右腕 -3-
「やっほっほー! 放課後だよーっ」
放課後にテンションが上がる人は少なくはないだろう。
少なくとも、やっほっほー、などと言いながら恥ずかしげもなく他人の机に飛びつきそうな勢いで走っていくような人間のテンションは間違いなく高いと言えよう。
「一緒に帰ろーっ」
心の手を取ってブンブンと振る桃模。
勢いが強いのか心の体が上下に揺さぶられる。
「し、霜上さん……ちょっと痛い……」
「わっ、ごめん」
言われて手を放す桃模。
中途半端な位置で放され、心の手が弧を描いて飛んでいく。
やれやれと苦笑を溢してまだ少し痛む手首を軽く振った。
「一緒に帰ろうよーっ」
今度は反対の手を握る。
少し警戒した心だったが今度は揺さぶられることはなかった。
「誘ってくれたのにごめんなさい。今日はちょっと用事があるの」
申し訳なさそうに顔を伏せる心に桃模は首を傾げる。
「用事? どんな用事?」
「先生に補習生の講師頼まれてて」
「講師!? すごっ!」
「そ、そんな、すごいことなんかじゃないよ。先生たちみたいに上手くできないから」
「凄いことだよっ、頼まれること事態凄いことっ。間違いない! アンタはえらい!」
「し、霜上さん……恥ずかしい……」
桃模の声の大きさで教室中の視線を集めている。
入ってきた時から視線は向けられていたが、それ以上に集まり始めて、心は内心で少し焦り始めた。
しかし、桃模はそんなことは気にしていないのか、或いは気付いてすらいないのか更に大きく声を張り出した。
「恥ずかしがることないよ! もっと誇っていいことだと思うよ! ほらほら胸張って!」
「そ、そうじゃなくてっ……」
褒め称えられ更に赤くなっていく顔を隠すように覆った。
傍から見ると苛められてるようにも見えるが、桃模には欠片も悪気などない。
周りもそれが分かっているからか、二人の様子を見る人たちの目は微笑ましそうではあった。
ただちょっとだけ、うるさそうでもある。
「うーん、でもそっかー。だったら一緒に帰れないね」
残念そうに肩を落として、カクンと前に体ごと項垂れる。
しかし、すぐに何かを思いついたのか、項垂れた体がバネで跳ね返るように起き上がった。
背筋を真っ直ぐに伸ばしてポンッと手を叩く。
実に分かりやすい意思表示だった。
やはり何かを思いついたようである。
「ね。ね。ヤシロソーって放課後はどの辺りにいるか知らない?」
「総真くん? 総真くんならもう帰ってると思――――」
「分かった! ありがとね! また明日ー!」
最後まで聞かずに教室を飛び出していく。
「えっ! あ、うんっ、また、あし、たー……」
挨拶を返すがそこには既に桃模の姿はない。
そのことに少しだけ呆れたが、同時に可笑しくて笑っていた。
色々と振り回されそうな気がするけど仲良くなりたいな。
そんなことを考えながら、心は講師の準備を再開した。
▽
「ヤーシーローソー!」
背後から呼ばれる声に振り返ることはなく歩き続ける。
「とうっ!」
背後から聞こえた掛け声に体を少しだけ横に逸らした。
「避けられたぁ!」
背後から総真の横を前方に突き抜けていく影が一つ。
ヘッドスライディングできれいに舗装されたアスファルトの地面を滑っていった。
ズザザザザッと音がして停止する。
地面に伸びた状態で動作も停止した。
「とんでもなく痛い!」
跳ね起きた桃模からはそんな様子は見られないが、実際に痛かったのか少し涙目だ。
しかし総真は遥か前方を歩いている。
体を張ったヘッドスライディングは気にも留められていなかった。
「ちょっとちょっとヤシロソー!」
桃模は慌てて追いついて横に並んだ。
総真は視線だけで桃模を一瞥して、止まることなく歩き続ける。
「こらー! 無視するなー!」
進路を塞ぐように正面に立って腰に手を当てる。
そこまでしてようやく総真は歩みを止めた。
「…………誰だ、お前」
「ヒドッ! 今日の三時限目とお昼休みに会ったじゃん!」
「分からん」
考えた様子もなく総真は即答した。
「もぉっ! 桃模だよぉ! 桃摸! 覚えてね!」
「そうか。……何か用か?」
「ん? 一緒に帰ろうかなぁって思って、ダメ?」
「好きにしろ」
興味なさそうにまた歩き出す。
桃模もまた総真の隣に並んだ。
夕方の通学路に並んで歩く影が二つ。
他に生徒の姿はないが、時折行き交う車がいるくらいだ。
沈黙したまま暫く歩き続ける。
桃模は少し視線を下げて、総真は真っ直ぐに前を向いて。
時折、暇をつぶすように通り過ぎる車に視線を向けた。
それでも二人の間に会話はなく、無機質に時間が過ぎていく。
「ねぇ、ヤシロソー」
静寂の中で呟くように桃模が問いかけた。
総真は何も答えない。
それが分かっていたのか桃模は気にした様子もなかった。
互いに真っ直ぐ前を向いたまま、言葉が続く。
「人間は嫌いって言ったよね」
「ああ」
「どうして?」
桃模の声は淡々としていた。
本当に興味があって聞いているのかすら怪しく思える。
「なぜそんなことを聞く」
「……私ね、人を好きっての意味分かんないんだけど、人を嫌いって言うのもよく分かんないんだよね。だからヤシロソーはどうして人が嫌いなのかなって」
その一言に総真は足を止めた。
真っ直ぐに桃模に向き直る。
「受け売りだ」
「受け売り? 前にも似たようなこと言ってたけど、誰からなの?」
「……知らない」
「またそれ?」
呆れたように溜め息を吐いた。
そして諦めたように少し上を見上げて目を細める。
西日に照らされ赤く染まり、表情は少し憂いを帯びているように見えた。
総真の表情は依然として変わらない。
それ以外知らないんじゃないかと言う程の無表情。
「その様子じゃあ、素直に話してくれそうにもないね」
じゃあ、と桃模は考えるように顎に手を当てた。
少しだけ上を見上げて、んー、と唸る。
話題を探しているようだった。
話題が変わって総真は歩き出す。
桃模も倣うように隣に並んだ。
暫くして思い付いたのか桃模から、あっ、という声が上がった。
「ヤシロソーのお家ってどの辺りにあるの?」
「聞いてどうする」
「歩いてる方向的に、あの辺り?」
桃模が推測で指を差す。
総真は桃模の指している方向と九十度異なる住宅地方面を指差した。
ちなみに桃模が指差したのは街の外れの山地方面だ。
ふもとの辺りは夏にキャンプ場として使用されることはあるが、決して普段から人が住むような場所ではない。
「へー、意外ー」
その発言は山に住んでいた方が似合う、という意味で言われたのかどうなのかは定かではないが、桃模は本当に意外そうに驚いている。
「私の家はあっち」
指差した方向に総真は視線だけを向けた。
「ヤシロソーは知ってる? マンションであったバラバラ殺人事件のこと」
質問に対して総真は何も答えなかったが、桃模は気にした様子なく話を続ける。
「死んだのは私の両親なんだけど、犯人はだまだ捕まってないんだ」
桃模の声には抑揚はなく、感情すらこもっていない。
話すというより語るといった感じだ。
「私ね、現場に居たの」
声色が少しだけ上がった。
何が面白いのかも分からない。
何が嬉しいのかも理解できない。
しかし、桃模の口元は少しだけ笑っていた。
「両親はね。目の前で弾け飛んだんだよ」
それが何を意味するのか。
その言葉をどういう意図で語っているのか。
不気味であり、そして不思議でもあった。
それを総真に語ることにどんな意味があるのか。
総真自身に反応はやはりなく、歩みを止めることもない。
「だけど警察は何も分からなかった。犯人を見つけることも出来なかった。それがどうしてだか分かる?」
何も答えはない。
その質問に対して思考すらしていないように見える。
けれど桃模は答えないことを分かった上で話しているのか、返答を待たずして答えを口にした。
「不可能犯罪だったんだよ。人間には絶対に行えない犯行だったの。容疑者に私も勿論上げられた。でも証拠なんて何一つなかった。だからすぐに私は被害者として釈放された。ここまでの話が何を意味するか、分かる?」
何も答えない。
いや、何も答える必要もなかった。
桃模は最初から質問などしていない。
彼女が話を振るのは単純に総真の反応を見ているようだった。
問いかけるたびに、桃模の視線は総真に向けられる。
全身のありとあらゆる動作を見逃さないように視線は動いていた。
瞬きの一つから指先の微かな動きさえ。
少しの動揺も見逃さず把握できるように。
「また同じことが起こっても、犯人は捕まらないってことだよ」
言って桃模はおもむろに右手を持ち上げた。
水平にまで上がった腕をそのまま向きを変えて総真に伸ばす。
数センチを秒単位で詰めていく。
広げられた手のひらが、総真に触れる。
その直前で、ピタリと止まった。
桃模の動き自体が一時停止のごとく固まり、瞬きすら行われない。
「……ごめんヤシロソー。用事思い出しちゃったからここでね」
表情は張り付いたかのような無表情で急に踵を返すと元来た道を走り出す。
それを聞いているのかいないのか。
桃模の言動に対して総真は頷くことも振り返ることも、どころか足を止めることすらしなかった。
▽
「すっかり遅くなっちゃったなぁ」
補習生の講師を終えた心はその足でそのまま商店街まで来ていた。
商店街とはいっても時間帯によってそこにいる人数や年齢層も変わってくるだろう。
現在は老若男女問わずにいた。
歩けど歩けど人は絶えない。
人、人、人、人、人人人人人人人人人人人人人人人人。
世界は生で満ちている。
世界は死で満ちている。
生かすものがいれば殺すものがいる。
創るものがいれば壊すものがいる。
対極にして絶対たる摂理。
相いれることのない二極。
相対する関係
「あ、あれ……?」
自分でも気付かない内に心は商店街から外れていた。
そこは人通りが少なく、薄く気味悪い路地裏。
少々大きな声を出しても誰も来そうにないような場所だ。
しかも袋小路で、もしこんなところで襲われようものならば助かる見込みはかなり低いと言えよう。
「な、何やってるんだろ。早く戻らなきゃ」
フラグが立つとはこんな時に使う言葉で間違いはないだろう。
微かに震える声で心は来た道を振り返った。
そこに四人の柄の悪そうな男が立っている。
心の姿を上から下までじっと見て近付いていく。
「ねぇ、君ぃ」
隣を抜けようとしたときに話し掛けられてビクリと心の体が跳ねた。
あっという間に道を塞がれてしまう。
前にも後ろにも逃げ場などない。
「何やってんの? こんなとこで」
「ち、ちょっとボーッとしてたらこんなところにいまして……」
「ふ~ん………」
「あ、あの……通していただけないでしょうか」
「だーめぇ」
一人の伸ばした手が心の肩を掴む。
「やっ! 放して下さい!」
反射的にその手を払う。
逃げるように四人から離れた。
しかしその先は行き止まり。
「どうして逃げるんだよ~」
「そうそう、一緒に遊ぼうぜ」
男たちはにやにやと笑いながらゆっくりと逃げていく心との距離を詰めていく。
壁際まで来て振り返る心。
男たちはもうすぐそこまで来ていた。
助けを呼ぼうにも恐怖で声が出ないのか、開いた口からは虚しく吐息だけが漏れる。
「さぁ、何して遊ぼっか」
「楽しいことしたいなぁ」
「特に下半身を動かす運動とか?」
「あっはっはっ、それ最高」
四人で盛り上がりながら心の周りを取り囲む。
助けて……。
心の中で呟くような言葉が生まれた。
誰か、助けて……。
震える体を抱えるようにして俯く。
ドクドクと早くなっていく鼓動。
助けてっ……総真くんっ……!
「それじゃあ、早速――」
ザリッとアスファルトの擦れる音がした。
その音に心に伸ばした手を止めて四人の男が後ろを振り返る。
心も伏せていた顔を上げた。
そこに見えたのはローブのようなもので全身を覆い隠した人だった。
上から下まで覆い隠されていて見えているのは口元だけ。
チッと一人の男が舌打ちをした。
見られてしまっては続けることなど出来ない。
口封じの殺害が出来ない以上、そこから先は見られたら終わりだ。
性犯罪は犯しても殺人は犯せない。
それがその男たちの犯罪の限度なのだ。
「その子から離れて」
聞こえたその声に四人の表情が変わった。
女の子の声だったからである。
その子が四人の方に歩き出した。
四人はその場から動こうとせず、挑発するように女の子が近づいてくるのをただ待っている。
「だ、だめっ……逃げて!」
叫ぶ心の声は聞こえているはずなのに歩みを止めない。
その足取りに迷いはなく、少しずつその距離を縮めている。
「もう一度だけ言う」
近づいて聞こえた声に心は目を見開いた。
聞き覚えのある声。
それが桃模の声だったからである。
「その子から……」
グッと左腕を体を捻るように引いた、そして。
「離れろって言ってんのよ!!」
振るわれた拳が轟音を立ててアスファルトの壁にヒビを這わせた。
そこにいた全員が絶句する。
一瞬で言葉を失い、開かれた口を閉じることを忘れる。
「な、なんだコイツッ……ば、化物っ!」
一人の男が叫んだのと同時に全員が我に帰った。
「お、おいっ、逃げるぞ!」
「逃げるってどこに!」
「く、そっ」
突然のことに慌て始める。
そして一人の男の目が心を捉えた。
その体を掴んで首を締め上げる。
「ぐっ……ぁ………」
締めあげられて口から声にならない嗚咽が漏れた。
抵抗しようにも力の差は歴然。
持ち上がった体から段々と力が抜け意識が遠のいていった。
心の意識が続かなくなりかける。
「そ、それ以上近づくんじゃ――」
そして、男の言葉もそれ以上続かなかった。
「離れろ、って言ったはずだけど」
振り返った目の前にローブが立っていたからだ。
「ひっ――……」
怯えるような声を上げて心を突き離し逃げるように走り出す。
しかし足が震えすぐに倒れこんでしまった。
そのまま這うようにしてだらしなく逃げていく。
ローブはそれを追おうともせずただその場に立っていた。
そして誰もいなくなったところで心の方に向き直った。
歩き寄って目の前で止まる。
隠れた顔は暗くて見えず、表情はまったく伺えない。
互いに何も言わずただただ静かな時が流れていく。
「あの…………霜上、さん……?」
礼を言おうと声を上げる心。
問いかけるような心の言葉にフードが微かに動揺したように身を退いた。
そして、徐にローブの下から腕を伸ばす。
その腕を見て心は目を見開いた。
遠く暗かったから見えなかったその腕は真っ黒に染まっていた。
腕が闇のように濁っている。
ゆっくり伸びてくる腕を見つめながら心は小さく息を呑んだ。
その手が心の少し手前でピタリと止まる。
さっきとは違いあきらかな動揺を見せて、その体が数歩下がった。
そしてそのまま跳躍して一瞬にして心の視界から消えていく。
「あっ――――……!」
誰もいなくなった場所に上げた声が虚しく溶けていった。
立ち上がって元来た道を歩き出す。
ひび割れたアスファルトの壁の前まで来て立ち止まった。
「……すごい」
まるで重機を使って衝撃を与えたかのように蜘蛛の巣状にひび割れた壁。
少し触れただけで砕けた破片がパラパラと音を立てて地面に落ちる。
人間の出来ることではない。
人間に出来なければさっきのは一体誰なんだろうと心は考える。
あの黒くて闇のような腕はいったいなんだったんだろうと。
考えても答えなど出るものではない。
しかし、考えずにはいられなかった。
すっかりと日が落ちて辺りは暗くなる。
路地裏ともなると明かりはなく、辺りは更に暗い。
「霜上さんだったのかな……」
呟く声に答えてくれる人などいない。
「そんなわけないよね」
自己完結。
おそらくその場においての最善の選択だろう。
考えても分からないこと。
考えるだけ無駄なこと。
「早く帰らないと」
そして即座に気を切り替えた。
そのまま歩き出して元居た商店街まで戻ってくる。
歩いてきた道は覚えていなかった心だったがまっすぐに進んでいたようで戻るまでにそれほどの時間は掛からなかった。
商店街の人の数は減り、ほとんどの店が閉まっていて、長い道の中まだ開いている店の明かりがポツポツとついている。
商店街を抜けて大通りに出る。
時間を確認して帰宅時刻を計算してみた。家までの距離はまだ随分とあるが、この時間ならばまだ遊んでいる他の生徒はいるだろう。
少なくとも警察官に見つかって止められるような時間にはならない。
商店街の方に振り返ると灯っているのは既に街灯の明かりだけになっていた。
そこでふと一つだけ気になることを考えてしまった。
それはもう気になって気になって仕方がなく思わず歩みを止めてしまう。
思考よりもさきにどうしようもない結論が口から漏れた。
「明日のおかず、買い忘れちゃった」
心の明日のお昼は購買部でパンを買うことになりそうである。