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第一話 木枯らし

 

 R15作品、性表現を含みます。

 苦手な方、15歳未満の方は、ブラウザバックでお戻りください。


 似非江戸風味、全六話の予定です。

 

 辰次が足を止めたのは、その娘の表情がひどく暗かったせいだ。

 立ち止まった拍子に首筋を木枯らしが撫で、慌てて綿入れの前をかき合わせた。掛け行灯に明かりがともり始め、軒を連ねた料理茶屋や水茶屋は賑わいを増してくる刻限である。

 茶と(ねず)の縦縞に柿色の前垂れを掛けた娘は、年のころ十七・八、近くの茶屋の小女のようで、こぎれいな面立ちをしていた。

 娘は、枝ばかりになった寂しげな柳の下で、どんよりした池の水面を見つめて動かない。かげりを帯び、思い詰めた様子なのが、辰次には気がかりだ。

「お峰っ、なに油売ってんだい。忙しいんだから、ぼんやりするんじゃないよ」

 茶屋の一軒から(けん)のある声が響く。お峰と呼ばれた娘は、悪戯を見つかった子供のように首をすくめた。

「すいません。今すぐ」

 小走りに駆け出そうとして、こちらを見つめている辰次と目が合った。一瞬驚いたように目を見張ったあと、辰次を岡っ引き(おかっぴき)と見定めてか、丁寧に頭を下げると、店の裏口へと回った。

 辰次は、しばし腕組みして記憶を手繰り寄せる。

 お峰が入っていったのは、最近代がわりして(おつ)な酒肴を出すようになったと評判の、料理茶屋である。味噌仕立ての猪鍋を、風味のいい粉山椒を振って供すという。辰次の懐具合ではそうそう立ち寄れない店であるから、味わう機会もないが、それでも噂話を思い出すだけで腹の虫が鳴った。

 元より、気がかりな事は、見届けずにおれない性分なのだ。加えてこの寒空である。軽く肩をいからせると、辰次は『相模や』と染め抜かれた暖簾をくぐった。

 明るく弾けた「いらっしゃいまし」の声と、低く遠慮がちな辰次の声とが交錯する。

「忙しいとこ、すまんな。邪魔するよ」

「あら……親分さん、お役目ご苦労様でございます。今日は、ご用の筋でございますか」

 顔に貼り付けた笑顔は同じだが、辰次の顔を見分けた途端、声の調子は幾分か冷ややかになった。

 吊り目がちの狐に似た雰囲気の女で、微笑むと口元に愛嬌がある。年の頃、風体から見て、腰を痛め隠居した『相模や』先代に代わって采配を振るっている、おせんという後添いの女だろうと、辰次は当たりをつけた。

 おせんはさりげなく身を寄せ、辰次の手に僅かばかりの金子(きんす)を握らせる。書き入れ時だから、これで大人しくお帰りくださいと、いわんばかりだ。

 そんなあしらいには慣れっこなので、素知らぬ顔して金子を(たもと)に滑り込ませると、

「こう寒くっちゃあ、ねぐらまで真っ直ぐたどりつけねぇ。熱いのを一本つけてくれねぇか」

 伝法な口調でいい、どんぐり眼でおせんの顔をじっと見た。

「辰さんは、伏し目がちにしてれば、それなり男前なのにねぇ」と、辰次がねぐらにしている長屋の内儀さん達が陰口を叩く、特徴ある眼だ。目を見開くと、ぐりっとした大きな瞳が子どものようにきらめいて、邪気のない顔になる。知らず知らずのうちに、人の気を緩ませるのだ。

 おせんは辰次を、帳場の奥に案内すると、膳を運んでいた娘に、

「大急ぎで熱いのを一本、こっちにも持ってきておくれよ」

 と命じた。

 『相模や』は入れ込み座敷の他に、幾つもの離れがあり、忍ぶ仲の逢引にも重宝されているという噂である。おそらくは離れへ膳を運ぶであろう、先ほどお峰と呼ばれていた娘を見送って、

「可愛い娘が入ったねぇ。もちっときれいななりをさせたら、看板娘になるんじゃねぇのかい」

 火鉢にあたりながら、辰次はおせんにいう。

「あたしもそう思うんですけどねぇ」

 そう答えるおせんの顔は、何やら苦虫を噛み潰した風だ。

「実家で臥せってる父親のためにも、もっと稼げる手だてはあるんだよって、いって聞かせてるんですがね。当の本人にその気がなくって」

 もっと稼げるとは、場合によっては色も売るという意味だと、辰次は察した。

 『相模や』に限らず幾つかの店では、客の望みと銭次第で、商売をする女たちもいるという。もちろん、大っぴらな商いではない。

 そのうちの幾ばくかは、女将であるおせんの懐にも入るのだろう。辰次は適当な相槌を打ちながら、細身のわりに脂の乗った、おせんの首筋を眺めた。

 酒を運んできた、お峰の後ろから、「女将さん、藤の間にご挨拶を願います」と声がかかる。おせんの店は、なかなか繁盛しているようである。

「すまねぇな。名はなんていうんだい」

 おせんが中座した奥の間で、酌を受けながら辰次は訊ねた。

「お峰と、申します」

 辰次が杯を干すと、お峰は今にも笑い出しそうに、口元に手を当てている。先ほど池の傍で見た表情とは打って変わって、年相応の愛らしさがあった。

「どうした。俺の顔になんか付いてるか」

「親分さんとは、ずっと以前にお目にかかった事があります」

 辰次のどんぐり眼を、ますます大きくさせるような事をいった。

 お峰の生家は、王子稲荷参道の茶店だという。探索の折に辰次が立ち寄ったのが五年ほど前だと、お峰は遠い目をした。辰次がちょうど、茂蔵親分の下で働き始めた時分である。

「たった一度立ち寄っただけなのに、よく覚えていたなぁ」

 つきだしの、よく味の染みた蒟蒻(こんにゃく)を口に放りこんで、辰次が呟くと、

「親の手伝いをして偉いねぇと、ほめてくださいました」

 お峰も懐かしそうに微笑む。笑うと細められる目元や花がほころんだような唇に、陽だまりで甘酒を啜った日を思い出した。

「おお、あん時の」

 ぽんと膝を打つ。

 参道を歩けばほのかに梅が香る季節で、しゃちこばって茶を運ぶお峰と、それを心配そうに見守る茶店の親父の姿があった。

 格好をつけてお峰に声をかけたは良いが、後ろで茂蔵親分に「調子に乗るんじゃねぇ」と小突かれたのを、懐かしく思い出す。その茂蔵も、二年前に鬼籍に入っている。

「おとっつぁん、おっかさんは、どうしていなさる」

 訊ねた途端、お峰の表情が曇ったのを、辰次は見逃さなかった。

「おとっつぁんは病で臥せっております」

「そうか。お峰ちゃんも色々と大変だな」

 労るようにいっても、お峰の屈託した様子は晴れない。

 廊下が急に騒がしくなり、酔客に愛想をいうおせんの声が聞こえた。

 ふいに、お峰は縋るように辰次を見つめ、

「あの……私が此処に居ることは、家には内緒にしてください」

 深々と頭を下げた。

「内緒って、お峰ちゃん、そりゃあ……」

「どうか、どうかお願い致します」

 額を畳に擦りつけ、重ねて懇願する。

 辰次が弱り切っていると、酒の匂いをまとわりつかせて、おせんが戻ってきた。それを潮に、辰次は腰を上げた。

 暖簾の向こうは今にも風花がちらつきそうな按配(あんばい)で、外気の冷たさに首をすくめていると、見送りに出たおせんが耳元で囁いた。

「お峰にはね、悪い男がついてるんですよ」

 酒と博打に明け暮れ、女からうまい汁を吸って生きているような男と、おせんは吐き捨てるようにいった。時三郎というその男の名と、お峰と一緒に暮らしているねぐらの場所を聞き出して、すっかり日暮れた通りを歩き出す。

 辰次の脳裡には、梅の香に包まれた朗らかなお峰の姿と、池の傍で立ちつくすお峰とが、交互に浮かんだ。その二つが繋がるようで繋がらない。魚の小骨を呑んだような面持ちで、辰次は大きなくしゃみをした。


 ◆


 木枯らしの吹く夜はものを思うかな

 涙の露の菊襲(きくがさね)


 夜半、疲れきった身体を引きずって、お峰は家路を急いでいた。どこからか、風にのって小唄が聞こえてくる。

 客に勧められて飲んだ酒で、胃の腑のあたりが熱く、気分が悪くなるほどだ。なのに、手足はひどく凍えていた。お峰はあまり酒が好きではないが、時には飲むのも仕事のうちである。冷え切った指先を擦り合わせ、温めようと息を吹きかけてみる。

 俯いていると心まで暗くなる気がして、冴え冴えとした三日月を見上げた。

「お天道さまやお月さまは、良いことも悪いことも、みぃんな照らして見ていなさるよ」

 父母に、そう教えられて育った、お峰だった。

 時三郎の誘いに応じて、駆け落ち同然に出奔してからというもの、生まれ育った家を忘れた事はない。

 小さな裏庭で飼っている鶏たちに毎朝餌をやるのは、お峰の役目であった。卵を産んでいれば朝の膳に供され、おとっつぁんが啜る粥の真ん中に、ぽとりと黄身が落とされる。卵色した米粒を見つめていると、「お峰にもひと口やろうな」と、おとっつぁんは茶碗を差し出すのだ。それを微笑みながら眺めている、おっかさんの顔。けして裕福ではないが、優しさに包まれていた日々を思い出す。

 あの取り澄ました横顔みたいなお月さんは、父や母が眠っている部屋も、照らしていなさるだろうか。そう考えると、お峰は胸が締めつけられるような、遣る瀬ない気持ちになった。


 寝静まった棟割長屋の、あまり建てつけの良くない引き戸を、苦労してそっと開ける。時三郎はまだ帰っていない。寝床は、今朝お峰が出かけたときのままだ。

 火鉢の炭をおこし、凍えた指先を温める。人形ひとがたに脱ぎ捨てられた夜着よぎは、時三郎のかたちが、まだそこにあるように思われた。

 「時さん」

 小さく呟いて、蒲団をそっと撫でる。

 今日、昔のお峰を知っている親分さんに、出会ってしまったよ。ねぇ、どうしよう。またどこかへ逃げないといけないのかな。

 いない男の匂いを嗅ぐように、お峰は結髪のまま身を伏せた。頬に触れる夜具は、しんと冷たくて、心まで寒々とする。

「重ぬる夜着も一人寝の……」

 小唄の続きをくちずさむと、涙がはらりと落ちた。




 ◎知っているとわかりやすいかもしれない用語集


・岡っ引き( おかっぴき )……御用聞きとも。町奉行所(江戸の警察機構)同心の個人的な手下で、密偵通報の役目をしていました。公的に認められた仕事ではないので、給金は同心から貰う小遣い程度だったようです。


夜着よぎ……袖と襟のついた大型の着物のような形で、綿が入ったもの。冬用の掛け蒲団にあたります。

 

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