【4】
アストリッドは、荒れ地の平野を森へ向かって一直線に駆けた。
懐には、護身用の銃を忍ばせてある。
やがて、先程、獣を見掛けた付近へ辿り着いた。アストリッドはゆっくりと馬を進めながら、暗闇に目を凝らし、しんと静まり返る森の中にその姿を探した。
そうやって暫くの時間、森の入口付近を彷徨いていた。
「坊っちゃんー!」
不意に、遠くからコラードの呼ぶ声が聴こえた。こちらの姿が見えないので進む方角に困っている様だ。
「こっちだ!」
アストリッドが返事をすると、「あっちだ」「森の中に居る様だ」等と口々に言い合う、数人の男達の声がした。コラードが集めた、集落の男達だと思われた。
その時だった。
アストリッドは、木々の向こうの暗闇に、光る二つの獣の目を見付けた。
ジェイクの部屋の窓から見えた獣だろうか……?
随分遠目だったので、確信は無い。
「…………」
獣と目が合った。
不思議と、恐怖は感じなかった。
アストリッドはゆっくりと後退りながら、じっと闇の中の生き物を見つめた。
不意に、獣がふわりと動いて頭上の太い枝に飛び乗った。靭やかな身のこなしと長い尻尾が暗闇でもはっきりと確認出来た。
それは、真っ黒な豹だった……。
実物を見るのは初めてだったが、獣が猫でない事は確かである。
黒豹は、口にキラリと光る何かを咥えていた。
「坊っちゃん!」
「ジェイク!」
直ぐ後ろで、コラード達の声がした。
黒豹がハッとした様に首をもたげた。
「…………」
アストリッドが懐の銃を意識しながらも黙って見ていると、黒豹は迫ってきた人間達の気配から逃れる様に、サッとその身を翻した。その時、黒豹が口元の何かを地面に落とした事にアストリッドは気が付いた。
次の瞬間……黒い獣は、森の闇に溶け込んで消えた。
アストリッドは、直ぐに黒豹がいた木の根本に駆け寄った。
「坊っちゃん、大丈夫ですか……!」
「此処だ!」
アストリッドが返事をすると、漸くコラード達が追い付いて来た。そうして、アストリッドが地面から拾い上げた物を不思議そうに覗き込む。
ランプの明かりに照らしてみると、それは銀色のロザリオだった。
* * *
窓の外を、忙しなく松明の灯りが行き交っていた。
森の中に、大型の肉食獣の姿を見た……そう、アストリッドが大人達に報せたからだ。
但し、それが黒い豹だったとは、まだ誰にも言っていなかった。理由は何故か分からない。あの黒豹と目が合って、恐怖を感じなかったからかもしれない……そんな事を思う。
それに――。
アストリッドは、手にしていた銀色のロザリオをしげしげと眺めた。
あの黒豹は、まさかとは思うが……これを、わざとアストリッドの目の前で落として行ったのではないかと思われる節があった。
「…………」
間もなく保安官と街の自警団や猟師がやって来て、大掛かりな獣の捕獲作戦が始まるだろう。同時に、帰らないジェイクの捜索も行われる筈だ。
時刻は既に、真夜中に近かった。
その時、ルッソ家の玄関の扉をノックする音が聞こえた。
「夜分に恐れ入ります。何方かご在宅でしょうか?」
聞き慣れた声だった。
「はい」
留守を預かるアンナが、パタパタと玄関に駆け寄った。
アストリッドも、ロザリオをポケットに仕舞い、アンナの後に続いた。
開いた扉の向こうに現れたのは、アレシスと……渋い顔をしたジャックだった。
「ジャック様!」
驚いたアンナが、ジャックに深々と頭を下げる。
「そう畏まらなくともいい。話は聞いた……息子が世話になったな、アンナ」
「勿体無いお言葉です。夫は今、表におります……――どうぞ、お入りになってお待ち下さい」
「うむ」
アンナに促され、二人がルッソ家に足を踏み入れた。
「ジャック……」
勝手に屋敷を抜け出して、ジェイクの両親に面倒を掛けた事……それらをどう申し開きをしようかと考えたが、何の言い訳も頭に浮かんで来なかった。
そんなアストリッドと目を合わせ、ジャックは暫く顰め面をしていたが、やがて、困った様に微笑んだ。
「あまり心配をさせるな」
そう言って、彼の大きな手がアストリッドの頭を乱暴に撫でた。
「ごめんね」
「いつも独りにさせてしまう、私が悪いのだがな……」
素直に謝ると、ジャックは少し哀しそうな顔をした。
誰も真実を突き止めることは敵わなかったが、ローゼンタール家前当主を襲った事故には、おかしな点が多かったのだという。
この事故で、ジャックの両親は死んだ。
大怪我を負いながらも、かろうじて生き残ったジャック。
若干十七歳だったこの少年が、その日からローゼンタールの当主となった。
しかし、それからもおかしな事は続いた。
飼っていた犬が、突然死んだ。
原因の判らない病で、ジャックは何度も倒れた。
危うい馬車の事故も多かった。
ジャックは年々、誰も信じなくなっていった。
親族を……いや、親族をこそ最も遠ざけ、どんな良縁にも見向きもせずに、妻を娶ることは一度も無かったのだと言う。
そうして、ジャックはいつしか、人々から冷酷な王と呼ばれ、周囲から恐れられる存在になった……。
アレシスが一度だけアストリッドに語った、それがジャックの過去である。
* * *
階下に大人達が集まり、領主であるジャックも交えて話し合いが始まった。その間、アストリッドはジェイクの部屋で待たされる事になった。
アンナがベッドを整えて、そこで眠っても良いと言ってくれたが……アストリッドは、とても寝付けそうにはなかった。
階下はざわついているし、友人の身が心配でもある。
(ジェイクは一体、何処へ行ったんだろう……?)
ベッドに足を投げ出しながら、アストリッドはポケットのロザリオを取り出した。繊細な細工の施された少し風変わりなデザインの星十字が揺れている。暫くそれを眺めていた……その時だった。アストリッドは何かを思い出した様にハタとしてベッドから起き上がった。
ジェイクの鞄は、まだ床に転がったままだ。そこから、例の本も顔を覗かせている。
アストリッドは、緑の皮の表紙の本をそっと手に取った。
「…………」
間違い無かった。本の表紙には、古びた金具の装飾が施されている。しかもその装飾は、森の中で黒豹が落として行った、銀のロザリオと同じ星十字のデザインだったのである。
背表紙にある本のタイトルは『アクシオンの翼』。著者の名前らしき部分は表紙の劣化で殆ど判読不能だったが、辛うじて『リヒター』という綴りだけは読み取ることが出来た。
だが……――。
アストリッドはギョッとした。
「禁書だ……」
そう、思わず呟いた。
本の背表紙に、星教会の焼印があった。星十字とはまた違う、特別な紋章である。アストリッドは、それが〝禁書〟の印なのだと授業で習った事を覚えていた。禁書とは、内容があまりにも危険であったり有害であったりする為、国と教皇庁が、所持も閲覧も禁止している書物の事である。当然……ただの学生であるジェイクが持っていて良い代物ではない。
アストリッドは本を開く事を躊躇した。
決まり事を破るのが怖い訳ではない。禁書という物には、時々、悪質な魔法が掛かっているものがあると聞いた事があるからだ。最悪の場合、命さえ奪われかねないと……魔術理論学の教授が言っていた事を思い出した。
しかし、幸いにもアストリッドの躊躇いはそう長くは続かなかった。
アストリッドは、本の綴じ具に小さな細工があり、それは鍵穴で、しかも鍵が掛かっている事に気が付いた。
読みたくとも読めない状況だ。
ジェイクも同じだったのかもしれない……――そう思い至り、アストリッドはホッと安堵の溜息を吐いた。
それにしても……だ。
あの少し変わり者の少年は、何故こんな危険な本を持っているのだろう?
アストリッドは、その場に胡座をかいて考え始めた。
アクシオンの魔女の物語と、それに似たタイトルの禁書の存在――。
ジェイクは先日、自分に一体何を伝えたかったのだろうか……?
数々の出来事を思い返しながら、床に置いた禁書をじっと見つめた。
薄汚れた本だ。
拭き取った跡もあるが、縫い目や装飾の隙間には泥がこびり付いている。
「ああ……そうか。拾ったんだな」
アストリッドは思わず独り言を呟いた。
この禁書をジェイクが荒れ地の何処かで拾ったのだとすれば、それが、ジェイクがこの事件に強く興味を惹かれた原因なのだとすれば……――最初は、そのタイトルから、東国で有名な魔女の物語へ行き着くのは当然の成り行きだと思われた。
となると、最近、荒れ地の何処かに、禁書を所持して彷徨いていた者が存在すると言う事だ。もちろん、ジェイクが元々持っていた可能性も捨て切れない。
何にしろ、穏やかな話では無かった。
* * *
考え事をしながら、一体どれ程の時間が過ぎたのだろう?
「…………」
いつの間にか眠っていたらしい。
不意に覚醒したアストリッドは、ベッドからゆっくりと頭をもたげた。
外が薄っすらと明るくなっている。
表が俄に騒がしかった。
それで目が覚めたのだろう……そんな事を思いながら、アストリッドは主の帰らなかった友人の部屋を後にした。
「起きたか」
階下には、ジャックとアレシス……そしてアンナの姿があった。
皆、一睡もしていない様子だった。
「どうしたの?」
アストリッドが問うと、アレシスが頷いた。
「西側の森で、獣が捕獲された様です」
「本当に? じゃあジェイクは……?」
二つ目の質問には、大人達は揃って首を横に振った。
「ジャック様。猟師達が戻りました。……気を付けて下さい、かなり凶暴だ」
「生け捕りなのか?」
「ええ」
ジャックを呼びに来たコラードに促されて、大人達が足早に表に出た。アストリッドもコートを羽織りそれに続いた。
集落の外れに、人集りが出来ていた。
時折、辺りに恐ろしげな獣の唸り声が響いている。
「生け捕りにするつもりじゃなかった……殺れなかったんだ」
「ありったけの散弾を撃ち込んだってのに、見ろ……」
人集りはざわざわと、そんな噂話をしていた。
「ジャック様だ! 道を開けろ!」
誰かが叫ぶと、瞬時に人垣が割れた。
アストリッド達の眼前に、見るも無残な有り様の、黒い獣が一頭横たわっていた。
獣は縄で雁字搦めに縛られて、檻の中に繋がれている。血を流しているのか、全身が黒光りしていた。しかし、獣が爛々と目を見開いて力を込めると、縄も鎖も鉄格子も、今にもバラバラに引き千切られてしまいそうだった。
それは……――アストリッドが今までに、図鑑でも写真でも見た事が無い、不気味な姿の獣だった。
(黒豹じゃない……)
アストリッドは、少し呆けた様子で浅い溜息を吐いた。そこには何故か、安堵している自分がいた。
捕獲されたのは、黒い体毛に覆われた犬に似た姿の獣である。体格は成人男性よりも少し大きい程度…しかし、口元に覗く牙は鋭く頑丈そうで、一噛みで、人間の命ならば容易く奪い取る事が出来そうだった。
「これは、異形ですね……」
アレシスが言った。
「異形?」
「亜種族の範囲を著しく逸脱している……この世に存在してはならない、化け物の事です」
「そんな物が何故……――つまりコイツが、シンドラー教授を……?」
「さあねぇ……。とにかく息の根を止めてから、歯型を照合しないことには何とも言えないな」
アストリッドの疑問に答えたのは保安官だった。保安官は、ジャックに向き直った。
「伯爵。よろしければ、我々に領地の探索をさせて頂きたいのですが……。何せ、嘘か本当か、この手の魔物は一匹居たならあと十匹はいるもんだってのが通説で」
「よかろう」
「ありがとうございます」
保安官の申し出を、ジャックは難無く承諾した。
その時だった。
周囲がザワリとどよめいた。
「見ろ! 化け物が……!」
誰かが叫んだ。
アストリッドはハッとして獣の檻に視線をやった。
すると何と、そこでは、檻の中の醜い獣が見る見る姿を変えてゆく所であった。
獣は、まるで氷が溶ける様に。黒い毛皮が流れ落ち、歪な形の鼻先が引っ込んで、大きな体躯が二回り程縮んだ。……やがて獣の皮の下から現れたのは、完全な人間の姿をした一人の少女だった。少女は一糸まとわぬ姿でおり、真っ白な背中には数多の銃創があった。
一目で息絶えたものと確認出来る。
「大変だ……!」
慌てたのは、保安官や猟師達だった。
「禁じられた呪文だ……」
アレシスが再び耳慣れない言葉を呟いた。
「待って下さい。死体に触ってはいけません。安全を確認しなければ……解呪法を扱える聖職者を探して下さい」
「何だって?」
アレシスの言葉に、保安官が目を白黒させた。
「早く」
「だ……、大聖堂へ誰か遣いを!」
「分かりました!」
「………」
その様子を見届けたジャックが踵を返した。
「ジャック様……」
「皆、ご苦労だった。暫し休め……今後の事はまた後で話し合おう」
人々にジャックが慈悲深い眼差しを向けると、彼らはホッと安堵した様な表情を浮かべた。その後、ジャックはアレシスに事務的な処理を任せて、アストリッドと共に帰途に就いたのであった。
「…………」
アストリッドは、終に誰にも言えないままだった。
少女の首には、銀色の鎖があった。それは、ロザリオだ。
そのロザリオは、森で黒豹が落としていった、そして禁書の表紙を飾っていた、それらと同じ、件の星十字を戴くものだったのである。