笑んで。
二人が見つめ合っている。
辺りを見回した祈はようやくその異変に気付いた。
他の生徒の姿が全くない。
右にも左にも、校舎の方にも。
姿や話声どころか物音一つ聞こえてこない。
学校のすぐ傍を通っている道路の方からも音が聞こえてこなかった。
車一台走っていない。
世界から三人以外が消えてしまったかのようだった。
「誰だって聞いてるんだけど」
桃模の声に少しだけ怒気が混じる。
女性の手を払うように腕を振った。
その行動にあっさりとその腕を開放してしまう。
先ほどまで明らかに何かをしようとしていた右手を無警戒に離してしまった。
「私の傍を離れずに」
女性は桃模の言葉に耳を貸さず、祈を引き寄せるように肩を掴んだ。
「は、はいっ」
緊張したように女性に寄る祈。
内心で少しドキドキもしていたりした。
そして相手が女性であることを思い返し、一人ふるふると頭を振る。
そんな祈をそっちのけで睨み合う二人。
いや、睨んでいるのは桃模が一方的になのでその言葉には語弊がある。
女性は祈を護るようにしてはいるが、依然として桃模に対して敵意を向けてはいない。
「無視しないでくれる」
「その前に一つ、こちらから質問させてください」
「先に質問したの私なんだけど」
桃模の言葉を無視して女性は続ける。
「どうして貴女、怒っているのかしら」
「どうして? そんなの――――」
言葉に仕掛けて詰まらせる。
分からない。
自分がどうして怒りを感じているのかが分からない。
分からないことを言われたから怒りを感じている?
だったら、どうして分からないことを言われたから怒りを感じている。
分からない。
そう、分からないから壊そうと思ったんだ。
なぜ壊そうと思った?
きっと関係してるから壊そうと思っていた。
なぜ関係してると思った?
壊したら何か分かると思ったから。
なぜ思った?
だから今までも壊してきた。
何を?
私の理解できないモノをずっと壊し続けてきたんだ。
どうして?
私は何も間違っていない。
本当に?
絶対間違っていない。
絶対?
今までもそれで上手くいっていた。
……………………。
これからもずっと上手くいく。
…………そう。
一通りの思考が終わって顔を上げた桃模に女性は微笑んだ。
「分かりましたか? いえ、貴女は何も分かっていない」
その一言だけで、グラリと桃模の視界が揺れた。
何もされていないのに体が倒れそうになる。
視界がぼやけ、俯く頭を持ち上げるように押さえた。
そうしてなんとか睨むように上げた視線の先で、未だ女性は微笑んでいる。
「しかし、それでいいんじゃないですか?」
「……なに?」
続いた言葉に耳を疑った。
目を見開いて驚く。
「分からないことを無理に知る必要はないでしょう。そうして貴女は今まで生きてきているのですから」
「私は…………」
「貴女は何も分からなくていい」
「それは、私が決めることだっ……」
なんとか絞り出したような声で女性の言葉を否定する。
自身の中にある何かと葛藤しているかのように。
頭を何度も横に振る。
「そう、これは貴女自身が決めること。だからこそ私は教えましょう」
女性は言葉を続ける。
何でもないことのように。
「全てを知りたければ、社総真を殺しなさい」
まるでセール中に商品を勧めるような気安さで、殺人を促した。
「な、ぜ……?」
なぜ目の前の女性はそんなことを言うのか。
人ひとり殺したところで今更何が分かるというのか。
思考はまとまらず、まとまったところで答えなど出ない。
推測一つ立たなかった。
だけど女性は分かるという。
社総真を殺せば全てが分かるとそう告げた。
「あ、あのっ」
突然上がった声に桃模の意識が僅かに深い思考から引き戻された。
声の主は女性の後ろにいる祈。
「こ、殺すって、どうしてですかっ? 人を殺すなんていけないと思いますっ」
少し戸惑った様子で女性に問いかける。
けれど女性の表情は崩れない。
祈の方に振り返って尚、それを顔に張り付けているんじゃないかと疑われんばかりの微笑みだった。
「それは、今の貴女が理解するにはまだ早いですね」
「は、早いって……どういう」
「いずれ、貴女にも分かる時が来ます。――――さて」
桃模はもう女性を睨んではいなかった。
「アンタの目的はよく分かんないけど、その口車、乗ってあげてもいいよ」
承諾するような返答をして鞄を持ち直した。
「口車に乗せるなどとんでもない。私は純粋に貴女に助言をしただけですよ」
「そうだとしても、私は貴女の助言に従うわけじゃない。何も分からなかったら、その時はアンタも――――」
「それは怖いですね。そうならないことを祈ります」
「それじゃあ今度はこっちから質問」
女性は少し驚いたように眉を上げた。
「あら、先ほどで終わりかと思いましたが」
「そんなわけないじゃん、バカじゃないの」
もう落ち着きを取り戻したのか桃模の言葉に熱は籠っていない。
寧ろ落ち着きを取り戻して毒が籠っていた。
「アンタってヤシロソーとどういう関係なの?」
「どういう、とは……?」
桃模の質問に女性は困った顔で小首を傾げる。
可愛らしい仕草で本当に質問の意味が分かっていなさそうだった。
「貴女がそれを知って何の得があるのでしょう?」
意味というより意図を計りかねているようだ。
「別に。ただヤシロソーのこと知ってるなら、それなりの仲なんじゃないの?」
「随分と他人の関係に興味を持つのですね」
「…………。で? どうなわけ?」
「ふむ……。そうですね」
女性は考えるように少しだけ視線を下げる。
少しして、あっ、と何かを思いついたかのように声を上げた。
「それは社総真に聞いてください」
「…………誤魔化してんの? それともバカにしてんの?」
「思ったことを言っているだけですよ」
「どの道、ヤシロソーと会えってことね」
「一つやることが増えたと思ってください」
女性に悪びれた様子はない。
対する桃模にも苛立ちはないようだった。
やっぱりね、といった様子で鼻で息を吐く。
細められた視線には睨みより呆れを意味しているようだった。
「それじゃあとりあえずヤシロソーに会いに行こっと」
そのまま踵を返した桃模の手からスルリと鞄が落ちた。
「思ったけど、ちょっと気が変わった」
ザッと桃模のいた位置の周りの砂が跳ねるように飛び散った。
跳ねあがる頃には既にそこに桃模の姿はなく、落ちかけの鞄に砂が当たりパラパラと音を立てる。
そして祈が桃模の姿を見失うのと女性が体を反転させたのはほぼ同時だった。
次の瞬間、突然女性の右後方に現れた桃模が体を捻って左手で裏拳を振るった。
女性は祈の体を押すようにして後退する。
その顔面ギリギリを拳が通過した。
いや、通過はしていない。
正確にはピタリと顔の前で拳は静止した。
そして桃模の拳もまた握り込まれてはいなかった。
親指が中指を抑え込む形。
そのまま指を弾けば、でこピンを出来る形に丸めこまれていた。
「この指一本でも、アンタの首を向こうの壁に埋め込むくらい出来たよ?」
「ふふっ、それはそれは。とても良い動きをしますね」
「っ――――!?」
その声が聞こえたのは背後。
振り返るとそこで女性は微笑んでいた。
再び視線を向けた先に既に姿はなく、さっきまで見ていた姿は幻の如く消えている。
「なにより一撃で終わる攻撃を持っているのに追撃を考えているその発想。素晴らしいと思います」
桃模の様子に目に見えて同様が見える。
ギリッと鳴らされた歯と、握り込まれた拳には明確な悔しさが伺えた。
追いきれないという話ではない。
桃模には何が起きたのかすら理解出来ていなかった。
確かに視界に映っていたものが、少し視線を外しただけで背後にいた。
これだけなら簡単なことだが、声がした時その姿が目の前にあったことが問題だ。
それが問題だった。
それだけが大問題だったのだ。
「いま、絶対に声の方が先に移動してた……いったい何をしたの?」
「それは秘密で――――」
答え終わる前に桃模は次の行動に出ていた。
元々答えを聞く気がなかったのか、次に動いたのは問いかけるような言葉のすぐ後。
女性の口が開いた瞬間だった。
およそ人の目には映らないスピードで距離を詰め、そのスピードのままそれを超える速度で突き出される手刀。
それが女性の首筋のギリギリを疾風の如く突き抜ける。
女性は眉一つ動かさず、身動き一つしなかった。
ただ、女性は動けなかったわけじゃない。
動かなかったのだ。
まるでそれが最初からその位置を正確に狙っていたことが分かっていたかのように、ピクリとも動かなかった。
逆に1ミリでも動いて手刀に触れていれば、今頃は噴水が一つ出来上がっていただろう。
「どうして、いま動かなかったの?」
「だって、貴女に当てる気がありませんでしたから」
確信しているような言葉遣いに桃模は目を鋭く細めた。
確かに桃模にはその手刀を当てる気はまったくなかった。
しかしそれは相手が避けることを加味しての動作であり、少しでも触れれば死んでいたことは間違いない。
表情は変えず、しかし内心に動揺が生まれる。
そこで初めて、桃模は女性に恐怖心を覚えた。
それは女性が桃模の動きを見通したからではない。
桃模の手は女性の首のすぐ横にある。
桃模には手首を捻って動かすだけで女性の首を跳ね飛ばすことが出来た。
それは女性にも分かっている筈だ。
にも関わらず、女性は動かない。
逃げもしない。
怯える様子もなく。
ただ微笑んでいる。
全てを見通しているかのような笑顔で。
桃模にその意思がないことを見抜いている。
「怖いですか?」
「っ――――なにを……!」
「いえ、どうしてだか怯えられていたようですから」
「っ――!!」
手首が動いた。
軽く、虫を払うような仕草だった。
触れた首が飛んだ。
ように、見えただけだった。
女性は既に動いていた。
桃模から十分に距離を離し、そよ風になびくスカートの前で両手を合わせて立っている。
「なんだ……っ、お前……っ、なんなんだお前はっ!」
動揺が恐怖になり、恐怖心は大声となって桃模の口から発せられた。
「そうですね。その質問くらい答えましょうか」
あっさりと頷いて女性は言葉を続ける。
「今の私はただの、観察者です」
「かん、さつしゃ……?」
「ええ、そうです。ですから貴女に危害を加えるつもりは毛頭ありませんよ。まぁ貴女から手を出してくるならば逃げるのは辞しませんが」
「そう、じゃあアンタをここで殺すまでやり合っても良いわけよね」
「随分と好戦的なのですね。これは失敗だったかもしれません……」
呆れたように溜め息を吐いて困った顔をする。
「仕方ありません」
桃模が拳を固めた時、パッと女性が軽く手を上げた。
肩の前で止めて、そのままひらひらとバイバイをするように手を振る。
「また、何れどこかで」
桃模が拳を振るった瞬間。
急に辺りが喧騒に包まれた。
「なっ――――!!?」
「えっ!?」
驚愕する二人を余所に、さっきまで誰も居なかったその場所に急に生徒が現れた。
立ちつくす二人を不思議そうに一瞥しながら登校していく。
「消、えた…………?」
それは完全な消失だった。
気配も動かず、視界にも止まらない。
目の前の存在は一瞬で目の前から消え去ったのである。
「あれ? いのりーん、なーにやってんの? 遅刻するよー」
通りがけに女子生徒が祈に声を掛ける。
声のした方に祈が向くと、友達の女子生徒が立っていた。
「もとちゃん……」
「なにボーっとしてんの? なんかあった?」
「ううん、何も……。そだね。早く行かなきゃ」
「ねぇ、素孤さん」
「およ? ももっちじゃーん。どしたの?」
「いま、ここに私たち以外に誰かいた?」
素孤はパチパチと目を瞬かせて首を傾げた。
「えっと、周りにずっと生徒いたと思うけど……」
「……そだね」
「えっ! ちょっとなんで残念そうなのー!?」
あからさまに残念そうな桃模の様子を見て素孤は大げさに頭を抱えて見せる。
まさに、ガーン、という効果音がよく似合いそうな光景だった。
そこまで体を張っても桃模はそれをスルーして考えるように目を伏せてしまう。
その様子に素孤は更に不思議そうに首を傾げた。
「ね、ねえいのりん、ももっち何かあったの? いつもと様子が違うみたいだけど」
「…………え? あ、ごめん聞いてなかった。なに?」
「こっちもかーい」
綺麗なツッコミが決まった。
「どしたの二人とも。なんかあった?」
桃模はその質問が聞こえていないのか、目を伏せて何かを考え込んでいる。
「ううん、なんでもない」
祈も少し寂しげに目を伏せて心ここにあらずといった様子だ。
「わー、明らかに何かあるのにこの何も言えない感じどうなのよ」
素孤はそんな二人を渋い顔で見つめている。
そんな三人の意識を一斉に覚醒させたのは始業五分前を告げるチャイムの音だった。
鳴り響いた大きな音に三人同時に顔を上げる。
周りに生徒の姿は既にない。
「やっばっ! 二人とも考え込んでる暇じゃ――って速ッ!」
さっきまでそれぞれの思考にのめり込んでいた二人の動きは素孤より遥かに速かった。
見る見るうちに素孤から離れて教室の方に走っていく。
「うっわ、薄情者ーっ! ってか祈ってあんなに足速かったっけっ?」
そんな言葉を残して素孤も二人の後を追った。