【2】
時は星暦にして十八世紀末期。
世界を支配していた〝魔法魔術〟たる技術と、その使い手達が、緩やかに地上から姿を消してゆく中、代わりに台頭しつつあるのは、〝蒸気機関〟をはじめとする機械技術であった。
森を根こそぎ、山を砕き、人間達は今や地表の主である。
東国が位置するのは、中つ大陸と呼ばれる、地表で二番目に大きな大陸の東域中部で、国土の大半は荒れ地と砂漠である。主な産業は貿易と漁業。山間部の鉱山では希少な魔法石が少々出土する。
首都ベルウインドとその周辺地域は、比較的治安が良く物価も安定しているので、教育や文化の面では高い水準を保っていた。
* * *
アストリッドは、平和な毎日を送っていた。
そんなある日の事である。
事件は、突然だった。
「ロー! 今日は私も、お前と学院へ行くぞ」
朝から、ジャックがそんな事を言い出した。
「なんで……?」
朝に弱いアストリッドは、身支度を整えてもまだ少し寝ぼけ顔である。アストリッドが首を捻っていると、ジャックが呆れた様子で彼の胸元に朝刊を押し付けた。
「馬車の中でそれを読め。新聞は出かける前に読め」
「あんたが読んでたんだろ」
立ち去るジャックに、アストリッドが口を尖らせて抗議した。
「倉庫街に死体?」
ガラガラと馬車の車輪の音が響く車内で、新聞の一面記事に目を通したアストリッドが呟いた。
「死体の男の名を知っているな?」
「クラウス・シンドラー……――うちの学院の教授だ。話をした事は無いけど……」
新聞の一面には、昨夜遅くに、倉庫街の水路のひとつから男の死体が見付かった……という内容のニュースが、大きな見出しで載っていた。所持品から身元が判り、それが名門校の教授だったということで、記事はちょっとしたスキャンダルだった。
「死因は……」
呟いたアストリッドの言葉が途切れた。
「問題はそこだ」
ジャックが言葉を挟んだ。
「これは一体、何の冗談?」
記事に目を通す、アストリッドが顔を顰める。シンドラー教授の死因は、俄には信じ難いものだった。記事には、遺体の損傷が激しく検死の結果が待たれるが、関係者の証言に寄ると獣に襲われた可能性が高い……とある。
「人を襲う獣が街の中に?」
「さあな。保安官と自警団が、早朝から野犬狩りを始めたそうだ――まあ、野良犬など最近はあまり見ないがな……」
「気味が悪いね……」
アストリッドの言葉に、ジャックが頷いた。
「で? あんたは何の用事で学院へ?」
新聞を折りたたみながら、アストリッドが気を取り直した様に問う。
「お前の身が心配だ。学院の警備について、学院長と少し話しをしようと思ってな」
「なんだって?」
心配性な保護者が学院へ乗り込み教授達を困らせる、というあられもない図式がアストリッドの脳裏に浮かんだ。
「やめてくれ、ローゼンタール卿とあろうものがそんな恥ずかしい真似! アレシス! 馬を止めて!」
アストリッドが、慌てて馬車を降りようと藻掻く。
「待てっ……危ない!」
「離せっ!」
だが時は既に遅く、馬車の外からアレシスの声が無情に響いた。
「ジャック様、坊ちゃん、学院に到着致しました」
「「…………」」
アストリッドとジャックは、掴み合ったまま無表情に顔を見合わせた。
* * *
「おはよう」
馬車を降りると、そこには丁度ジェイクが登校してきた所だった。
「君の家の馬車が見えたから……――」
そう言いながら近づいてくるジェイクが、ハタと歩みを止めた。
場の空気が一瞬にして変わる。
周囲の喧騒がピタリと音を無くし、辺りに緊張が走ったのをアストリッドは奇妙に感じた。
「ロー、私を学院長のところへ案内してくれるかね?」
アストリッドの背後に、馬車を降りてきたジャックが立っていた。
風にはためく黒い外套。磨き上げられたステッキの先が、硬い音を立てて石畳の地面を突く。目深にかぶったシルクハットのつばの下には、精悍な青い瞳とたなびく金色の髪が覗く。
感じる威圧……――普段の彼とは少し違う顔。
ローゼンタールの当主としての、東国の王とさえ称される男の、これも彼の真実の姿だ。誰もがすくみあがり、従わなければならないと自然に思わせてしまう、王者の風格というものである。
当家が彼の代で急速に財力を成長させたのも、彼の、このカリスマ性に寄るところが大きいらしい……というのは、アレシスの話である。
「ジェイク、紹介する。オレの親父」
だがしかし、アストリッドは、そんなジャックのわき腹を思い切り肘で小突くとジェイクに手を振った。
「痛いな、何をする」
「一応ただの保護者面なら、もう少し遠慮してろよ。存在感あり過ぎなんだよ……」
「それは悪かった。そんなつもりは無かったのだが」
アストリッドが膨れっ面をしたので、ジャックが口をへの字に曲げた。
「初めまして、ジャック様。父と母がお世話になっています」
ジャックの威圧感に一瞬気圧されていたジェイクが、トコトコと近付いて来た。やはりジェイクは肝が据わっている。アストリッドはそんな事を思った。
そんなジェイクを見て、ジャックは破顔した。
「やあ、初めましてジェイク。君の話はローから聞いている。コラードとアンナの子だな? 早く、君に会ってみたいと思っていたよ」
ジャックが右手を差し出すと、ジェイクもそれに応え、二人は握手を交わした。
「ジャック様!」
不意に、正門の方からジャックを呼ぶ声がした。
「学院長だ」
視線を向けて、ジェイクが言った。
「本当だ」
アストリッドも、慌てた様子でこちらへ走ってくる学院長を見た。
「彼がそうか。案内してもらう手間が省けた様で良かったな……それでは、ロー、ジェイク、また後で会おう」
「ああ。あまり先生方を困らせるのはやめてくれよ」
「心配するな、心得てるよ」
ひらひらと手を振りながら踵を返し、ジャックが学院長の方へ歩き出す。アストリッドは、そんなジャックの後ろ姿を黙って見送った。
――だと良いけどな。
誰にも聞こえない声で、そう呟きながら。
* * *
案の定、教室では皆が事件の話で持ち切りだった。
加えてひとつ、アストリッドがホッと胸を撫で下ろしたのは、どうやらこの事件の話で学院に押しかけてきた保護者が、ジャックだけではないという事だ。やはり、貴族の子息や令嬢が多く在籍する学院なだけはある。校門からは、黒塗りの馬車が何台も出入りを繰り返していた。
もちろんここにはジェイクのような普通の家庭の子供たちも通っていたので、その保護者らしき姿もちらほらと見かけた。
だがしかし、その光景は、必要以上に子供達の不安を煽った。その日は一日中、学院全体が、落ち着きがなく浮ついていた。
シンドラー教授を襲った獣の正体は何なのか……?
子供たちの目下の興味はそこだった。
ある者は、野良犬の群れだと言い、ある者は西の荒野からやってきた巨大なデザートウルフだと言う。そしてある者は、サーカス団から逃げ出してきた異国の猛獣だとも。
「ローはどう思う?」
休み時間、ジェイクがアストリッドに問い掛けた。
「そうだな……。野犬の群れの可能性は低いと思うけどな……」
「僕もそう思う。この街は綺麗だ……野良犬も浮浪者も殆ど見掛けないよね」
「本当に居たら悪目立ちさ……オレみたいにな」
アストリッドの冗談に、ジェイクが「あはは」と声を上げて笑った。
* * *
事件が起きてから、数週間が過ぎた。
シンドラーの遺体に残された傷痕から、彼を襲った獣は大型の肉食獣である事が特定された。
野犬狩り――この場合、野犬に限らず全ての肉食獣が該当する――は、毎日二十四時間徹底して行われた……が、それらしき獣の目撃情報は皆無であった。
アレシスの話では、普段は日が暮れても賑やかに明かりが灯り続ける街が、この頃は、夜の帳が降りると同時にしんと暗く静まり返るのだと言う。
人々は家に篭もり、じっと外の様子を伺っているらしい。
「アクシオンの魔女?」
今し方、ジェイクが口にした言葉を、アストリッドはオウム返しした。
「うん。君は知ってる?」
ジェイクは、アストリッドがアクシオンの下町で育ったという身の上は知らない筈だ。ジェイクの意図が判らずに、アストリッドは首を横に振った。
「中央大陸東部……特に、ここ東国各地に古くから伝わる民話だよ。トリスタンに聞いたらさ、東国の子供なら誰でも一度は聞いた事がある昔話なんだって……」
「……ああ…、オレ、そういうのには疎いんだ」
昔話など、聞かせてくれる人間は周りに居なかった。
「そうなんだ?」
アストリッドが肩を竦めて見せると、ジェイクは不思議そうに目をぱちくりさせた。
「だったら…、えーっとね、先ず民話の内容から……。
――大昔、この地域を治めていた二つの国の間で戦争があって、その戦争をおこした魔女と悪魔が英雄に退治されるんだ。そして英雄が二つの国をまとめて新しい王様になって、王国に平和が訪れる」
「へぇ……」
大した感想もこみ上げず、アストリッドは曖昧な相槌を打った。ジェイクは続けた。
「ある地域では、その魔女と悪魔を、聖女と天使として崇める信仰があるらしい」
「ふーん。まあ、元が民間伝承の昔話なら、色々な解釈があるってことなんじゃないか?」
思った事を素直に答えた。
そんなアストリッド見て、ジェイクは微笑んだ。
「君の目は、物事の本質を真っ直ぐに見抜ける良い目だね」
「……お前は、さっきから何が言いたいんだ?」
アストリッドが怪訝に眉根を顰めると、ジェイクは人も疎らな放課後の教室で、じっとアストリッドの顔を見つめた。彼の若草色の瞳が〝金と緑のまだら〟に煌めいた様な気がしたのは気のせいか……?
アストリッドは、心臓がドキリとした。
「そんな君だから、教えてあげる。この民間伝承の本質は、悪魔信仰を禁じる事にあるんだよ」
「悪魔……信仰……?」
ジェイクの言葉に、アストリッドは戸惑った。
悪魔と言えば、人や動物や土地や物に、あらゆる悪いものをもたらすとされている不浄な存在の事だ。悪しき精霊、悪しき魂……その呼び名も解釈も、多種多様なものだという。
情操教育だと言って通わされている、北の領地内にある教会の、神父の説教で聞いた話だ。
「つまり、魔女を聖女と崇めることを禁止する為に、東国には魔女退治の昔話が存在する……って、お前はそう言いたいわけ?」
「そう」
アストリッドの言葉にジェイクが頷いた。
「それは分かった……。けど、つまり結局、お前は何の話をして――」
何度目かの似た様な台詞を吐き掛けて、アストリッドはハタと口を噤んだ。
ジェイクの眼差しが、アストリッドの何かを試している様な気がした。
アストリッドは、ジェイクの言わんとする事を慎重に考えた。
「……まさか、シンドラー教授の事件と、その、アクシオンのナントカって話は……何か関係があるとでも?」
アストリッドが問い掛ける。
「どうかな?」
ジェイクがフッと微笑んだ。
しかし、その微笑みは何処か満足そうで、アストリッドの出した答えを正解だとでも言いたげだ。
「この本、貸してあげる。気が向いたら読んでみて」
少し鞄の中を掻き回した後、ジェイクがそこから取り出したのは、一冊の薄い本だった。とても古い物だが、体裁の感じからして子供向けだ。
「アクシオンの魔女」
ジェイクから受け取った本のタイトルを、アストリッドは読み上げた。
「童話か」
「うん」
赤い皮の表紙には焼印があり、世界中の人間が見慣れているであろう〝星十字〟に一対の翼の紋章は、由緒正しき〝星教会〟の物だった。
「僕、先に帰るね」
「あ……? ああ。また明日」
最近のジェイクはいつもこうだ。
家の手伝いがあるのだろうが、友人達との付き合いもそこそこに、授業が終わると一目散に帰途に就く。
「おかしな奴だ」
そんなジェイクを見送りながら、アストリッドは彼の残した謎の真意を考えた。