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BLESSED CHILD 【Ⅰ】 星紡ぐ風の荒野  作者: 寿々
プロローグ 灰色の少年
4/37

【3】

 商談は長引いているらしい。

 彼らは別室へ移動して、アストリッドは独り取り残されていた。


 随分、時間が経ったような気がした。


 枷が外れないかと四苦八苦したが、無駄だと悟った……足掻くのにくたびれたアストリッドは、ぼんやりと壁に凭れていた。

 するとその耳に、激しく窓を撃つ雨の音が飛び込んできた。続いて雷鳴が、カーテンの隙間から覗く仄暗い空に響き渡る。

 どうやら、季節外れの嵐のようだ。


 アストリッドは、何故かこんな天気が好きだった。


 豪雨は、この世界の薄汚いものを、自身も含めて全て流し攫ってくれるような気がした。

 雷鳴は、何か大いなる存在の、怒りの声を思わせた。


 硝子窓の向こうの空を見つめる、その青い瞳に雷鳴の瞬きがきらきらと揺れた。



『かくして霊は云う。

 旅人は、ついに運命の輪に触れた』



 不意に雨の叩きつける窓辺から、馬の蹄と嘶き、そして馬車の車輪が石畳を切り付ける音がした。少しの間を置いて、遠くの部屋でけたたましく扉が開き……――続けて聴こえてきたのは、謎の男の罵声だった。


「…………?」


 アストリッドは、何事かと強張りながらも耳を澄ませた。


「下品な会合だ!」

 怒鳴る男の声に合わせて、貴婦人達の悲鳴が響き渡り、同時に誰かが殴られる音がした。


「出て行け! 貴族の恥さらし共!」


 その男の怒りは、散々怒鳴り散らしても尚、収まるところを知らないらしい。


「悪かった! 許してくれ……、ローゼンタール……!」


 人買いの紳士のうちのひとりだろうか……? 先程までとは打って変わって、その悲壮な声色は土下座でもして許しを請うている様だ。


「その人売り共を捕らえろ!」


 人売り達が何かを叫んでいる。

 だがしかし、……やがて彼らの声は何処か遠くへ掻き消えた。


「私の目の届く場所で再びこのような真似をしてみるがいい! 貴様達、全員、二度と大手を振って生きていけると思うな! ――……連れ込んだ子供は何処だ?」


 ズカズカと、怒りに任せて踏みしめられる大きな足音が近付いて来た。


「…………!」

 アストリッドの心臓の鼓動が跳ね上がった次の瞬間、少年のいる部屋のドアが勢いよく開いた。



 まるで、外の嵐が屋敷の中にまで進入してきたようだった。

 アストリッドは、驚きに目を見張った。



「この子か……?」



 そこに立っていたのは、肩まで伸びた金髪の、青い瞳の男だった。

 年の頃は、三十歳前後と思しき若い紳士だ。

 全身黒いスーツに身を包み、スラリと背が高い。顎を無精ひげが覆い、片手に雨に濡れた漆黒の外套を抱えている。


 濡れた金髪が不揃いに男の額に張り付いていて、それを鬱陶しそうにかき上げながら、男は少し息を弾ませていた。



 まるで、雷鳴の嵐を身に纏った様なその男は、素早くアストリッドの姿を見止めた。ツカツカと足早にこちらに歩み寄って来ると、男はアストリッドの傍らに跪いた。

「名は……?」


 青い目が、真っ直ぐに少年を見つめていた。


 そんな男の様子に少し戸惑いながら、アストリッドは答えた。

「ロウェル……アストリッド……」


「下町の酒場から、連れて来られたのはお前だな?」

 男が続けて問い掛けた。

 彼は何故か、人買いの貴族達と同様にアストリッドの素性を既に知っている様だ。


「…………」


 アストリッドは無言で頷いた。


「外せ……」

 背後の紳士に向かって、男が呟く様に言った。


「は……?」

 紳士がきょとんと間の抜けた返事を返した。すると男は、紳士をぎょろりと鋭い眼差しで睨んだ。

「この子の枷を、今直ぐに外せと言っているのだ!」


 男の怒鳴り声に、アストリッドは思わず肩を竦めて目を閉じた。



 アストリッドの手足の枷が外された。

 先程、無理に外そうとしたので、手首も足首も、皮膚が擦れて酷く血が滲んでいる。

 雷鳴の紳士は、手にしていた外套で弱り切った少年を包み込むと、その身体を軽々と抱き上げた。

 涼しげな青い瞳――今は怒りに染まっている――が、アストリッドの顔をまじまじと見ていた。


「あんたは……誰だ…? 何故……オレの事を?」

 アストリッドは、虚ろな口調で男に問い掛けた。


「私の名は、ジャック。ロウェル……何も心配する事は無い。私と共に行こう……」

 男は手短にそれだけ答えると、彼を遠巻きに見つめる先程の貴族達を一瞥し、アストリッドを抱えたまま足早に馬車へと乗り込んだ。


 ――心配しなくていい……?


 少年は、その言葉の意味を解するのに、少々の時間を費やした。


*  *  *


 外では、まだ雨が降り続いていた。


 ここは、高級な貴族達の屋敷が連なる区画の外れ。先ほどまで居た人買い連中の屋敷の内装に比べると幾分質素だが、落ち着いた色合いの柱や壁。そして置かれた家具も、ゴテゴテとした飾りは無いが、ひと目で質の高いものだと判る。


 アストリッドは、真っ白なシーツの柔らかなベッドに横たわっていた。


 彼の名は……――まどろむ意識の中で、少年は考えた。


『私の名は、ジャック・ローゼンタール……』


 馬車の中で、男が名乗った。

 この国で、その名前を知らない人間がいるだろうか?

 政府にまで影響力を持つと言われる、名門貴族の当主の名前だ。酒場の客が置き去りにする新聞で、何度もその名を目にしていたので直ぐに分かった。


 ――当主は、あんなに若い男だったのか。


 そんな人物に、何故、助けられたのか?

 少年の心に、幾つもの疑問が浮かんでは消える。


 彼はアストリッドに、もう心配いらないと言った。


 ――わからない……。


 嵐のように、猛々しく、そして威風堂々という言葉がぴったりだった。

 しかし、怒りが収まると、彼……ジャック・ローゼンタールは穏やかに波打つ大海を思わせた。


 少年にしてみれば、全く初めて出会う人種だったと言える。

 信用するか、逃げ出すか?

 アストリッドは長々と思案した。だが、その答えをその日のうちに導き出す事は、とうとうアストリッドには出来なかった。


 暖かいベッドと、美味しい食事。


 夢中で食べて、あとは死んだように眠った。それは、深い深い……少年が久し振りに経験する、安らかな眠りだった。


*  *  *


 アストリッドがジャックの屋敷に連れて来られて、幾日かが過ぎたある日の事だった。


 少年の身体は、若さゆえか行き届いた看護のゆえか、みるみる回復していた。

 痩せこけて、見るからに栄養失調と言えた風貌も、少しずつ健康的な風合いが増していた。


「これは、なに?」

 アストリッドはその日、自分の目の前に置かれた物を見て、きょとんとジャック・ローゼンタールの秘書を見上げた。


「ジャック様のご命令です。この書類に記入をするように」


 インク瓶とペンを少年に渡しながら、秘書が言った。


「…………」

 アストリッドは、改めて自分の前に置かれたものを眺めた。

 それは規則的に並んだ数字や図形の羅列だった。所々が欠けていて、そこを埋めるように書き込む書類になっている。アストリッドには、その答えがいとも容易く頭に浮かんだ。


「暗号というものです。字は読めますか?」

「大体ね……でも難しい言葉は分からないよ……」

 訝しがりながらも、アストリッドは大人しく、その暗号とやらを解き始めた。


*  *  *


 穏やかな陽の光が、アストリッドに降り注いでいた。


 まどろむ意識の中、少年は、ふと何かの気配を感じて目を開けた。


「気分はどうだね?」

「…………」


 傍らの椅子に座って微笑んでいるのは、ジャック・ローゼンタールその人だった。


「元気だったら、ここで寝てない……」

 そんなジャックから、顔を背けて少年が答えた。


 ジャックの屋敷に連れて来られて、アストリッドがその主に再会したのはこの時が初めてだ。彼は忙しいのか、この屋敷をいつも留守にしている様子だったのだ。


「オレ、これからどうなるの……?」


 アストリッドの瞳が不安に揺れた。

 すると、ジャックからの答えは少年が思ってもみないものだった。


「これから……そうだな。――私は君を引き取ろうと思う。このジャック・ローゼンタールと共に、首都へ行かないか?」


「…………」

 アストリッドは、驚きに満ちた眼差しでジャックを見つめた。彼は肘掛けに頬杖を付いて、穏やかな笑みを浮かべている。


「オレを買ったの?」

 怪訝に首を捻りながら、アストリッドが問い返した。

「買うだの売るだの、そんな非人道的な事をする者らと、一緒にしてもらっては困る」

 苦笑いしてジャックは続けた。

「……正直に言おうか。実は私には子種がない……。この意味が分かるかな……? 私には、後継者たる自分の子がいないのだ」

「あんたの子供……?」

 アストリッドは、あからさまに戸惑いの表情を浮かべた。


「ロウェル。私は賢い君に教育を受けさせてみようと思っている。そうして見込みがあると判断できれば、君を私の養子として……後継者として、ローゼンタール家に迎え入れたいと考えている」

 ジャックは、眉一つ動かさずに言った。


「よ……養子?」

 あまりに唐突なジャックの申し出に、アストリッドは言葉を失った。


「勿論、簡単にはいかないだろう。私が決めた事とはいえ、君はただの下町の孤児。血統を重んじる一族の者は、必ず反対をするだろうし、財産相続権のある者は、君の命さえ奪いかねない。とても危険なことだ。だが、私は惜しいのだ……――」

 ジャックは、言葉を続けた。

「君が働いていた酒場の、改ざんされたという帳簿を見たのだ。銀行にまでも手を伸ばし……君は実に賢くて効率のよい不正を働いていた。うちの会計士でなければ、その悪事を見抜くことは不可能だっただろう。もしやと思った、私の考えは正しかったのだ……――このテストの意味が解るかね?」


「それは……」


 ジャックが手にしていたのは、先日、アストリッドが解いた暗号だった。


「これは、知能指数というモノを測るテストなのだが、君の取った点数は驚くべきものだった」

「…………」


 アストリッドは、首を傾げた。


「つまり、解り易く言えば……、ただの子供が子供であることを盾にして、大人を欺くことなど可能かな? 何も知らないふりをして、君は随分大勢の大人たちを騙してきたようだ。なかなか愉快じゃないか。下町に戻して捨ててしまうには、惜しい人材だ」

 語るジャックは、何やらとても楽しげだった。

 彼は、アストリッドの今までの罪や環境の全てを理解していてなお、自分を養子にと望んでいるのだ。


「本気……なの?」

「ああ、本気だとも?」

 肩を竦め、少々おどけた様子でジャックが答える。

 そんなジャックを見て、少年は目を逸らした。


「悪くない話だ……だけど、オレはあんたの何を信じれば良いんだ?」


「ふむ。ごく当たり前の質問だな」


 ジャックは立ち上がりゆっくりと歩み寄って来ると、アストリッドの座るベッドに腰を降ろした。そうして上等なスーツの胸元から、銀色の拳銃を一丁取り出した。

「これを君にあげよう」

 彼は少年の膝の上にその銃を置いた。

「これで君は、無力ではない」


 アストリッドは、銃を手に取った。生まれて初めて手にした……それはズシリと重かった。


「…………」

 少年はゆっくりと、銃口をジャックの額に向けた。


「こんなもの渡して。あんた、今、ここで、オレに殺されたらどうするの?」

 アストリッドの指が引き金にかかる。そんな少年を、ジャックは身動ぎもせずに見ている。

「大した度胸だね」

 銃口を向けたままアストリッドがジャックを睨み付けた。


 その言葉を聞いて、ジャックは苦笑いをする。


「君が撃たないと分かっているからな」

「何で、分かるんだよ?」


 アストリッドはジャックの分かったような口の利き方が気に入らない。

 その鼻っ柱を折ってやりたいと思った。


「何故って……その方法は、一番利口じゃないからだ」

 ジャックはさらりと言ってのけた。



「…………」



 少しの間があり、アストリッドの口から溜息が漏れた。

「オレ、あんたのゲームに参加してもいいよ」

 銃を下ろして、アストリッドが答えた。


「そうか。これで私も、悩みの種がひとつ消えて嬉しい」

 ジャックが微笑んだ。



 ――悩みの種が百倍に増えなければいいけどな。



 そう思ったのは、アストリッドとジャックのどちらだったのだろう……?


「握手だ。君に友情を持ってもらえるよう、私は努力するよ」

 ジャックが、アストリッドに向かって手を差し出した。

「せいぜい頑張れよ……」

 応えるように、アストリッドも相手と同じよう、ゆっくりと手の平を広げた。


 光の降り注ぐ窓辺。小さな白い傷だらけの痩せた手を……――ジャックの大きな手の平が力強く握り締めた。


「眠りなさい」


 言ったジャックが、アストリッドの頬にそっと手を触れた。

「君が走り回れる程に元気になったら、この町を発とう……」

 それは深く深く刻まれた、少年の心の傷を癒す手。


 少年の、灰色の髪の毛が、陽光を浴びて銀色に煌めいていた。母親譲りの長いまつ毛も同じ色で、明るい光を湛えていた。


「…………」


 暫く撫でていた手を少年の頭から離し、彼が深く眠るまで、そこでジャックは目の前の小さな存在を見つめていた。

 不意に、男の顔が何かの痛みに歪んだように見えた。


「やっと見付けたよ」


 誰にも聞こえない声でそう呟くと、ジャックはそっと、寝息を立て始めた少年の額に口付ける。


「もう二度と、選択は誤らない。……今は名だけの〝君〟に誓う……これからは、この子を守る事が私の生きる事だ」


 ジャック・ローゼンタールは、その後、その短すぎる生涯を終えるまで、この誓いの儘に生きた。

 何かをひた隠し、終ぞ、少年に真実を伝える事は無かったのだと言う。


*  *  *


「行くぞ、ロー」


 黒い外套を身に纏ったジャックが、傍らの少年を促した。アストリッドは丘の上から黙して町並みを見下ろした。



 ――さよなら…母さん。



 道端で朽ち果てた母の、墓標はこの町そのものだった。



 かくして少年の運命の歯車は、回り始めたのである。




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