右腕 -2-
昼休みになると定番として購買部の前がごった返しになる、ということがある、らしい。
それは体験した者にしか分からない定番であるだろう。
少なくとも篠宮学園生にとっては無縁の定番だった。
定番以前に無縁。
そしてお弁当を持ってきている者に対してはそれ以前の問題である。
そもそもになぜこの学園で混雑が起きないかと言えば、まずその購買の数だ。
学年別に二ヶ所づつ、計六ヶ所に設置されている。
更にそれぞれの場所にレジを三つ設けているため、購入時に困ることも少ない。
そこまでしてなお飽き足らず、店員も各購入場所に三人ずつ配置している。
極めつけはそもそもに購買を利用する生徒が少ないというところにあった。
利用されなければ込みもしない。
当然の結果だ。
「心ちゃーんっ、一緒にたーべよーっ!」
昼休みが始まって五分ほど経った頃、昼食に誘う桃模の声が教室に響いた。
声の聞こえた方に向くと廊下で桃模がブンブンと恥ずかしげもなく手を振っていた。
見てる方が恥ずかしくなってくるほど堂々としている。
そして呼ばれている心はそれ以上に恥ずかしそうにしていた。
教室中の視線が教室の心と廊下の桃模を行ったり来たりすればそれも当然だろう。
恥ずかしさを紛らわせるように小走りで桃模の方に走っていく。
「見てみてっ、大量ゲットだよっ」
廊下に出ると桃模は左腕いっぱいに抱えたパンの袋を見せる。
どう見ても一人で食べきれる量ではない。
ざっと見て十個以上ある。
上に見えるものだけでそれだけあるので抱えている下の方の数を合わせるともっとあるだろう。
十五か、二十か……と考えかけて心は考えるのをやめた。
数よりも処理の方法の方が気になる。
「そんなに食べるの?」
「ううん、食べないよー」
こんなに食べられないよー、と愉快に笑う。
ならばどうして買ったんだろうと苦笑する心。
そんな気持ちに桃模が気付くはずもなく、そうだっ、といいことでも思い付いたかのように声を上げた。
「ヤシロソーも誘おうよっ」
「総真くんも? うん、でも……」
「ほら、早く行くよーっ」
「あっ、霜上さん!」
言いかけた心の言葉も聞かずに走り始める。
慌ててお弁当を持ってその後を追いかける心。
心たちの教室、正面から見て一階の左端の教室から総真のいる教室までは、150メートルある廊下を通って十三段の階段を踊り場を中継して二回ほど昇り右に曲がって、また150メートルほど行った突き当たり、走って平均一分ほど掛かる。
この学校の廊下は他校に比べてそこそこ長かった。
端から端まで300メートルあり、端と中間に階段を設けている。
そう、廊下の端に位置する教室の隣には大抵階段があるものなのだ。
勿論この学校にも階段はある。
心のいる教室、廊下の端の教室の隣にも確かにあった。
ほんの数日前まではそこに存在していたのだが、無くなったのだ。
跡形もなく、一階から二階が吹き抜けになったのである。
一晩のうちにそれは瓦礫も残さず消え去った。
よくある七不思議の一つ、増える階段ならぬ、消える階段として話題となったのだが、工事の業者が来て復旧作業も続けばそんな話題は自然と消えてしまっていた。
「相変わらず長いよねー、この廊下。半分くらいになればいいのに。ついでに授業も半分になって身長があと十二センチ伸びればいいのになぁ」
要望の中になぜか願望が交じっていた。
「背が高くなりたいの?」
そして廊下のほうではなく身長の話題に食いつく心。
自分の身長に不満を持っていないものにとって身長がほしいという願望は不思議なことなのだろう。
あって困るものではないが、なくても別に困るものでもない。
その考え方はやはり個人で変わってくるだろうが、心はこれ以上伸びなくてもいいかなと考えていた。
「そりゃなりたいよー、背の高い女の人ってカッコいいじゃん。最低でも170はほしいね170は。170って魅力的だよねっ、知ってる? 正三十六角形の内角って170度なんだよっ」
「そ、そうなんだ」
現在の桃模の年齢と身長からみても、高望みな最低ラインである。
そもそも正三十六角形はなぜ出てきたのか謎だ。
「これ言いたくてわざわざ調べたんだっ、なんか頭良さそうじゃん?」
その発言が既に頭が悪いという事実には気付いていないようだった。
「ちなみに、最高は?」
「二メートルかなっ」
「そ、そうなんだ……」
心、苦笑。
苦笑するしかなかった。
本人の望みである以上、他人には否定も肯定も出来ない。
それが分かっているからこその苦笑だ。
笑顔になりきれないのは、叶わない望みを求め続ける自分を重ねてのことだった。
「それはいくらなんでも……高すぎない?」
「そんなことないよっ! もし二メートル以上になったら心ちゃんにもわけてあげるよ」
無論、人間に身長を別けることなどできるはずもない。
人間だけに限らずこの世に生きとし生けるもの全てにそんなことが出来るわけもないのだ。
死んだものに至っては論外である。
「遠慮しとくね」
それでも心は律儀にお断りの返事をした。
「やっと着いたよぉ、遠すぎ……」
だらけたように前傾姿勢に項垂れてぶらぶらと腕を左右に揺れる。
そのままの体勢でふらふらと教室に近づきかけて。
急に何を思ったか方向転換をして立ち入り禁止の表記がされている方向に歩いていく。
そのままコーンとバーで遮られた場所へ立ち入り禁止の表記を無視して入っていった。
そこはある筈のものがない開けた空間。
まるで空間ごと切り取られたかのようになくなってしまった階段。
警察の捜査でも原因は判明していない。
爆発物も使わず工事の機械など使えるわけもなく。
例え使って壊したとしても、欠片の一つも残らないなど有り得ない。
工事を行っている人たちを覗き込むようにする桃模。
そこに人の姿はない。
おそらく昼食を食べに行ったんだろう。
工事用具は置かれたままになっており、階段もまだまだ初期の段階だ。
「霜上さん、入ったら怒られちゃうよ」
心に声を掛けられて踵を返す。
そのまま心の方まで歩いて戻ってきた。
「どうかしたの?」
心の質問に首を振る動作だけで答えて、もう一度階段の方に振り向いた。
つられるように心もそちらに視線を向ける。
そうして暫く眺めていたが。
「あれ?」
聞こえた声の方に向くといつの間に移動したのか、桃模が教室の中を覗き込んでた。
キョロキョロと入口で中を見回している。
「ヤシロソーいないよ?」
どうやら総真の姿を探していたようだった。
教室の中ではあちこちでグループが作られて一緒にご飯を食べている。
女子のみのグループ、男子のみのグループ、一人で食べている人、食べ終わって読書をしている人。
しかしどこを見ても総真の姿は見つからない。
「どこいっちゃったんだろ」
「たぶん、中庭じゃないかな。お昼休みそこに居ることが多いから」
「え? そうなの? も―、もっと早く言ってよぉ」
唇を尖らせて文句を言う桃模にさっき言おうとしたとは言えなかった。
教室を出た時の話である。
走って行った桃模を止めなかったことにも非があるし、教室に居る可能性もあったので言う勇気がなかったのだ。
「そっか、中庭は盲点だったよ。なんかゲ―ムの主人公みたいなことするんだね。あっ、主人公って言えば昨日のテレビ見たっ? 主人公とは思えない弱さだったよねーっ」
「そうなの? えっと番組名は……?」
「あれっ? 心ちゃん見てないのっ? あれは見た方がいいって! こうね、ヒロインの女の子が、こう、すごいの! 主人公よわっちいから何て言うかもう恋愛とかダメダメで、でも優しいんだよっ。そんな主人公をヒロインが好きになるんだけど、親とかが反対してなんとインベーダと戦うの! だけど戦いの最中に主人公が重傷を負ってまで戦うことの哀しさをみんなに伝えるんだよ! いま思い出してもいい最終回だったなぁ」
もう終わってるらしかった。
中途半端なネタバレをされた上に内容はいまいち掴めない説明に反応に困ってしまう心。
ただそんな中でも一つだけ分かったことがある。
番組名を聞くまでもなくそのアニメを見たことがないということだった。
「今度見てみるといいよ」
と、番組名は分からないままに話を打ち切ってしまう桃模。
「あっ! ヤシロソーはっけーん!」
窓際に寄った桃模が声を上げる。
今日も中庭にいたんだと思いながら同じように窓の外を見た心は目を見開いた。
確かにそこに総真の姿がある。
中庭と言えば中庭と言って差し支えはない。
しかしその場所には問題があった。
否、問題しかない。
中庭の中央、反対側の校舎との間にある木陰でちょうど同じ目線の位置に横になっていた。
しかし決して呑気にはっけーんなどと言える状況ではない。
お忘れかもしれないので一応伝えておくが心と桃模は階段を上っている。
それなのに木陰で眠っている総真の姿は見えていた。
そう、つまり総真は木の枝の上で眠っているのである。
足と腕を組んで気持ちよさそうに目を閉じていた。
高さにしておよそ七メートル。
枝の太さからして寝返りでもしようものなら地面に真っ逆さまだろう。
「わっ、わぁああ! 総真くん!?」
慌てて走り出す心。
150メートルを駆け抜けて階段を駆け下り中庭に向かって走り抜ける。
今年で一番素早く動けた気がしていた。
木の下まで来て息つく暇もなく上を見上げる心。
七メートル上に枝の影から足先だけが見えていた。
「やっほー、ヤシロソー、起きてるー?」
気付けば心の隣に桃模の姿がある。
相変わらず呑気な様子で総真に声を掛けるが反応はない。
「だ、だめだよっ、もし起きて体勢崩しちゃったら落ちちゃうんだから!」
「えー、じゃあどうするの?」
聞かれて言葉に詰まる心。
どうすると問われてもどうしようもない状況である。
自分が登るわけにもいかず、というかそんなことが出来る自信がない。
この辺りに脚立は見当たらないし、仮にあったとしても届くような高さでもない。
宙にでも浮かべないと安全に声を掛けるなんて不可能な話だった。
「だいじょぶだよ、ヤシロソーならきっと死んでも報われるって!」
「死ぬこと前提!?」
「蹴ったら落ちてこないかな?」
「そんな虫じゃないんだから――ってだから落ちたらダメなんだってば!」
蹴ろうと足を動かす桃模を慌てて止める。
しぶしぶ足を降ろした桃模が上を見上げ、今度は存在をアピールするようにぶんぶんと手を振った。
「ヤーシーローソー! 一緒にご飯食べよーよー!」
「だめだってば! もし寝返りなんてしたら――」
「あっ、寝返った」
「え?」
ポツリと、見た光景そのままを声に出した桃模。
振り返った心の目に映ったのは真っ逆さまに落下してくる総真の姿。
何も言えず、何も出来ず、ただその光景が心の目に焼きつく。
いや、それ以前にそもそも何も言わず何もする必要性もなかった。
総真の体が空中で翻りスタンッと両足から地面に着地した。
そして何事もなかったかのように立ち上がり、二人の方を見て一言。
「おはよう」
とだけ言った。
ポカンと口を開けて固まる心。
総真を見て、七メートル上空を見上げ、また総真を見て、を何度も繰り返している。
総真の足が折れている様子はない。
総真が命綱を付けている訳でもない。
総真の着地した地面だけが異様に柔らかい、なんてこともある筈がない。
疑問でいっぱいになる頭、考えるように捻る首。
そんな心を置いて桃模は総真に近づいた。
「ねっ、ねっ、一緒にご飯食べよーよっ」
「飯……?」
眉をひそめる総真。
コイツは何を言っているんだろうといった様子で桃模を見る。
「だからー、お昼ご飯だよっ、お昼ご飯っ。まだ食べてないでしょ? それとももう食べちゃってたりしちゃったりしてる? 早弁とドカ弁は男のロマンっていうからねー」
無論言うまでもなく言うわけなどなかった。
早弁は知らないが少なくともどか弁は言わない。
「ほらほら、これあげるよっ」
左手にパンの山を抱えたままズイッと総真に近づく。
「ねっ」
下から覗き込むようにして見上げる桃模。
総真は何も言わないまま山の中からパンを一つ掴んで取った。
それを見て桃模は嬉しそうに笑う。
「一緒に食べよーっ、ほら早くっ」
「あっ、うん」
固まってしまっていた心がその声に我に返る。
そのまま三人で総真の眠っていた木の陰に座った。
桃模が一番右に座り、総真を挟んで反対側に心が座った。
桃模は相変わらずの遠慮のなさで総真にくっ付きそうなほど身を寄せて、心は対照的に恥ずかしいのか少し距離を離して座っている。
桃模は持っていたパンの山を近くに置いて、その中の一つをつまみ上げた。
そのまま口を使って封を開ける。
開けたのはあんぱんだった。
ちなみに買ってきたものはカレーパン三個、ジャムパンが苺、林檎、ブルーベリー各種二個ずつで計六個、その他のパンが各種一個ずつで計十二個、あんぱんが二十一個だ。
そんな中からパンを取れば5割の確率であんぱんになるわけで。
総真が食べているパンも勿論あんパンだ。
「……甘いな」
一口食べた総真が呟くようにそう言った。
あんぱんだから甘いのは当たり前である。
「そりゃそうだよ、あんパンだもん」
「あんパンが甘いとは限らない。それは固定概念だ」
「いや、あんパンは甘いものだと思うけど……」
開き直ったような総真のセリフにさすがの桃模も苦笑いだった。
しかし総真の表情は変わらない。
桃模がなぜ笑っているのかも分かっていないようなそんな無表情。
「もしかして辛いあんパンでも食べたことあるの?」
「……ある」
顔を反らしながら総真は答えた。
どうやら良い思い出ではないらしい。
それ以上は語ろうとせず黙々とパンを食べ始める。
まるでそれ以上話すことを拒否するように。
「ねっ、ねっ、どんな感じだったの?」
無論、そのことに桃模が気付くはずもなかった。
興味深々と言った感じで総真に詰め寄る。
「ねぇねぇ、ねぇってばっ」
「うるさい」
「辛いあんパンが気になるよー」
「勝手に気にしてろ」
「もしかして中身が差し替えられてたとか?」
「………………」
「図星!?」
笑えもしないオチだった。
というか可哀想になるオチである。
イジメに近かった。
差し替えた人物も何を思って差し替えたのかはたはた疑問だ。
「総真くん、もしかして辛いもの苦手なの?」
「……なんだ、お前いたのか」
「うん」
「それはいくらなんでも……」
またも苦笑する桃模。
遠まわしに嫌味を言われているのに、やけに普通に返事を返した心も大したものである。
二言目はなく黙り込んでしまう総真。
心もそれ以上聞くようなことはせず、またお弁当を食べ始めた。
「カレーでも入れられてたの?」
しかし、やはりと言うべきか桃模は空気が読めていなかった。
沈黙に重なって空気が重くなる。
無言で二つめのパンに手を伸ばす総真。
自分が買ってきたものだが、桃模もそれを止めるようなことはせず同じようにパンに手を伸ばす。
取ったのは二人ともあんパンの袋。
あんパンの中身はあんこだ。
こしあんだろうが粒あんだろうがあんこであることに変わりはない。
「……ん、……っ……? っ?」
しかし、一口食べた総真が微かに目を開いた。
よく見なければ分からないその表情の変化に二人は気付かない。
総真の体がふるふると微かに震え始める。
二人が気付いたのはその後の動作、口に手を当てた時だった。
表情は変わらないもののパチパチと驚いたように瞬かせている。
驚いているかどうかは定かではないが。
「どうしたの? 総真くん」
「……………………」
「……泣いてるの?」
総真の瞳に涙が溜まっている。
溢れそうな程に溜まっていた。
「ホントに辛いのダメだったんだ」
総真の持っているパンの袋を見ながら桃模が言う。
そこに張られているラベルは確かにあんパンと書かれている。
中辛あんパンと。
「こ、こんなパンあったんだ。総真くん、大丈夫? ってわあっ!」
再度総真の方を向いた心が驚く。
ぼろ泣きだった。
どうしようもない状況に両手で口を押さえたまま涙している。
「うわ、なんか可愛い。萌えていいのかなコレ」
「こ、これ飲んで!」
よく分からない萌え要素に目覚めようとする桃模を余所に、水筒のお茶をコップに入れて差し出す心。
それを受け取り一気に飲み干して一息つく。
そしてそのまま何故か桃模を睨む。
涙目だが普通に怖い睨みだった。
涙目でなければ竦み上がってしまうような視線。
正直いまの状況に桃模はまったく関係しておらず、ハッキリ言って八つ当たりもいいところである。
「くふふふっ」
けれど桃模はそんなことにまったく動じずに笑っていた。
睨まれているがどこ吹く風だ。
暖簾に腕押し、糠に釘。
どころか寧ろ嬉しそうにすら見える。
「辛いのが苦手なんて可愛いなぁ。お持ち帰りしたい。お持ち帰りして辛いものたくさん食べさせてあげたい」
なかなかドSなことを言って笑う桃模。
そんな桃模に心の顔は無理に笑おうとして引きつっていた。
「これ、食べていい?」
総真の手に握られているパンを指差す桃模。
一度だけ持っているパンに目を落として突き出すように差し出した。
桃模はいつの間にか自分のパンを食べ終わっていたようで、すぐに総真の持っているパンにかぶりつく。
しかし、受け取る様子を見せない。
総真に持たせたままそのパンを食べている。
それでも総真はパンを離したりはしなかった。
それを持ったまま新しいパンに手を伸ばす。
その様子を心が羨ましそうに見ていた。
「ん? 心ちゃんも食べる?」
そのことに気付いたのかそれとも本当に食べたいんだろうと思ったのか、おそらく後者であろうが、桃模が心にそう尋ねた。
「ふえぇあぁえぁ!?」
急に話を振られて焦ったのか驚いたのか、よく分からない声を上げて口をパクパクとする。
パクパクとしつつも視線は総真の持っているパンに向いていた。
「いるのか?」
「あぅえっ、あの、あうあぅぁぁ…」
総真にパンを向けられて更に困惑した様子を見せる。
桃模はニヤニヤと笑いながらそれを眺めていた。
その手には三つ目のパンが握られている。
無論、あんパンだった。
「いらないのか」
「いります!!」
叫ぶ心。
中庭の端まで届きそうな声だった。
恥も面目もない。
叫んだそのままに耳まで一気に真っ赤になった。
それを心底楽しそうに笑顔で見守る桃模。
「そうか、ほら」
差し出されるパン。
「い、いただきます……」
ポツリとつぶやいて顔を近づけてパンをかじる。
口の中に甘いような辛いような微妙な味が広がる。
無論、味のことなど一瞬にして考えなくなったのは言うまでもない。
心の頭の中には一つ。
間接キス。
という単語しかなかった。
「美味いか?」
そう尋ねられて反射的に首を何度も縦に振る心。
「そうか。オレは苦手だ」
「辛いもの嫌いなの?」
「嫌いではない、苦手なだけだ」
「何が違うの?」
「知らない。だが苦手なものを嫌うのは悪いことだと教わった」
考えるように口元に手を当てる桃模。
質問しておきながら総真の言葉は後半の半分くらい聞こえていないように見えた。
何を考えているのかはいまいち想像がつかない。
「嫌い……苦手……苦手は、嫌いじゃない……ふ―ん、ふむふむ。考え方は色々だね」
あれこれ言いながらあんパンを二つほど持って立ち上がる。
スカートをパタパタと払って数歩前に出て振り返った。
「それじゃあ、ヤシロソー、心ちゃん、また一緒に食べようねっ」
そのまま再度反転し、首を左右に傾げながら歩いていく。
首の運動をしているかのようなその動きは彼女なりに何かを考える時の行動だ。
「パン、置いていっちゃったね」
「……どれくらいある」
「見た感じ三十個以上、かな」
「多い」
桃模の歩いて行った方を見る総真。
そして持っているパンに目を落とす。
微かに目を細めて続いて心に目を向けた。
「……食べようか?」
総真の言いたいことを読みとったかのように心は言った。
迷うこともなく差し出す総真。
そしてもう一度、桃模の歩いて行った方に向いて、三つ目のパンに手を伸ばした。
「ちょっと待って」
その手を止められる。
驚いた様子はなく心の方を向く総真
心は困ったように笑っていた。
少しだけ呆れているようにも見える。
「もう食べられないよ」
言われて持っているパンに目を向ける。
そのラベルには激辛カレーパンと書かれていた。
▽
「好き、嫌い……好き、嫌い……」
ポツポツと呟きながら廊下を歩く。
廊下には誰一人として歩いていない。
そもそも校舎の中には生徒どころか先生一人すらいなかった。
その校舎は週に数回しか使われず、人がいることの方が珍しいほどである。
「嫌い、苦手……苦手と嫌いは、違う……違う……」
まっすぐに前を向いたまま長い廊下をゆっくりと一歩一歩進んでいく。
ボーっとした様子で、その視線の先に何を見ているのかも分からない。
「ふふっ……」
溢すような笑い声。
突然、思い出したかのように噴き出す。
可笑しそうにクスクスと、生き人形のようにクツクツと。
グッと強く手を握った。
右手を力強く。
「面白いなぁ、面白いなぁ」
そう言いながらも笑っているのは口だけで目は笑っていない。
廊下を端まで歩き終わり、続いて階段を上る。
十三段の階段を踊り場を二回ほど中継して三階に上がった。
そして一番最初にある教室のドアを開けた。
視聴覚教室だ。
入って右手に巨大なスクリーンがあり、部屋の中央に映写機が置かれている。
そこが最も使われることが少ない教室だった。
一通り中を見回して、ドアの方を向かないままゆっくりと閉める。
ガタンと音を立ててドアが閉まると同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムの音が鳴り響いた。