【1】
はじまりは、たゆたうひかり。
ときのまじわり、せかいのはじまり。
そがつむぎ、銀の星影は霊を宿す。
かくして霊は云う。
旅人は、ついに運命の輪に触れた。
* * *
彼についての噂は多様だった。
ロウェル・アストリッド・ローゼンタール。
ここ東国では有数の名家、ローゼンタール家。彼は、当主ジャックの一人息子とされている。
既に、当家始祖の直系血族は、ジャックを最後に絶えるだろうとされていた。そんな中、突然にその存在が明らかになった、後継者たる立派な男児。それだけでも、東国周辺の貴族社会は騒然となった。ジャックに妻が居ないことは周知の事実だったので、周りの興味は、アストリッドの出生の謎に注がれた。
母親は誰なのか?
ジャックが外国の女に産ませた子であるとか、あまりに希少な存在であるため今まで隠して育てられていたのだとか。しかし、父親とはあまり似つかないその風貌に、こう噂する者も現れた。
かの少年は、ジャック・ローゼンタールとは何の血縁関係も存在しないのではないか? ……と。
アストリッドが、ローゼンタール家の正式な養子として迎え入れられた年の秋、彼は十三歳になった。下町のあったアクシオンから、この東国の首都ベルウインドへ連れて来られて、既に三年の月日が経っていた。
アストリッドは数ヶ月前――つまり十三歳の誕生日を迎えた直後、名門〝アデルバート学院〟へ入学した。
学院には貴族の子息や令嬢も多く通っており、彼は入学当初から、物好きな者達の噂話の矢面に立たされる事となる。
興味本位の噂話は尾ひれを付けて広がった。
彼は最初から孤立していた。
独りきり、顔色も変えず、わき目も振らず、コツコツと靴音を響かせて足早に石造りの回廊を歩き過ぎる……そんなアストリッドの姿が学内によく見受けられた。
他の生徒達は、いつも遠巻きに、そんな彼を見ていた。
* * *
「学院での生活はどうかね? 親しい友人はできたのか?」
夕食の席で、ジャックがアストリッドに問い掛けた。
「別に」
そんなジャックに、アストリッドが冷めた言葉を返す。
「お前はその仏頂面を何とかしないからだ」
ジャックが、やれやれといった風体で大きくため息をついた。
「笑いたくもないのに笑えないよ……」
幼い頃からそうだったが、十三歳になった今でも、アストリッドはやはり同年代の子供と比べると非常に大人びていた。
「まさか……お前、いじめられているのか?」
ハッとしたようにジャックは呟くと、アストリッドの目の前に身を乗り出した。
「アンタの息子をいじめる度胸のあるやつが、あの学校のドコに居るんだよ。おかげさまで誰も手は出してこないから安心しろよ」
「そうか……」
ジャックが安心したように椅子に掛け直すのを見て、アストリッドは思わず表情を緩ませた。
「アンタは忙しいってオレをほっとく割には心配性なんだな」
僅かな、アストリッドの笑顔。
そんなアストリッドの顔を見て、ジャックも同じように表情をほころばせた。
この三年間、二人はぶつかることばかりだった。本気で怒鳴りあったし、取っ組み合いの喧嘩もした。
幼かったアストリッドには、最初は分からなかったが……今ならちゃんと理解できる。ジャックが、どれだけ本気で自分と向き合ったのかを理解できるようになった。
アストリッドはこの街に連れて来られた当初、まるで鋭利な刃物のように荒々しいものだった。下町の荒くれ者達と命がけで渡り合ってきた少年は、知らず、そんなものに育ってしまっていたのだ……。
どうしようもない生き物だった。今更、変わることなど出来ないと、ずっとそう思っていた。そんなアストリッドに、ジャックは力尽くで教えてくれたのだ。
人間らしく、生きるということの意味を。
お陰で、少年の視野は開かれ、傍らの孤独な青年にもまた、人生に希望が降り注いだ。
そしてやがて──、この陽の当たる場所で、アストリッドの生活には更なる変化の時が訪れようとしていた。
* * *
それは、冬休みが終わって二学期が始まった、最初の日の出来事だった。
その日、季節外れの転校生がやってきた。
「ジェイク・ルッソ君です。皆さん、彼がこの学院に早く慣れるよう協力してあげてくださいね」
そう言う担任の紹介に合わせて、ジェイク・ルッソと呼ばれた少年はにっこりと人懐こく微笑んだ。
柔らかそうな薄茶色の髪がふわりと揺れた。明るい緑色の瞳は、春の草原を思わせた。「よろしくおねがいします」と言った彼の声は、人の耳に心地よい響きを持っていた。
「ねぇ、ジェイクは何処から来たの?」
休み時間に入り、彼の周りには早速クラスメイト達が集まった。アストリッドが感じた彼の人当たりの良さを、皆も感じたのだろう。
「ずっと南の方。僕、移民なんだ」
クラスメイト達は、ジェイクの返事に「へぇ……」と、感心した様に頷くと、次は口々に自己紹介を始めた。
ジェイクは笑顔で彼らの話を聞いており、たまに相槌をうったりしていた。
彼らの会話は良く弾んだ。
そうして気が付けば、その日の就業の頃には、ジェイクはまるで入学当初からこのクラスに在籍していたかのように、すっかり周りに馴染んでしまっていた。
アストリッドは、教室の一番後ろの席に座って、独り本など読んでいるのが常だった。
今は終業の鐘が鳴った直後なので、帰り支度をしていた。教室の片隅では、まだ、ジェイクと数人のクラスメイトが賑やかに話をしていた。
その時だ。
不意にジェイクが、自分に視線を止めたことにアストリッドは気が付いた。
「…………」
目も合わせず、何も反応を返さないでいると、ジェイクはアストリッドから視線を外した様だった。続けて、クラスメイトのひとりに声をかけた。
「ねえ、あの隅にいる子は誰?」
その言葉に、まだ教室に残っていたクラスメイトたちが一斉にアストリッドを見た。
その異様な空気を、ジェイクは感じたのだろうか…?
「えっと……?」
困ったように、彼が二の句を継げないでいると、クラスメイトのひとりが答えた。
「あいつは、ローゼンタール。気難しいやつでさ……、その…、独りでいるのが好きなんだよ」
極力、声を小さくして答えてはいるが、その内容はアストリッドに伝わった。
――そんな風に思われていたのか。
アストリッドは、その言葉に内心面食らった。
別に孤独が好きなわけでは無い。
強いて理由を挙げるならば、ただこれまでは、それらの事に重きをおいていなかっただけだ……それだけのことだった。
* * *
ジェイクが転校してきて幾日かが過ぎたある日の事である。
「ロー?」
不意に名前を親しげに呼ばれ、アストリッドは飛び上がる程に驚いた。目の前に立っていたのはジェイクだった。
それは冬の合間の暖かい日で、窓辺の席のアストリッドは、授業中、いつの間にか居眠りをしていたらしい。
その時間は歴史の講義だった……が、酷く退屈だった。
「なに……?」
驚いたが、敢えて平静を装いながら返事をした。
「終業のチャイムはとっくに鳴ったよ」
そうして若草色の瞳の少年は、首を傾げてふわりとした笑顔を見せた。
終業のチャイムが鳴れば、生徒たちは寄せた波が反すように、あっという間に教室を飛び出して帰路につく。既に、教室に、人はまばらだった。
アストリッドは、大きな欠伸をひとつして、目の前の少年を見上げた。
「お前は? 週末の教室に居残って、いつまでも何をしてるんだ?」
「質問があったから、教授と話をしていたんだ。振り返ったら君がまだ眠っていたからさ。おいてけぼりは可哀相だと思って……余計なお世話だったかい?」
一年生の歴史を受け持つ、退屈な授業のその教授は、実は名のある歴史学者だった。
「いいや。起こしてくれてどうも。助かったよ」
気のない調子でそう言うと、アストリッドは鞄を持って立ち上がった。
「帰るの?」
歩き出したアストリッドの後を、ジェイクが着いて歩き出した。
「うん」
アストリッドが頷くと、「僕も一緒に」といってジェイクはアストリッドの隣に並んだ。
無知なのか……それとも単に、神経が図太いだけなのか。
――その両方だ。
アストリッドは結論付けた。
ジャック・ローゼンタールの後継者であると同時に、主に治安が荒れているという理由で、悪名高きアクシオンの下町育ちのアストリッドは、お行儀の良いこの街の子供達の中では明らかに異質で浮いている。
彼らが怖がらない笑い方が分からないし、口の利き方も分からなかった。
故に、必要最低限の意思表示しかしないでいると、現状の様に孤立してしまったのである。
そんなアストリッドを、ジェイクは全く恐れる気配が無かった。
二人の少年は、石の回廊を校門に向かって暫く無言で歩いた。
「お前の家はどこだ?」
「あっち」
アストリッドが問うと、ジェイクはローゼンタール邸の方角を指差した。
「あっちの方は、うちしかないぜ? その先は、ただの荒れ地だったと思うけど…――」
アストリッドが問いかける。
「そうさ。荒れ地は開拓する。畑にするんだ」
歩きながら、ジェイクが答えた。
「畑を作る為に開拓か……厳しいだろう? 去年の夏も雨が少なかったって。地方の村じゃ、土地を争って戦争になったり、酷いところでは餓死者も出てるって聞いた。この大陸の土地は、本当はどこも痩せてるっていうじゃないか」
アストリッドの言葉に、ジェイクは少しだけ驚いた様な顔をした。
北風が吹き抜けた。
教室の、窓辺の日差しは暖かかったが、外はやはり寒かった。
アストリッドは、コートのボタンをしっかりと留めて、首に巻いたマフラーをすき間風が入らないようにすることに余念がない。
「うん……そうだね。でも、この辺りはまだマシだよ。作物は必ず育つって、皆が言ってた」
「そうか……本当にそうだといいな」
微かな笑顔を見せて、アストリッドは言った。
「うん」
そんなアストリッドに、ジェイクは今まででいちばん嬉しそうな笑顔を向けた。
その時だった。
「坊ちゃん!」
背後からガラガラと馬車の音が聞こえ、アストリッドを呼ぶ声がした。
「アレシス」
アストリッドがその声に振り向く。
「探しました! 困ります、一人で外に出られては」
追い付いてきた馬車に、アストリッドとジェイクは歩みを止めた。
「悪い。出てくるのが遅くなったから、もう帰ったのかと思ってた」
「まさか。そんなことをしたら、私がジャック様にお暇を出されてしまいますよ」
アストリッドが、アレシスと呼んだ青年が苦笑いした。彼は、ローゼンタール家本邸の家令兼執事という立場の人物だが、実質、ジャックの秘書を務める男である。
「お迎え?」
ジェイクの問いかけに、アストリッドは頷いた。
「へえ。こういうのを見ると、やっぱり身分の違いを感じるね……」
感心したように、馬車とアレシスを見上げるジェイク。だが、その言葉は決して嫌味には聞こえなかった。
「お友達ですか?」
アレシスが、じっとジェイクを見つめる。
アストリッドは気が付いた。アレシスのその眼差しは、例え相手が子供だからと油断などしない。ジャックの傍らに有る時と同じように、優しく微笑みながらも用心深く相手を探る目だ。
「ともだちです。ジェイク・ルッソです」
だが、そんなアレシスにも臆することなく、ジェイクは明るく答えた。
「ルッソ……」
その名を呟き、アレシスはハタと動きを止める。
「ローゼンタール伯爵家、北の領地の開拓……先だって設けた新たな集落の中に、その様なお名前の一家がありましたね」
アレシスがニコリと微笑んだ。
「そうです。そのルッソ家です」
ジェイクも微笑む。
「え……、そうなのか?」
初めて聞く話に、アストリッドはきょとんとしてアレシスに問い掛けた。
「坊っちゃんは、まだご存知ありませんでしたか。無理もありません。荒れた土地をあまりに長く放置するのはよろしくないと、ジャック様が突然お決めになられたのです。野盗などが住み着いてはいけませんからね……」
アレシスが答えた。
つまり、ジャックが領主でジェイクはその領民というわけだ。アストリッドは、ジェイクが自分に話し掛けてきた理由をようやく理解した。
「知らなかったよ。領地から同じ学校に通う子供がいるなら、普通、何か一言あるだろ……あのおやじ」
アストリッドが呆れた様に溜息を吐くと、ジェイクは可笑しそうに笑った。
「乗っていけば?」
アレシスが開けた馬車の扉を前にして、アストリッドは思い立った様にそう口にすると、背後のジェイクを振り返った。
「いいの?」
「どうぞ」
アレシスは気の良い返事を返した。
「わぁ、ありがとう。こいうの、一度乗ってみたかったんだよね!」
そう言って、ジェイクは屈託のない笑顔を見せた。
* * *
ついに、アストリッドに、初めての友達らしい友達ができた。
下町のリオンも気が合わないことはなかったが……彼は、食べ物欲しさにアストリッドの周りを彷徨いていたに過ぎない存在だ。ジルの一件で、それが嫌というほど良く分かった。
本当の友達がそんなものじゃないことくらい、アストリッドにだって理解出来る。
ジェイクは、未来への希望にあふれた少年だった。
「僕、考古学者になりたいんだ」
期待に満ちた瞳でそう言ったジェイクを、アストリッドは少し羨ましいと思った。
「オレは……」
自分の未来はもう決まっている。
ジャックのゲームに参加したその日から、道を外れることは許されない。
かといって、ジェイクの様に希望の進路がある訳でも無い。
そもそも、あの時ジャックに引き取られていなければ、そんなことを考える余裕すらないまま、生きるか死ぬかの瀬戸際を毎日ドブネズミの様に足掻いていた事だろう。
アストリッドは時々思う。
ここは、鳥籠の中?
それとも……?