右腕 -6-
人間がなぜ他人を愛するか。
その昔、問われたことが頭の中に蘇っていた。
社総真が社総真となってから、一週間経った日のこと。
恋だの愛だの急に言われたところで総真には理解出来なかったが、それでも考えることは大事だと言われた。
総真は考えて考えて、考えぬいた結果、分からないという結論に至った。
そのことを伝えると、決して笑わず怒らず落胆せずによく頑張ったと褒められたことを今でも覚えている。
社総真の出した結論なら、それが答えだと。
でも一つだけ注意をすることがある。
続いた言葉に意識を集中させた。
これから言われるのは大切なことだと思っての行動だった。
君は――――。
▼
社総真が目を覚ましたのは日の出と同時刻だった。
目を開くと躊躇いなく体を起こす。
これだけの行動でも、総真には迷いはなかった。
あと五分、という魅惑的な単語は存在しない。
手早く着替えを済ませて、向かった先はキッチン。
驚くなかれ、総真の朝食は手作り。
料理出来る系男子なのだった。
篠宮市内の比較的静かな住宅地。
早朝にはのんびり散歩を嗜む老人の姿も見られるほどの穏やかさ。
総真はそこに一軒家を構えて住んでいる。
学生にして一軒家。
これほど贅沢なことも少ないだろう。
朝食を終えて学園へ向かう。
その道すがらに壁に背を預けて待っている人物がいた。
総真に気付くと嬉しそうに近づいてビシッと手を上げる。
「おはよっ!」
元気いっぱいに挨拶をする桃模。
その隣を何事もなく抜けていく総真。
左腕が総真の肩に伸びてガッチリと掴んだ。
「朝の挨拶は、おはよう、だよね」
笑顔だが内心は笑っていなさそうだった。
僅かに左腕に逃がすまいと言う意思を感じる力が籠っている。
振り返った総真は数秒ほど沈黙して、やがて思い出したかのように口を開いた。
「あ。一昨日の」
「また忘れてたの!? ていうか何その覚え方!」
名前すら覚えられていなかったことに、はぁ、と大きく溜め息を吐く。
もしかしたらとんでもなく忘れっぽいのかもしれない。
病気か何かか、記憶障害でも抱えているのか。
そんな思考をしながら視線を鞄に落とす。
「ひっどいなぁ。今日はヤシロソーにプレゼント持ってきたのに。ほら!」
鞄を探り、ほら! と笑顔で取り出した先に総真はいなかった。
遥か前方を歩いている。
笑顔のまま首がギリギリと機械のように総真の方を向き。
笑顔のまま総真を追いぬいて。
笑顔のままもう一度プレゼントを差し出した。
しかし今度は総真の前方を塞ぐという形で。
「なんだ、これは」
「プレゼント!」
渡された包みを再度見て桃模の顔を見る。
窺うような上目遣いで総真を見ていた。
「……受け取ってくれる?」
頷いて鞄にしまう。
「ありがとっ」
何故か桃模の方がお礼を言って二人並んで学園に向かう。
「ヤシロソーって一人暮らしなの?」
「そうだ」
「両親は?」
「いない」
「兄弟も?」
「ああ」
淡々とした会話、というよりは桃模の一方的な質問に総真は答える。
桃模のする質問は基本的に総真の身の回りに関するものが多かった。
質問に対する総真の答えは頷くだけが多い。
家族のことや総真の家事スキルに、料理、洗濯、掃除は出来るかなど。
桃模の質問は出来るかという、肯定否定で答えられるものだけだった。
総真がそれしかしないと知っての配慮だろう。
「うんうん、そっかそっか、なるほどなるほど」
一頻りの質問が終わり何度も納得するように頷く。
それで満足したのか桃模は最後に一度深く頷いた。
「うん。ありがと。なんか色々分かった気がする」
「そうか」
「ヤシロソーも色々大変だったんだね」
総真は何も答えない。
それを肯定の意だと勝手に受け取ったのか、桃模は聞いておきながら慌てたように無理して話さなくていいよ、なんて口にする。
ちなみに総真が答えそうな気配は微塵もなかった。
桃模が総真の制服を上から下までジッと眺めた。
綺麗に見える。
きっとアイロンまできちんと掛けられているんだろうと想像さえ出来た。
それが出来るのは総真をおいて他にはいない。
家事全般が出来て容姿も悪くない総真がモテないのはきっと性格のせいだろうということも容易に把握して、ふと思い出したことが一つあった。
心は総真が好きだと言っていたことだ。
しかし桃模は心がどうして総真を好きになったのか。
いやそれ以前に二人がどこでどうして出会ったのかさえ知らないことに気が付いたのだ。
今になって気が付いたのは、桃模にとって理由などどうでもよかったからだ。
桃模が気にするのはその人の好きな人、だけ、であって、好きな人とのことなど最初から興味も関心も欠片も存在してない。
いない、というよりはいなかった。
昔の話になりつつある。
今の桃模にはそれが気になっていた。
何故かは本人も分かっていないが気になっている。
何故自分ですら分からないのかを気にならないほど気になっていた。
「ヤシロソーと心ちゃんって、どういう関係なの?」
ストレートのようであって、少し遠まわしでもあるような質問。
「どう、いう……?」
問われた総真は視線を伏せる。
その行動は珍しく考え始めたように見えた。
「そーだねー。二人の出会いとか」
「出会い」
視線はジッと前を向いて一点を見つめ続ける。
いつの間にか歩みを止めて静止してしまった。
徐々に細められていく目。
やがてその目が完全に閉じ終わると。
「…………すぅ」
小さな寝息が聞こえた。
「こらぁ!!」
桃模の大声に僅かに瞼が持ち上がる。
桃模の方を見て前を向き直し小さく欠伸をした。
「覚えていない」
「……本当に思い出そうとしてた?」
不審そうな目を総真に向ける。
眠ってしまってはそれも仕方がないだろう。
「した」
堂々と答えた。
信じられないくらい堂々としている。
寝ていた人物とは思えないほどに。
「出来なかった」
堂々としていた。
「そっか」
今までの総真のこともあるからか桃模は意外にもあっさりと引き下がる。
「なんだかちょっと心ちゃんかわいそうかも」
「かわいそう?」
「こっちの話だから気にしないで」
学校の近くまで来ると生徒の数も増えて徐々に騒がしくなってくる。
「おはよう、霜上さん」
校門をくぐったところで二人は挨拶をされた。
「おはよ!――――う」
笑顔で振り返った桃模の表情が凍り付いた。
目を見開き、そのままジッと見つめ続ける。
「えっと……どうかした?」
祈の不思議そうな声に我に返ったのか、首を横に振る。
しかし、驚きは抜けていないのか言葉もなく口を半開きにしたまま、ただ首を振るだけだった。
いつものことだが総真は我関せずといった様子で先を歩いていく。
二人のやりとりを見てすらいなかった。
そんな総真の姿を見て、祈は桃模に問いかける。
「ねぇ、あの人何なの? どういう関係?」
少しだけ苛立ちを含んだ声色。
桃模はそれが自分への質問だと数秒後に気付き、ハッとして返答をした。
「ヤシロソーのこと? 別になんでもないよ」
「付き合ってるとかじゃなくて? なんでもないのに一緒に登校してきたの?」
どうやら祈は桃模と総真が恋仲になったと思っているようだった。
自分の幼馴染と付き合っていたのに、死んですぐに他の男に靡いているとしたら、それが許せなかったんだろう。
しかしそもそもに桃模にとって男子生徒の存在はただのお試しの恋人だったこともあり、かつ他人の色恋沙汰であり、更に自分の感情が混じった祈の思考は自分勝手なものでもあった。
「うん。ヤシロソー面白いから」
無邪気に桃模は答える。
単純に面白いから一緒にいるだけだと。
本心だった。
桃模にとっての総真は面白いという存在に他ならない。
同級生でも友達でも、ましてや恋人などありえない。
「面白い? あの人が?」
祈は怪訝そうな顔をして総真に振り返る。
ちょうど下駄箱に入っていく後ろ姿が目に付いた。
「……面白い?」
再度繰り返して首を捻る。
祈には総真の面白い要素が何一つ思い浮かばなかった。
祈と総真には接点がないが、なんとなくの雰囲気は先ほどの様子から見て取っていた。
一緒に登校してきた桃模を無言で置いていったこと。
それは祈にとって不思議というより寧ろ不審だった。
関係を隠すためにわざとやったんじゃないかと疑っていたのだ。
総真の行動は一種の演技なのではないかと、疑念を抱いていた。
「付き合ったりはしてないんだよね?」
「あははっ、それはないって」
有り得ないことだと笑い飛ばす。
本当に頭の片隅にも考えていなさそうだった。
「そっか……。だったらいいや」
頷いたがまだ少し納得出来ていなさそうだった。
「あ、そうだ。霜上さん、最近深夜に出掛けたことある?」
「……どうして?」
桃模はその言葉にピクッと少しだけ反応を見せる。
それに気付いていないのかは分からないが、祈はそのまま話を続ける。
「最近の街中って以前より物騒になってるみたいだから、霜上さんも気を付けた方がいいよ」
「物騒って、どういうこと?」
「あれ? ニュース見てないんだ。また怪死体が見つかったんだって」
「え?」
その一言で桃模の動きは完全に停止した。
祈はまだ喋り続けているようだが一切耳に入っていなさそうだった。
瞬きもせず、瞳が動揺で揺れ動き、焦点が定まっていない。
左手が右腕を握る。
強く、強く力を込めて握りしめられた。
ドクドクと心臓が早鐘を打つように鳴る。
呼吸も整わず、吐く息の量も乱れていた。
「だから――って、霜上さん、どうしたの? 顔色悪いけど大丈夫?」
「う、ん……だいじょうぶ」
返事も曖昧で上の空。
見てすぐに分かるその様子に祈はますます心配そうな声を上げた。
「ねぇ、本当に大丈夫? 具合悪いなら保健室行った方が」
「大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫だから」
何度も繰り返し、まるで自分に言い聞かせるように繰り返し、言いながら目を閉じて繰り返し。
そして大きく一度深呼吸をしてゆっくりと開いた。
何かを抑え込んでいたように握りしめていた右腕をそっと離す。
「霜上さんがそう言うなら……。でも本当に気を付けてよ? 霜上さんに何かあったらアイツも悲しむと思うし」
また桃模がピクッと反応した。
今度は目を大きく開いて何かに驚いた様子だった。
「どう、して……?」
先ほどよりも疑問を感じているようで、声にさっきより強い戸惑いが浮かんでいる。
「どうしてって、何が?」
問われたことが不思議であるように首を傾げた。
それ以前に問いかけの意味が分からなかったのかもしれない。
桃模の言葉は続く。
「どうしてそんな心配するの?」
「え? うーん、どうしてって聞かれると、どうしてだろ? 理由なんてないかな」
「分かんない」
「そう言われても……」
苦笑する祈。
桃模はクスリとも笑わない。
「分かんない、分かんない、分かんない、分かんない」
同じ言葉を繰り返しブツブツと呟き続け顔を伏せる。
「………………分かった」
やがて、無表情に一度だけポツリと呟いた。
伏せていた顔を上げるようにゆっくりと頭を持ち上げていく。
大きく開かれた目が真っ直ぐに祈を捕えた。
「霜上、さん……?」
その表情に気をされたのか祈は少し怯えた表情で身を引いた。
桃模は何も言わず祈との距離を詰めていく。
「どう、したの……?」
後ずさる祈に躊躇なく歩を進める。
やがてその距離が近づき、腕を伸ばせば届く距離になった時、祈が壁に背をぶつけた。
「動かないでね」
桃模が右腕を持ち上げる。
ゆっくりと伸ばし、徐々に祈の方に近づけていく。
祈の体は動かなかった。
動けなかったわけではない。
だけど、視界に迫る右腕に視線が張り付いたかのように釘づけになり、指一本動かなくなっていた。
「すぐ、終わるから」
聞こえてくる誰かの言葉。
祈の思考力がなくなる。
目の前に居たのは、誰だったか。
思い出せない。
ここはどこだったか。
思い出せない。
体中の器官という器官がまるで動作を停止したかのようだった。
半開きの口からは空気の出入りすら行われず。
心臓の鼓動も止まったかのように聞こえない。
ザ……ザザ……とノイズのような音が耳に響く。
「あ…………あ…………」
ザラザラしたとノイズの走った光景が祈の脳内にフラッシュバックする。
誰かと向き合って立つ自分。
光源の先に存在する恐怖。
暗く細い通路。
一瞬だけ暗転する視界。
そこからは、覚えのない瞬間の記憶。
闇の中の、覚えのない記憶。
迫ってくる異質な脅威。
伸びてくる黒い何か。
左肩口を撫でるような感覚。
取り外し式のように簡単に取れて飛んでいく、左腕。
痛みは感じなかった。
感じる暇もなかったのかもしれない。
「ア…………グ…………」
嘔吐感のようなものが込み上がってくる。
口元を抑えたいが腕は上がらない。
蹲りたいが腰は曲がらない。
目を閉じたいが瞼は下がらない。
鼻先まで迫った右掌。
「失礼」
言葉と共に静止した。
瞬間的に視界が開ける。
忘れていたかのように口の中に空気が入ってきた。
蹲って抱え込むように体を抱いて、胸元を抑え鼓動を感じ、口元を抑えて嘔吐感を呑みこむ。
「ゴホッゴホッ! うぅ……ぁ……はぁ、はぁ……」
呼吸を整え僅かに顔を上げ、滲み出る涙で霞む視界にふわりと風に揺れる白いスカートの裾が見えた。
「誰だ……お前…………」
「何をしようとしていたのかは知りませんが、いけませんよ」
聞き覚えのある優しい声。
「スーツの……お姉さん」
桃模の右腕を掴み、祈の方に優しい微笑みを向ける。
「今は、ワンピースのお姉さん、ですね」
クスリと笑ってそう言った、真っ白なワンピース姿の女性がそこにいた。