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驚いた父の顔を見るのは初めてかもしれない。

でもいまはそんな感慨に浸ってる余裕なんてなかった。

ちょうど信号のためスピードを落としていたので、転んだりはしなかったけど、周りからの注目は浴びているかも。


駆ける私の背中でクラクションが何度も鳴っているが、構いやしない。


予想通り、誰も追っては来ない。

学校までの道のりをただ走る。


「…ふふ」


家に帰って、どんな顔で父や母が迎えてくれるかは分からない。

もしかしたらもう二度と外出することを許してくれないかもしれない。

父に背いたことなど、一度もなかったのだから。


――でも、今は単純に、わくわくした。


ハルの影響もあるのかもしれないけど、彼女は諦めない姿勢を教えてくれたから。


…急ごう。意外と時間がない。

父と一緒に出たのは昼過ぎ。

今はもう少しで四時になる。もうすぐハルのピアノが始まってしまう。


「おい、お嬢様!」


見ると、自転車に乗った八俣君がいた。


「八俣君!」


「乗れ!」


自転車に二人乗り。まず自転車に乗ったことがない。

分からなかったけど、後ろに座れそうな椅子があったから腰かける。

こぎ始めは遅かったけれど、すぐにスピードが出できた。


「八俣君、なんで分かったの?」


「歴史部のネットワークなめんなよ。

話は後だ。音楽室でいいんだよな?」


「うんっ」


仕上がりは、悪くないはず。

でも練習では楽譜を見ないで弾けたことはない。

いつも最後のパートで音を間違ってしまう。

…でも、きっとハルなら。


「着いたっ! 行け!」


校門の中まで自転車で入る。

まだピアノの音はしない。私は再び走った。

誰もいない音楽室までの階段を駈け上がる… 


「…あれ、かおりさん?」


途中で、後ろから声をかけられた。

振り返ると稲葉くんが、白衣でビーカーを片手に立っていた。


「今日、お休みじゃなかったの?」


そののほほんとした空気は、優しさに溢れていたけど…私にとっては。


「休んでる場合じゃなかったのよ、今日はね」


つい強めの口調になってしまった。

でも、彼がフラフラしてるからハルがあんな目に合ってるのかと思うと。


…急ごう。

音楽室はこの上だ。


扉を開くと同時に、ピアノの音が滑り落ちてきた。

背中を向けて弾いているハル。

彼女を囲っている女の子達が、稲葉ファンクラブの人たちか。

髪の毛やまつげなど、おしゃれを意識していて確かに可愛い。


ハルは私が開けた扉の音に気づかないほど集中しているようだった。

順調な序盤…また練習を重ねていたのか、上手くなってる。

でも問題は最後のパートだった。

自然と祈るように指を組む。


…お願い…!





―――最後の一音まで、完璧だった。


いつの間にここまで弾けるようになったんだろう。

ハルはすごい。本当に、すごい…。


「かおり!」


私に気づいていたのか、弾き終るとハルはすぐにこちらに飛び付いてきた。

嬉しかったみたい。私も自分の事のように嬉しい。


「喜んでるとこ悪いけどぉ」


水を差すような(明らかにそうなのだが)、大きな声。

振り返ると女の子達がくすくすと笑っている。馬鹿にするように。


「ごめんねー?

渡した楽譜、ちょっと音違ってるみたーい。

あの通りに弾いたんなら、全然違う曲だよー?

やっぱり音楽はさー、原曲通りに弾かなきゃねぇー?」


ぱらぱらと頑張るをめくる指つきが嘘臭い。

驚くハル。

どうやらあらかじめ渡す楽譜に細工をしていたようだ。

そして練習した曲を指摘する。…低俗なやり口。


「知ってたわよ」


だが、それをそちらから言ってくれるんなら。


「ツェーゼルの『永久の偽り』でしょ?

私もコンクールで弾いたから懐かしかったわ。


…だから、違ってた部分、直したわよ?


もちろん…全部ね」


ハルにも言ってない。

恐らくは罠だと知っていたから、こっそりと直したものを教えていた。

何十年ぶりかの曲なので、家で調べ回して大変だった。

私の言葉に、リーダー格の女の子が、悔しそうな顔。


「あ、あなたは、ハルの友達だから発言権なんてないのよっ!

他に第三者がいなければ意味ない…」


「いやぁー、ツェーゼルの曲なんてすごいねぇ」


突然の声にその場にいた全員が息を飲む。

のんびりした調子で乱入してきたのは、稲葉くんだった。


「い、いなば、さま…」


「皆で何してるの? 音楽の課題曲?

それにしてもハルがピアノなんてすごいねー。

しかもあの有名な難関曲じゃない。

隣で聴いてて、思わず入ってきちゃったよ。


…ごめんね?」


「…い、いいえ?

あ、…み、皆さん、そろそろおいとましましょ?

それではハルさん、ごきげんよう!」


ものすごい勢いで音楽室から出ていく女の子たち。

そして静まり返る空気。


「…ハル、また僕を賭けて無茶したの?」


稲葉くんは怒ってるんだろうか?

顔を伏せているから分からない。


「あー…えーと…」


ハルはイタズラが見つかった子供みたいに、分かりやすくうろたえている。

嘘のつけない彼女らしい。


「稲葉くん、ハルを怒らないであげてよ。

ハル、すっごい練習したんだから!」


二人のことだけど、つい口出しをしてしまった。

真実、ハルは頑張った。

私がやったことじゃないけど、見てたから。

彼女の頑張りを。


私の言葉に驚いたのか、稲葉くんは優しく微笑んだ。

空気が柔らかくなる。


「…かおりさんに、免じて。

でも!だめだよ、無茶しちゃ。


僕だって…ハルのこと、心配するんだから」


優しい稲葉くんの顔。

もう、目が好きだって言ってる。

…ここまで好意がむき出しなのに…


「べ、別に、心配される覚えなんてないわよ!」


赤い顔で憎まれ口を叩いて、ハルは音楽室を飛び出した。

…当のハルがこれじゃあ、ね…。


「…ごめんね、かおりさん。

ピアノ、教えたの君でしょう?」


はぁとため息をつく稲葉くん。

なんだか彼の方も可哀想に見えてきた。

恐らく分かりやすく行為を伝えているのが、周りの女の子達にも分かっているのだろう。

それになかなか応えないハルが羨ましいというのも、正直あるのかもしれない。


全く…それなら男気を見せればいいというのに。

なんだか見ているこっちがやきもきする。


「いいえ、覚えも早かったから。

私も得るものばかりだったし、…刺激的だったわ」


そう?と微笑んで、爽やかに音楽室を出る稲葉くん。

…ハルを探しにいくのだろう。

なんだか本当に王子さまみたい。


「…家の方はいいのかよ、お嬢様?」


入れ替わりに八俣くんが音楽室に入ってきた。

どこで仕入れたんだのだろう…どこまで知ってるんだろうか?


「いや、車から出てきたのを見たから、カマかけただけさ。

詮索してごめん」


私の目線に慌てて謝る。

そんなに冷たい目をしてたんだろうか…申し訳ない。


「ううん、心配してくれたんだよね?

…ありがとう」


「あ、いや…まぁ…」


八俣くんはここまで私を送ってくれたんだ。

お礼はきちんと言わなければ。

私が『串灘』だと解りつつ、きっと探しに来てくれたんだ。


「私も、向き合わなきゃ」


諦めてたのかもしれない。

これまでずっと、父と向き合うことを。


「一人で無茶すんなよ?

今日だって、ハルがお嬢様を探しにいくってうるさかったんだからさ」


…嬉しかった。

待っててくれたんだ。


「ありがとう。でも、八俣くん」


「ん?」


「かおりって呼んで。お嬢様ってくすぐったいわ」


「……………ど、努力する」



私の運命は変わっていく。

敷かれたレールに感謝しつつ、自分の気持ちを持って変えていこうと思えた。



皆の仲間に入れてもらえて良かった。




さぁ、未来のはじまりだ。

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