【3】
『表題、アクシオンの魔女――
昔々、海辺の小さな村に、一人の娘が暮らしていました。娘はとても信心深く働き者で、両親は自慢の良く出来た娘でした。
ある日、娘の住む村に隣の国の兵隊たちが攻めて来ました。それは戦争でした。村はめちゃくちゃになり、娘以外の村人は、皆殺しにされてしまいました。
娘は偶然、遠くの畑に出ていて命が助かったのでした。
娘は悲しみ、祈りました。
すると娘の祈りが天に届いたのか、天使が降り立ち言いました。
「娘よ、お前にこれを授けます」
それは炎の力を持った、強き〝せいれい〟の剣でした。
娘は剣を手に取り頷くと、戦乙女となって憎い敵を滅ぼす事を誓います。
天使の祝福を受け炎の剣で戦う娘の軍は、負ける事がありませんでした。娘は誉れ高き騎士たちと共に、ついに祖国の敵を打ち負かします。隣国は娘の国に、降伏の印として沢山の財宝を贈りました。娘の国はそれを受け取り、二つの国は争うのを止めました。
ついに戦争が終わり、人々は喜びます。
ところが……。
あろうことか娘だけは、いつまでも戦争を止めませんでした。
人々は、怖ろしい事実に気が付きます。
娘は魔女で、天使は悪魔だったのです。
魔女と悪魔は隣の国を滅ぼすと、次は王国の富をねらいました。
王子は言いました。
「父王よ。魔女と悪魔を退治してご覧にいれましょう」
(中略)
苦難の旅の果て、王子は悪魔を退けついに魔女を倒します。そして英雄となり、王国と先に滅びた国とをまとめて王となりました。何故なら前の国王は、悪魔の呪いで死んでしまっていたからです。
怖ろしい殺戮の魔女は、王子に負けると捕えられ、灰色の平野で火炙りの刑となりました。
おしまい 』
「…………」
アストリッドはジェイクに借りた――正確には押し付けられたその本を読み終わると、表紙をパタリと閉じた。
とても簡潔な文章で短くまとめられた物語で、子供向けの様だが挿絵等は殆ど見当たらなかった。
そう気の遠くなる程、古い書物ではない様だ。確認すると、初版の日付は百年程前になっている。文字は印刷されたもので、同じ本は国内に数多く現存するだろうと思われた。
著者は不明。総じて、何の変哲も無い子供用の説教本であった。古い時代の、王政の正当性を説いた話の様にも思える。
現代の東国は、上院と下院の議会からなる民主制である。
次の日、ジェイクは授業を休んだ。
アストリッドは、本の話をしたかったので残念に思った。
しかし……――次の日も、また次の日もジェイクは登校して来なかった。
「あの……、先生」
「どうしました?」
担任を呼び止めると、彼女はアストリッドを振り返りきょとんとした。
「ルッソなんですが……」
「ああ……、何日も休んでいますね。彼は、風邪で寝込んでいると、ご両親から連絡が入っています」
「そうですか……」
立ち去る担任を見送りながら、アストリッドは思案した。
「…………」
ジェイクの容態が気になるし、借りた本も返したい。
北の領地に住んでいるなら、家も近い筈だ。
(あいつの家に行ってみよう)
アストリッドは決意した。
* * *
ローゼンタール伯爵領は広大で、森林は自然の儘に残る……と言えば聞こえは良いが、その殆どは手付かずの荒れ地だった。
その中で、ジェイクの住む北の荒れ地とは、本邸に隣接する領地の一つである。
河、森林、低木や低草の生い茂る土地……開拓は大変な重労働だが、伯爵領では最も土が肥えている。
アストリッドは馬に乗り、本邸のある丘を北の領地へ向かって降った。
日暮れ近くにアストリッドが一人で屋敷を抜け出そうとも、それを咎める者など居ない。
ジャックもアレシスも留守にしているので、たった二人のメードも夕刻には家に帰った。東域各地に血族は存在するが、ローゼンタール家の本邸には驚く程に人が居ないのだ。
ジャック・ローゼンタールはとても孤独な男だった。
アストリッドは荒れ地に馬が足を取られない様、慎重に手綱を操った。
やがて分かれ道に着いた。
左に進めば、通い慣れた教会へ……右の道が、目的の集落へと続く道だ。
アストリッドは馬を止め、不意に左の道へと視線を走らせた。
この頃はあまり煩く言われなくなったので、教会には通っていなかった。アストリッドも、他の多くの子供達がそうである様に、日曜日毎に教会へ出向き、神父のお固い話に長々と耳を傾ける時間が苦痛なのである。
教会への道の先は、そんなアストリッドの心中を映し出すかのように、どんよりとした重たい闇に覆われていた。
気を取り直すかの様に、アストリッドはひとつ深呼吸をした。
馬の腹を軽く一蹴りし、再び荒れ地を進み始めた。
夜の帳の降りかけた、薄暗い道は続く。
水辺に立つ木々の黒々とした影が、時折、風にザワリと揺れた。
春まだ浅いとはいえ、道端には所々に雪が積もっており、地面は酷く泥濘んでいた。
「…………」
やがて……。
アストリッドの眼前に、立ち昇る幾筋もの煙と、点々とした暖かそうな家々の灯が浮かび上がった。
そこは、見るからに新しい集落だ。
アストリッドは、ホッと安堵の溜息を吐いた。
集落へ着くと、アストリッドは馬を降りて引きながら、一番近くにあった家のドアをノックした。
暫くして少しだけ扉が開き、警戒したような男の顔が隙間から覗いた。
「どちら様だね?」
男がアストリッドに問う。
「丘の上のロウェル・アストリッドです…。あの……この集落に、ルッソって言う名前の家があるって聞いたんだけど……」
アストリッドが答えると、突然、扉が大きく開いた。続けて、男が有無を言わさずアストリッドの腕を掴む。
「…………っ!?」
抵抗する間もなく、アストリッドはそのまま家の中へと引きずり込まれた。
「お…おいッ?」
驚いたアストリッドは、思わず男の手を振り払って後退った。
「坊ちゃんですか! なぜこんな時間にお一人で……?」
男が叫んだ。
「アナタ……どうしたの? お客様はどなた?」
するとその時、家の奥から柔らかな声がして、亜麻色の髪に若草色の瞳の女性が顔を覗かせた。その女性の顔は、ジェイクによく似ていた。
「あ……」
アストリッドは確信した……この家が、友人の自宅である事を。
「ローゼンタールの坊ちゃんだ。アンナ、温かい飲み物をお出しして。――……ルッソはうちです。どうぞ、中へ」
男が言った。ということは、この男がジェイクの父親らしい。顔立ちはあまり似ていなかったが、声はジェイクに少し似ていると思った。
「まあ……! 初めまして、ロウェル様……大変」
ジェイクの母親――アンナが、慌てた様子で家の奥に引っ込んだ。
「初めまして。すみません…こんな時間に突然お邪魔して……」
アストリッドはとりあえず、ジェイクの父親に頭を下げた。
「こ…こちらこそ、手荒くして申し訳ない。性分なもので。挨拶が遅れました。私はコラード・ルッソ、さっきのは妻のアンナと申します。ジャック様には家族共々お世話になって……」
握手をしたあと、コラードは玄関の外を伺った。
「坊ちゃん、本当にお一人ですか?」
「はい……」
ばつが悪そうに、アストリッドは答えた。
「ははァ……黙って出て来なさったな。まぁ……事情は伺っております。お一人では、何かと大変でしょう……どうぞ、うちでよければゆっくりなさっていって下さい」
コラードが、そんなアストリッドに笑顔を見せた。
アストリッドはルッソ家の居間に通された。
「どうぞ」
アンナが、木製のカップに注がれた紅茶をアストリッドの前に差し出した。
「ジェイクに何か、御用でしたか?」
コラードが問う。
アストリッドは頷いた。
「話したい事があって……それに、何日も授業を休んでいるので、どうしているかと心配していました」
「なるほど……」
コラードとアンナは顔を見合わせた。そうして頷き合うと、アンナがアストリッドにニコリと微笑んだ。
「本当は風邪じゃないんです。でも体調が悪そうなのは本当で……少しお待ち下さい。あの子を呼んで来ますわ」
アンナが再び家の奥へ消えた。
「坊っちゃん、帰りはお送りしましょう。倉庫街で起きた事件をご存知でしょう……暗くなってから、子供が一人で外歩きは物騒です」
「ありがとう」
アストリッドは、コラードに申し訳ない気持ちになった。
余計な仕事を背負わせてしまった様だ。
その時だった。
「アナタ……アナタ!」
慌てた様なアンナの声がした。
「どうした?」
戻って来たアンナは、狼狽えた様子である。
「ジェイクが部屋に居ないのよ」
「何だと?」
驚いたコラードが立ち上がった。二人がジェイクの部屋に向かったので、アストリッドもその後を追った。
ジェイクの部屋は、二階にあった。
「アイツは全く……また窓から抜け出したな!」
苛立った様にそう言ったのは、コラードだった。
先にジェイクの部屋に立ち入った両親の後から、アストリッドも中を覗き込んだ。
「入っても?」
問うと、アンナが「どうぞ」と返事をした。
ジェイクの部屋には、考古学者になりたい彼らしく、沢山の本があった。
歴史の本、鉱物の本、天文学の本……棚や床に積み上がるそれらの本は、全て、子供の持ち物とは思えない分厚い専門書だった。
机の上には、一体に何に使うのか分からない様な不思議な器具が色々あった。
日時計付きの羅針盤や、天文アストロラーベ、動力源の見当たらない動き続ける小さな天球儀、その他諸々……。美しい美術品の様にも思えるそれらを見ていると、アストリッドは、考古学とは一体何なのか少し解らなくなりそうだった。
コラードが、窓から身を乗り出して階下を覗いた。
「ジェイクは、今朝も顔色が悪かったんだろう?」
「ええ……。食事は取ったのだけど」
コラードとアンナが溜息を吐いた。
「アイツ…窓から外へ?」
足場らしき物が見当たらないのが不思議だった。アストリッドが問うと、アンナが頷いた。
「あの子、親の私達でもびっくりするくらい身軽なの。本当に……坊っちゃんはご存知ありません? 本当にね……見たら、びっくりしますよ。身軽なんです、猫の様に」
「ジェイクはたぶん、夜中に部屋を抜け出して朝まで出歩いているんだろう……だから、身体を壊すんだ。坊っちゃんをお送りしたら探してくる。アンナ、お前は家でジェイクが戻るのを待っていろ。今夜という今夜は、きちんと叱らないと……」
「アナタ、ちゃんと理由も聞いてあげてくださいな」
「分かっている」
鼻息荒く、コラードが部屋を出て行った。
そんなコラードを、アストリッドは黙って見送った。
「折角、来て頂いたのに申し訳ありません。さあ、こちらへいらして下さいな。夫がお屋敷までお送りします……」
「ありがとう」
アンナの言葉を背中で聞きながら、アストリッドはジェイクの部屋から窓の外を眺めた。
星の無い空。
集落の向こうは一面の荒れ地で、その向こうには黒い森の影が揺れている……。
辺りは日が暮れて、すっかり夜の闇に包まれていた。
「…………?」
それなのに、やけにハッキリと〝それ〟が見えた。
アストリッドは、闇の中に浮かび上がった〝それ〟を、思わず目を見開いて凝視した。
闇の中に、何かが居た。
しかし、アストリッドが目を瞬かせた隙に、得体の知れない何かは、忽然と掻き消えたのだ。
「坊っちゃん……?」
直ぐ背後で、アンナがアストリッドを呼んだ。だが、そんなアンナの声はアストリッドの耳には届かない。
「何かいた……」
アストリッドは瞬時に思考を巡らせた。
「え……?」
振り返ると、アンナが背後できょとんとしている。
「ジェイクは〝あれ〟を追い掛けて外に出たんじゃないか? 夜中の散歩をするにはまだ時間が早過ぎるだろう?」
アストリッドはジェイクの部屋を飛び出し掛けた。
その時、部屋の床に転がる彼の鞄から、一冊の本が顔を覗かせているのに気が付いた。
緑の皮の表紙に塗装の剥げた古びた刻印……本のタイトルには『アクシオンの翼』とあった。
アストリッドは、一瞬、その本を手に取ってみたいという衝動に駆られたが、今はジェイクを追うのが先だと思い直す。
「坊っちゃん、どちらへ?」
「ごめん、アンナ。時間が無い! コラードにオレを追って来る様に言ってくれ……!」
アストリッドはジェイクの家を飛び出すと、自分の馬に飛び乗った。間髪入れず、馬の腹に蹴りを入れると、馬は小さく嘶いて駆け出した。
見間違いかもしれないが……。
先程、暗闇の中に〝獣〟が見えた。
それは、真っ黒く大きな獣だった。
ジェイクは、窓から先程の獣を見付け、慌てて部屋を抜け出したのではないか?
(あいつはシンドラー教授の事件の真相に興味を持っていた)
自分の手で怖ろしい獣の正体を突き止めようと、夜毎、荒れ地を探し回っていたのではないか?
アストリッドの脳裏を、そんな考えがグルグルと巡った。