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神さまの創り方  作者: 夜野友気
右腕
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右腕 -1-

「ふぁあああぁぁあぁぁ…………」


大欠伸の発信源は市の中心より少し南に位置する学園の中。


篠宮市に建てられ今年で創立より五年を迎えるその学園は、名前もそのまま篠宮学園という。

なんの捻りもなく名付けられたこの学園の建設理由もそのまま何の捻りもなく市の合併の影響による学校同士の統合だった。

人口が減り、少子化が進むにつれて一つの学校の生徒数が減った。

その結果が市の合併に倣っての学校同士の合併。

おかげで生徒数は二倍となり維持費は削減。

当時の生徒たちも新校舎の建設を喜んだんだそうな。

それも創立当初の話であり現在通学している生徒にとってはちょっと新しい校舎程度の認識ではある。


現在、太陽が真上に近づこうとしている時間帯。


教室の中がにわかに騒がしくなり始めた頃。

教室の一角で一人の女の子が突っ伏していた顔を起こして大欠伸をした。

眠そうに目をショボショボとさせ、手で擦る。

しかしそれだけでは目が覚めなかったのか尚も眠そうにその体が右へ左へ揺れていた。

それに伴って後ろで結われたポニーテールもゆらゆらと左右に揺れている。


「霜上さん」

「ふぁい?」


そんな状態で話しかけられれば欠伸のような微妙な返事をしてしまうのも仕方がないだろう。

霜上桃模しもがみ もももも例に漏れず、あくび交じりな返事をした。

話しかけた生徒、陽玉心ひだま こころはそのことを少し心配した様子で問いかける。


「眠そうだね、大丈夫?」

「んー……だいじょぶだよ……心ちゃん……何か用事?」


揺れる体をなんとか正して桃模は心と向き合った。

けれどその目は今にも閉じてしまいそうなほどで、頭もうつらうつらと船を漕いでいる。

それを正そうとしたのか頭を振って上を見上げるかのように一度後ろに大きく頭を動かした。

しかし目が覚めていないためか、そのままの勢いで後頭部を壁にぶつけた。

ゴツッという小気味のいい音がして桃模が動きを止める。

自分の席が壁際でなかったならば或いは避けられていたであろう事態。

しかし残念なことに三日前に行われた席替えで、桃模の席は壁際へと移動していたのだった。


暫くの無言。

桃模はその体勢のまま動かない。

首を反らせ顔は天井を見上げ壁に頭をぶつけたまま微動だにしていない。

心は引き起こすべきなのかどうなのか迷っているのか差し出しかけた手をその場で止めて固まる。

音を聞いて桃模の方を向いた生徒たちも事の成り行きが気になるのかジッと二人を見つめている。

教室の中の時が停止した瞬間だった。


「し、霜上さん? 大丈夫……?」


沈黙を破ったのは心だった。

さすがにそのままの状態で放っておくわけにはいかないと思ったんだろう。

伸ばしかけた手はそのままに心配そうに声を掛ける。

その声は桃模にも届いている筈だが、しかしピクリとも動かない。

そのまま壁に埋まってしまいそうなほどに動かない。

教室の中から少しづつ心配するような声が上がり始めた。


大丈夫なのか?

おい動かないぞ霜上の奴。

起こした方がいいんじゃない?

打ったの頭だし、死んだんじゃね?

いや、あれで死んだらギャグだろ。


など段々とネタのような話まで出始めていた。


「………………痛い」


暫くして桃模が呟いた。

その一言に教室中が一瞬で興味を逸らして自分たちの雑談に戻っていく。

心も安堵の息を漏らして桃模が起きあがるのを待っていた。

まるで亀のような反応速度だったが、壁に頭をぶつける、それが桃模の目を完全に覚ましたようだ。

徐々に彼女は意識をハッキリとさせていく。

細くショボショボとしていた目が開きクリンとした丸い二重の目をパチパチと二度ほど瞬かせた。

そして――――。


「ほいっ! やぁやぁ、心ちゃんっ どったの?」


反っていた首をバネのように壁から弾かせて再び心と向き合う。

そこにさっきまでの気だるさや眠さは微塵も残っておらず、まるで遠足にはしゃぐ子供のようにその瞳は爛々と煌いていた。


「いやいやいやいや、まさかまさか。心ちゃんが話しかけてくれるなんてひっさしぶり~っ! どしたのどしたのっ、何か機密事項っ? 企業秘密っ? 二人だけの秘密って奴ですかっ!」

「違うよ、もう……えっとね、先生が四時限目の教材を運んでおいてほしいって。霜上さん、今日日直だよね?」


その早口に若干押されながらも心は先生より頼まれていたことを桃模に告げた。

しかしその返答に満足できなかったのか、桃模は不満そうに声を上げる。


「えぇ~、それだけの用事~? そんなわけないよー、だってあの心ちゃんだよ? あの心ちゃんがそれだけの用事で話しかけてくるなんてきっと明日には校舎とかなくなっちゃうよ?」


心底嫌そうな顔をして唇を尖らせる。

誰がどう見ても分かる嫌そうな顔だった。

それにしても校舎がなくなってしまうとは随分とスケールの大きい話である。

簡単に言えば非現実的だ。

それを考えながら同時にあの心ちゃんというのはどの心ちゃんなんだろうと心は考えてみた。

考えてみたが結局分からなかったようで。


「そんな嫌そうな顔しないで」


話を戻して諭すように心は桃模に言い聞かせる。

その仕草を見れば子供とそれを言い聞かせている年上のお姉さんだと100人いて100人がそう解釈してしまいそうな場面だが、一応説明しておけば彼女たちは同級生でありクラスメイトだ。

それでも桃摸は口を尖らせたまま文字通りブ―ブ―と声を上げる。


「だってさだってさぁー、次の授業の用意をする生徒なんてコノヨヒロシといえども優等生さん位だよ?」

「そんなことないと思うけど……」

「ところでコノヨヒロシさんって誰? コノヨヒロシが言えどもって無駄に偉そうでなんかむかつくから、昨日テレビで聞いてずっと気になってるんだけど」

「い、いやそれはこの世界はとても広いって意味だよ?」


コノヨヒロシさん、この地球上にいたらごめんなさい。

今とても理不尽な怒りがぶつけられてます。


「ブーブーッ」

「ね、お願い。私も手伝ってあげるから」

「ホントにホントにッ! イエーイ役得ゥッ!」


役得とは本来その行動によって利益や特権があるときに使う言葉なのだが桃摸はそう言った言葉をニュアンスだけで使用してしまう癖がある。

役得、得が付いてるからつまり得をした時に使う言葉、そんな風な考えで桃摸は言葉を使うのだ。

成績は良い方ではない、言ってしまえば寧ろ悪い。

順位は両手で数えられる位置にいる。

無論後ろからだ。

クラスでというところが唯一の救いだろう。

前から片手で数えられる位置にいる心とは天と地ほどの差があった。

ちなみにこちらはクラスではなく学年全体での話である。


「えっと……それでいいかな?」

「いいよーっ、オッケーだよーっ、断る理由は――――なくはないけど」


一応承諾はしたが納得はしていないのか言葉の端にはまだ嫌だと言う感情が残っていた。

それでも桃模が動く気になったのは頼みに来たのが心だったからだろう。

これが先生であった場合ならば彼女はおそらく話を聞くどころか目が覚めていたのかすら怪しいところである。


二人揃って廊下に出る。

休み時間の廊下には二人の他に誰もいなかった。

みな教室で次の教科の準備や雑談をしているようだ。


「どこに行くのー?」

「職員室にプリントと教材を取りに行って、図書室に運ぶんだよ」

「職員室嫌ぁい……」


職員室という一言だけで桃模のテンションが下がった。

本当に嫌そうな顔をしてカクンと首を垂れさせる。


「嫌いでも取りに行かないと。授業に間に合わなくなっちゃうよ」

「授業嫌ぁい……」

「それに授業が長引けば昼休みの時間がなくなっちゃうよ?」

「昼休みは好きーっ」


テンション上昇。

実に分かりやすい性格をしている。

自分に素直というか素直過ぎるというか。

桃模の性格は全校生徒、先生問わず一貫して天真爛漫で通っていた。

誰にでも明るく、誰にでも同じように分け隔てなく接する。

それに加えて桃模は友達が多い。

言い換えれば学校で桃模のことを知らない人間はいない。

友達が友達に桃模のことを伝える。

すると友達の友達が友達になるまでおよそ数時間と掛からないのだ。

そうして桃模の話は瞬く間に全校生徒に広がっていた。

桃模自身も全校生徒を把握するという記憶力を持っている。

それが何故勉強に活かせないかは言うまでもなく単純に好き嫌いの問題だった。


「ねっ、ねっ、心ちゃんっ」


くいくいと横から袖口を引っ張られて桃模の方を向く。

桃模は悪戯っぽい笑みを浮かべて心の顔を覗き込んでいた。

明らかにこれから何かしますよと言わんばかりのその笑みに心は、なぁに? と、まるで気にした様子のない笑顔を返す。

こちらの笑顔には疑いは欠片も含まれていない。

呼ばれたから振り返った、そんな笑顔だ。


「心ちゃんって好きな人いるの?」


悪戯っぽい笑みとは裏腹に、桃模の口から出たのは至って普通の質問だった。

学生が学生にするのに何の違和感もない。

しかし答え難いであろう質問ではある。

少なくとも学生であるならば笑い話にして否定、クールに否定、呆れるような返事。この三択いずれかの返答がオーソドックスなのではないだろうか。

そうしなければすぐに噂となって広まってしまうからだ。

彼女は彼が好きなんだってっ。

そんなニュアンスの簡単な言葉で数日とせずに広がるのは目に見えている。

そうなってしまった折に明るい未来が待っているとは到底思えない。

だから大抵の人間はここで誤魔化すだろう。


しかし心は違った。

少しだけキョトンとした表情を見せた後。


「いるよ」


そう言って笑った。

誤魔化しも否定も嘘もなく、肯定の言葉を返す。


「いるんだっ!」


嬉しそうに心に飛びつく桃模。

彼女の反応も、常人とは少し違うものだった。

囃し立てるわけでも驚くわけでもなく、純粋に心に好きな人が居ることが嬉しいような反応を見せる。


「誰だれっ? 誰なのっ」

「……それ、言うの?」


心は途端に困ったように顔を赤くする。

好きな人がいることを言うことには躊躇いはないが、それが誰かを告げるのはやはり恥ずかしいようだ。

しかしそこまで聞いておいて桃模が引き下がるはずがなかった。

好奇心旺盛なお年頃なのである。


「言うのっ、言わなきゃダメな状態だよ、きっとっ、今っ」


無駄な二重の倒置法だった。

妙に強調された言葉に心は更に困った顔を見せる。

それでも桃模の好奇心を抑えることは叶わない。

尚も聞きたそうに目を輝かせている。


「えっとね……社総真くんなんだけど、知ってる?」


迷った末に結局心は口を開いた。

知っているかを聞いたのは知らなかったらいいなと思っているわけではなく、単に桃模と総真が違うクラスだからである。

尚、全校生徒を把握している桃模にその質問は無用ではあった。


「……………ヤシロソーま?」


桃模は目をパチパチと瞬かせて擦る。

別に目で見たわけではないのでその行動の意味は皆無だった。


「ヤシロソー君って、三組のなんにも言わないあの人?」

「ヤシロソー君じゃなくて、社くん。区切る場所が変だよ?」

「なるほどなるほど。なんだか両方とも苗字みたいな名前だよね!」

「驚くとこそこなの!?」


驚いたように言葉を返す。

驚くところが根本的に間違っていた。

そのことに心の方が驚いたようである。

同時にそうかもしれないと納得してしまった自分を少しだけ反省していた。


「でもでも、どうして好きになったのっ? 何にも言わないし何にもしないし友達居ないし、暗くて怖くて良いとこなさそうだよ?」


好きだと言ったばかりの人が酷い言われようである。

しかし心は、そんなことないよ、とやんわりそれを否定した。


「社くんって結構話すし、いろんなこと知ってるんだよ。それに暗いとか怖い人って感じるのはみんなの勘違いだと思うの」

「話すって、どんなこと?」

「…………………えっと」


当然のように返ってきた質問に対し、心は躊躇うように視線を泳がせる。


「? ……あっ、もしかして人に言えないようなことを二人で話すのっ? 密会だね、密会っ。そしてそのまま二人は……きゃあああんっ」


頬に手を当ててフルフルと顔を振る。

勿論本気で照れているわけではなくわざとだ。


「違うちがうっ、そんなことしないよっ」


こちらは本気で照れて慌てて顔を真っ赤にする心。

湯気が出そうな程にその顔が熱をもつ。

たとえ本当だったとしても誰もが否定するであろう言葉を勿論心も否定した。

しかしその仮定が心の場合少し違う。

真実ではないから否定するのだ。

当然のことのように聞こえるが逆を言えば真実ならば否定しないのである。

そう、心は嘘をつかない。

心は嘘がつけない。


「えっと、ね……いま、忙しい……とか、かなぁ……」


聞いていて可哀相になる程その声は小さく、また遠慮の伴ったものだった。

言ってしまうと社を傷つけてしまう。

心は意識の内ではそう考えていた。

その言葉が決して結構話す、いろんなことを知っている、暗くないし怖くない、ということを否定出来る台詞ではないからだろう。

ちなみに心は途中で止めたがその後の言葉はこう続く。

いま忙しい。話し掛けるな。と、そう続くのだ。

言ってしまえば寧ろ、全てを肯定してしまえる台詞であることは明白だった。

随分とフォローのフの字も出来ていないような台詞を思い浮かべてしまったものである。

思い浮かべて口にしてしまった時点でもう過去には戻れないわけだが、案の定聞いてしまった桃模も何を言えばいいのか分からないといった表情を見せた。

そして結局何も言わなかったのは心に対して気を遣ったのだろう。

気遣うというスキルは持ち合わせているようだ。

天真爛漫であるが傍若無人ではない。


「し、霜上さんはいるの?」


誤魔化すように振った心の質問に桃模は首を傾げる。

話の流れ的に好きな人のことだという思考はしなかったようだ。

しなかったというより出来なかったのかもしれない。

ここで好きな人の話ではなく、例えば両親の話だったとしても桃模はなんの疑問も抱かずに質問に答えただろう。

いないよ、と素直にハッキリと。


桃模の両親は亡くなっていた。

桃模の両親は殺されている。

それを一番知っているのは他の誰でもなく桃模自身だ。


「好きな人、いるの?」


心の二度目の質問に桃模はやはり、いないよ、と答えた。

素直に、ハッキリと。


「あえて言うなら自分かなぁ」


………………………。


そして付け加えるように突然随分と間の抜けたことを言う桃模。

しかし考えようによっては、それは万人が心の奥底で考えていることだろう。

人間が一番大事にするのは変えようもなく自分自身だ。

口にしないだけで誰も皆一番可愛いのは自分だろう。

ただ口にしないだけで。

普通は口にしないだけで。

この場合の普通とは一般的な思考に基づいてとしておこう。


それはさておき、暫くの静寂があった。


「自分……?」


反射的に疑問の言葉を返す。

別にその答えが気になった訳ではなく、ただ本当に反射的に、或いは復唱をするかのように口から出てしまったのだ。

当然と言えば当然だろう。

桃模の口にした言葉は本来口にされない言葉なのだから。

口にするべきではない言葉なのだから。

それでも桃模は、うん、そだよ。なんて呑気な様子でそれを肯定する。


「人ってさ、どんなに他人のことを考えても、結局最終的に大事なのは自分だよね。そのことにだけは嘘をつきたくないんだよね」


今度は心の方が返答に困って黙ってしまう。

確かにそれは事実なのだろう。

桃模が冗談を言っているようには見えない。

だから返答に困っていた。

どんな返答をしたところで桃模の思考が変わるわけでもその事実が変わるわけでもない。

例えそれが事実ではなかったとしても、桃模の中では何も変わりはしないのだから。


また暫くの静寂。


「心ちゃんっ」


その静寂を破ったのは桃模の方だった。

呼びかけられて心はハッとする。


「着いたよ」


いつの間にか二人は職員室の前まで来ていた。

というか心だけ行き過ぎていた。

桃模は職員室の前で入口を指差している。

桃模の言葉を考えてボーッとし過ぎていたのか、心の反応は桃模の言葉を聞いてから数秒ほど間があった。


「あっ、ごめんなさい」


謝りながら慌てたように小走りで桃模の隣まで戻る。

それに対して桃模は何も言うことはないようで、少しだけ苦笑して一歩下がり心に扉の前を譲った。

それがあまりにも自然な行動だったため、わざわざ一歩下がったことに疑問を持ったのはいざ扉をノックしようとした時で、今更口にするのもおかしなことだったため、心はそのまま職員室の扉を叩いた。

コンコンと乾いた高い音が響く。


「失礼します」


そう断りを入れて職員室に入った心に桃模が続く。

入った瞬間に職員全員の視線が二人の方を向いた。

本来なら生徒が入ってきたところで先生全員が向くなどと言うことはまずないだろう。

聞こえた声が心の声だったから全員が向いたのだ。

自分に用事があるのではないかという思考の元に。

実際、心が職員室を訪れるのは珍しいことじゃない。

極秘に集められた情報によれば、週十三回は職員室に来ているそうだ。


「四時限目に使う教材を取りに来ました」


その心の言葉に今度は全員の視線が一斉に外れた。

自分に用事がないのならといった様子で仕事に戻る。

その動作は全員が全員残念そうに見えるものだった。

心は生徒先生問わずあらゆる意味で人気を博している。

しかし本人に自覚がある訳ではないのだけれども。


「教材どこだろ?」


心の後ろから覗くようにして職員室の中を見回す桃模。

すると次の授業の担当教員の机の上に、山積みのプリントとCDラジカセが見えた。

女の子二人で運ぶのに少しだけ重労働にも思える量である。


「あれみたいだよ」


桃模は指差すがその場から動こうとしない。

というか、心の側を離れようとしなかった。

心の後ろに隠れるかのように身を潜め肩を掴んでいる。


「結構重そうだね」


プリントの束を見て心は呟いた。


「そうかな? 軽そうだよ?」


対極的な反応で桃模は答えた。

そのまま心の体を押すようにして教材のところに向かおうとする。

その行動を疑問に思いながらも心は歩き始めた。

机の前について桃模は軽々とプリントを抱え上げる。


「わっ…………」


そのことに心は目を丸くして驚いた。

プリントが重いだとか軽いだとかそんなことは一切関係なく驚いた。

問題なのは桃模が左腕だけでそれを持っているということだ。

片手でお盆に食器を乗せて運ぶウェイトレスのように。

少しでもバランスを崩そうものなら大惨事になってしまうだろう。


「だ、大丈夫? 私も持とうか?」

「大丈夫。落としたりはしないから安心していいよ。心ちゃんはラジカセの方をよろしくね」

「あ、うん……」


頷いたもののやはり心配なのだろう。

チラチラとその視線が何度もプリントの方を向いていた。


「もう、大丈夫だってば」


その視線に気付いたのか桃模は苦笑して職員室から出ようと心の背中に回り込んだ。


「ほら、これならプリントが見えないから気にならないよね?」


そんなわけがなかった。

大量のプリントを持った人が後ろを歩いている。

しかも左腕一本で。

考えただけで無理だった。

何をと問われたならそれはもう色々とである。

主に精神的に。

或いは死角的に。

まだ横に並ばれていた方が見えているだけ安心出来るだろう。

それよりそもそも桃模の方に心配させまいという気がないのだから前だろうが後ろだろうが横だろうが下だろうが上だろうがどこにいても同じことだった。


「早く出よっ」


ズイズイと心の体を押しながら歩き始める。


「ま、待ってっ。ラジカセが――……」

「え? これのこと?」


桃模の指差した先はプリントの束のてっぺん。

不安定なその上にさらに不安定にラジカセが乗っていた。


「わっ、わあぁあっ、待って待って、私も持つからっ!」


慌ててラジカセを引ったくるように取った心に、またも職員室中の視線が向けられた。

ただ、それは先ほどのものとは違い、静かにしてねという無言の重圧がある。


「あ……すみませんでした……」


勿論それに心が気付かない筈もなく、ペコリと頭を下げると逃げるように職員室を後にした。







「あははっ、心ちゃん焦りすぎだよー。それに真っ赤になっちゃってー」


ケタケタと愉快そうに笑う桃模。

心は顔を赤くして恥ずかしそうにラジカセを両手で抱えている。


「だって、職員室であんなに大きな声出しちゃって……」

「みんなに見られてたしね」


その言葉に心はさらに顔を赤くした。


「んふふふ、心ちゃんかわいー」


にやにやと笑いながら桃模は心を眺める。

桃模がプリントを片手で持っているから危ないなどという思考は、もう心の頭の片隅にも存在していない。

職員室の出来事が恥ずかし過ぎて他のことが考えられなくなっているようだった。

職員室で大きな声を出すなど自殺行為に等しい。

怒られなかったのは心だったからだと言っても過言ではないだろう。

寧ろ言い切ってもいいくらいだ。


そうしているうちにようやく図書室に着いた。


「心ちゃん、開けてくれる?」


言われて心は扉を開けて先に中に入った。

桃模はプリントの束をドアに当てないようにして心の後に続く。

図書室には人の気配がなかった。

無人とも感じられる程にシンと静まり返っている。

事実、一見して無人だった。

辺りを見回しても一人も立ってないし座ってもいない。


にもかかわらず、扉のちょうど反対側の窓が一つ開いていた。

左側の窓が全開まで開けられている。

別にこの場は学校だし場所が三階なので、無用心だ、などとは感じなかったが、プリントが飛ばされてしまっては拾うのにも一苦労してしまう。

そう考えてプリントの束を机の上に下ろして、開いている窓の方に向かった。

なんでここだけ開いてるんだろうと疑問を抱きながらも、その窓に近づいて左手を伸ばす。

と――――。


「閉めるな」


聞こえた声に反射的にそちらの方に振り向いた。

左斜め後ろ。

入口からは死角となっている本棚の端。

本棚を背にして、男子生徒が一人座り込んでいた。

真っ黒で目にかかる程度の前髪。

その向こうで睨むように両目が桃模の方に向けられている。


同時にカタンという音がする。

窓が閉まった音だと認識するのに数秒ほど要して。


「…………え?」


随分と遅い反応をして桃模は既に閉めてしまった窓に目を向ける。

振り向いたが手は止まらず、制止の声は驚きで耳を通り抜けていた。

暫く桃模のことを睨んでいたが、一息溢して窓のことはもうどうでもよさ気に持っていた本に目を落とす。

顔を落としたことで両目はサラリと垂れた前髪に隠れてしまった。

それだけでその瞳はどこを見ているのか分からなくなる。

おそらく今は手元の本に向けられているだろうけれど。


桃模はその様子を興味深げに見つめていた。

何か気になることがあるのかジッと見つめ続けている。

その視線の先に移るのは男子生徒か。

或いはその手元にある本なのか。

とにかく珍しげに、目を何度も瞬かせて見つめている。

その足が一歩、男子生徒に近づいた。

そこを始まりとしたのかは分からない。

しかし、桃模の行動は確かにそこから始まった。


「ねぇっ、ねぇっ、何読んでるの?」


まず話しかけ始めた。

初対面の、会って数分しか経たない男子生徒の手元の本を話題として。

それが本当に本が気になって出した話題なのか、男子生徒と会話をするための話題なのかは分からないが、とにかく話は始まった。


「ふん……」


そして終わった。


鼻から漏らすように吐いた一息で、男子生徒は逃げるように横にずれた。

端的に言えば、無視である。

桃模はその日、学校生活で初めて、無視されるという行為を受けた。

それが引き金となったのかは分からない。

しかし、男子生徒のその行動は結果としては最悪だった。

状況を悪化させるには十分すぎた。

桃模はますます興味を示したようにジッと男子生徒を見つめている。

そのままそっと隣に座り、あろうことか寄り添うように体を寄せて本を覗きこみ始めた。

初めて会うにしては随分と馴れ馴れしい行動である。

しかしそれが霜上桃模という女の子だった。

彼女にとってそれが普通であり自然体なのだ。


「んー……ぎがん、の作り――い?」


体ごと位置をずらして座り桃模から遠ざかる。

桃模の体はそのままごろんと床に寝転がった。

その程度でめげる筈もなく、体を起して今度は正面に座った。


「義眼って、偽物の眼のことだよね? どうしてそんなもの見てるの?」


馴れ馴れしいを通り越して図々しくなった。

既に友達のような感覚で話しかける桃模に対して、その生徒は変わらない様子で無視をして本を読み続ける。


「霜上さん? どうしたの?」


しかし次に聞こえてきた声にパタンと本を閉じた。

今までまったく反応を示さなかった生徒が、即座に立ち上がって逃げるように歩き始める。


「あっ、心ちゃんっ、この人が――」

「あれ? 総真くん?」

「えっ、そーまくん? この人がヤシロソー?」


わざと間違えていたことが発覚した。

何故間違えたがるのかは不明だが、わざわざ言い換えたところをみるとわざとなのだろう。

そんな桃模と心のやり取りを無視して総真は歩いていく。

けれど制服の袖を引っ張られて足を止めた。

引っ張ったのは桃模である。

逃がすまいとしているのかしっかりと掴んで握り込んでいた。

それを一瞥して逃げることを止めたのか再度二人に向き直った。


「ねっ、ねっ、ヤシロソー」


桃模は呼び方は変えないようである。


「なんだ、女」


対してこちらは固有名詞だった。

しかしそれは呼び捨てにされた仕返しというわけではなく、単に総真の癖のようなものである。


「ヤシロソーって好きな人いるの?」

「し、霜上さんっ!?」


もはや図々しいということを説明する必要性もないだろう。

相手を固有名詞で呼ぶことが総真のくせというならば、好きな人がいるかを尋ねるのが桃模の癖なのだ。

誰でも彼でも聞いているわけではないが、それでも聞きたいと思った人には構うことなく聞いているのも事実。

そこに仲の良さや時間は関係していない。

初対面の総真に聞くぐらいだ。

見境なさそうでもおかしくはないが。

しかしそこはきっちりと桃模なりの区別があるようだ。


「答える義理はない」

「ある!」


まるで答えないことが分かっていたかのような迷いのない即答だった。

心は戸惑った用に桃模と総真の顔を交互に見ている。

が、内心は聞きたくてたまらないといった様子だった。

自分の好きな人に好きな人がいるのかいないのか、それは確かに気になるだろう。


「そんなことを聞いてどうする」

「知りたいのっ」


返答なのに答えになっていない。

しかし総真を見つめるその瞳は真剣そのものだった。

暫くの沈黙。

そして呟くように総真は答えた。


「知らない」


答えたが返答ではなかった。

いや、返答ではあったかもしれないが少なくとも桃模が求めている答えではない。

呆れたような様子も諦めたような様子も見せず、表情を変えないままに桃模に向き直った。

そこで初めて総真の顔を見た桃模が驚きに目を見開く。

その左眼には光が宿っていない、即ち義眼だった。

黒ではなく灰色のような薄い青のような、そんな色をした瞳。

ただそこにあるだけのもの。

存在するだけのものだ。

そしてもう一方はとても澄んだ蒼い色をしていたように見えた。

しかしそれは本当に一瞬の出来事で右眼はすぐに黒へと色を変える。

光の当たり具合で見間違えたのかもと思えるような時間。


「知らない……?」


そしてまとまらない思考のまま言われたことを復唱した。

その返答が気に入らなかったのだ。

少し、声に苛立ちのようなものが交じっている。

怒りを抑えるような声は少しだけ震えていた。


「知らないってどういうこと?」

「言葉通りの意味だ」

「自分のことなのに知らないわけない!」


叫ぶように上げるた桃模の声が誰もいない図書室に響く。


「なぜ大声を出す」

「総真くん、真面目に答えないことに怒ってるんだよ」


返答が意外なところから返ってきた。

嗜めるような口調で心は総真に叱る。


「ダメだよ、女の子をからかったりしたら」


その言葉に総真は押し黙ってしまう。

まるで叱られた子供のように、返す言葉が見つからない様子で黙り込んだ。

その様子には桃模も少し驚いたようで、怒りも忘れて二人を見つめている。


「……あえて好き嫌いで答えるなら」


今度は呆れて諦めたようにため息をついて答えた。


「人間は嫌いだ」

「えぇぇえええっ!?」


声を上げたのは心だった。

好きな人がいるいない以前の問題だと発覚したからである。

ならば自分は動物になればいいのだろうかなどと真剣に悩み始める心。


動物となって総真に飼ってもらう。

もしかして総真はそういう趣味の持ち主なんだろうか。

端的に言えばサディスト。

人を飼うことで好きになる。

そして…………。


心の妄想が暴走する。

頭が沸騰しそうなほどに。

勘違いしてもらっては困るのは心は決して人に飼われたいとか思うキャラではないということだ。

決して心を色ものと思わないであげてほしい。


「嫌、い……」


別次元に旅立ってしまった心と並ぶように放心してしまう桃模。

まるで、今までずっと待ち焦がれていた人に出会ったかのように目を見開いたまま口を半開きにして立ち尽くす。

ぽかんと開いていた口が徐々に両端から吊り上がり始めた。

声には出さないものの表情を見れば心底嬉しそうな満面の笑みを浮かべる。

例えるならそれは架空の存在である巨大なネズミのようなハムスターのような、そんな生き物に出会った5歳の少女の笑顔だ。


「はっ……」


息を吐くような声がした。


「ふっふっ……」


続けざまに二度同じような声を漏らす。


「くっ、くくっ……」


今度は三度、何をしているのかは明白だった。

彼女は堪えているのである。

しかし、我慢などそう長く続くものではない。


「ふふふふ、あはははははははっ」


堪えきれないといった様子で桃模は笑い出した。

図書室ということも忘れて何を気にするでもなく、何も気にすることなく大声で笑う。

その笑い声に旅立っていた心が戻ってきたようで状況を把握しようと再び二人を交互に見始めた。

笑いまくる桃模に無表情の総真、その二人を交互に見る心。

端から見たら随分とシュールな光景である。


「ふはっ、は、くくくっ、あっ、はぁ、ふぅ……はあぁ……」


一頻り笑った後、息を整えて再び総真と向き合うと、もう一度フッと吹き出した。

しかし、今度は笑い声を上げるまでには至らない。


「人間は嫌いかぁ……初めて聞いたよそんな答え。いやぁ、笑った笑った、久しぶりだよこんなに笑ったのは、思い出したらまた笑い出しそうに、ふふっ……あ、ダメだ、思い出しそう。くくっ、まぁ、もう我慢できないほどじゃないけど、でも、随分と面白いことを言うねぇっ」

「そうか。質問は終わりか?」

「あっ、あともいっこ」


ピッと人差し指を立てて総真を指差す。

正確に言えば総真の右眼を指差していた。


「さっきのは、見間違いかな?」

「……何の話だ?」

「んー……視力には自信があるんだけどなぁ」


続いて、じぃっと総真の顔を覗き込む桃模。

正確に言えば右眼を覗き込む。

それはいいのだがその距離が近い。

少しでも動けば鼻と鼻が当たってしまいそうな距離だ。


「し、霜上さんっ。ち、近いよっ」


慌てて心は桃模の体を引っ張る。


「あっ、うー、もぉ。心配しなくてもキスなんてしないって」

「そうじゃなくて! ……それもあるけど……でも違うの! ほらっ、もうすぐ授業だからクラスの人達が来ちゃうよ。みんなに見られたら絶対に誤解されちゃうと思うし……そんなことになったら霜上さんも困るよね?」

「……んふ、心ちゃんは相変わらず可愛いなぁ」


心の質問に対して見当違いのことを言って、桃模はもう一度総真の方に向いた。


「その右眼、凄くきれいだね。青い色」

「青……?」


心も桃模と同じように総真の眼を見る。

しかし、その色は義眼の灰色と普通の黒色だ。

蒼い色など見えない。

かろうじて青に見えなくもないのは左眼だ。

それでも見間違えでもしない限り、そうは見えないだろうけど。


「お前は、どうして右手を使わない」


対して総真は質問を返した。

気になっていたことを聞いたというより、口調は嫌なことを言われたから言い返したといった感じだった。

まるで子供の喧嘩のように。

そしてそれが事実であるのか桃模は黙ってしまう。

そう、何をするにも彼女は右手を使わなかった。

図書室のドアを開けるときは心に開けさせて、窓を閉める時も左手、総真の眼を指差したときも全部左手を使っている。

その前を言うならばプリントの束も左手一本で抱えたのだ。


「……んふ」


桃模は笑った。

思い出し笑いをするように笑った。

思い出されるのは血溜まりと肉塊。

真っ赤に染まった、室内と身体。

そんな中で吊り上っていく口元の感覚。


「それはね」


そして更に不気味に口元を歪ませて言葉を続けた。


「壊したくないからだよ」


それが、総真と桃模のキーワードとなる言葉。

太陽が真上に到達した時間帯。

ちょうど、四時限目の開始のチャイムがなる五分前の出来事だった。


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