【2】
「こんなに傷を付けてしまったら、価値が下がってしまうよ」
「そんなこと、知るか」
ジル達に殴られながら、いつの間にか気を失ってしまっていたらしい。あれからどのくらいの時間が経ったのだろう……ぼんやりする頭に、誰かの話し声が聞こえてきた。一人はジルの声だがもう一人は分からない。男の声だ。
目を開けるのも気だるかった。全身が痛くてたまらない。骨も筋肉も内臓も、軋んで悲鳴を上げているようだった。すると誰かがアストリッドの頬に触れた。アストリッドはじっと目蓋を閉じたまま、気を失っているふりを続けた。
「だがしかし……、この顔ならば怪我が治ればそこそこの値はつくだろう。男の子なのが惜しいが、最近は取り締まりも厳しい。贅沢は言っていられないな。ふふ……」
男の声音は、ねっとりとしていて湿っぽく、アストリッドは生理的な嫌悪を感じた。
「連れていくのかいかないのかはっきりしろ」
ジルが、苛立った様に言った。
「本当に身内は居ないかね?」
気味の悪い声が念を押すようにジルに問う。
「下町の浮浪児だ」
「いいだろう。しかし、君はいいのかい? 人売りは地獄に落ちるぞ……?」
「俺を怒らせた、そいつが悪いんだ」
「ではこれを受け取って、このことはもう忘れるといい」
チャリンチャリンと、金属の擦れ合う音がした。金を受け渡しているのだろうか? やがて、一人分の靴音が遠ざかって行く。その後、重たそうな扉の開閉する音がバタンと鳴った。
一瞬の静寂の後、少し経ってから、気味の悪い声の男が再び口を開いた。
「片付けておいで。代金の回収も忘れずに」
「かしこまりました」
そう言って、また誰かが部屋を出ていく音がした。
「あいつを……殺すのか?」
アストリッドが口を開いた。目を開けてみたが視界は真っ白だ。目隠しをされているのだという事に、アストリッドは気が付いた。
「おや、目が覚めたのかい。そうだよ……可哀想にね。最近は奴隷の売り買いも取り締まりが厳しいのさ……足が付くのは困るんだ」
陽気な明るさで、気味の悪い声が答えた。
「オレは、売られたの?」
「ああ。代金は回収させていただくから、お前は人売りに攫われようとしているところかな? 怖いかい?」
「別に……」
「肝の据わったいい子だね。意外とお買い得だったかもしれないな。しかし、まずは怪我の手当てをしないといけないね。浸けるのはそれからにしよう。死んでしまっては元も子もないからな」
聞いたことがあった。
下町には時々、お金持ちに奴隷を売る闇の商人が、子供を攫いに来るのだと。そして彼らは悪魔の使者だから、姿を見た者は殺されてしまうのだ。ましてや隣人を売ろうなどとしたならば、その魂は、永久に地獄へ堕ちて決して救われることはないのだという。
* * *
幾日かが過ぎたような気がした。
アストリッドは、窓の無い、狭い石造りの部屋に閉じ込められて過ごしていた。
一日一度の粗末な食事。
しかし、怪我の手当ては丁寧にされていた。
だが勿論の事、連中への感謝の気持ちは微塵もない。何せ彼らは人売りだ。アストリッドは商品であり、怪我の手当ても親切心からではなく、売り物の手入れをしているに過ぎない事は理解している。
しかし、そんな連中のお陰でも、アストリッドは徐々に元気を取り戻していった。
そんなある日の事だった。
「さあ、お前。今日はお前に値が付く日だ。喜ぶがいい……お前は高貴な方々の集まる場所に出品される事になったよ。酷い場所で五体バラバラになる運命だけは避けられそうで良かったな」
気味の悪い声の男は、ずっと仮面を付けていた。顔面の半分だけを覆い隠す仮面だ。そう言った仮面の男の口元が、ニッコリと笑っていた。彼は手に、青い液体の入った注射器を持っていた。
するとアストリッドの顔色が、ここへ来て初めて青褪めた。
「それは――何をする気だ……?」
「動揺したね。これが何だか分かるのかい? 大丈夫……死にはしないよ。但し、こいつは相当にキツイ。一度でどっぷりと浸かれるくらい、効果的な代物だ」
「やめろ」
アストリッドが、後退りした。
「押さえ付けろ」
仮面の男の合図で、人売りの仲間達がアストリッドの首根っこを掴み、その身体を床に叩き付けた。
「怪我をさせるなよ」
「袖を捲くれ」
「うっ……――」
まだ年端もいかぬ少年に、彼らに抵抗する術など無かった。
悪意は成され、それはアストリッドの全身を駆け巡った。少年がガックリと崩れ落ちると、手早く彼の手足に枷がはめられた。
頭が、割れそうに痛かった。
「大人しくなったな」
「では、運ぼう」
束の間の……――久しぶりに見上げた空は、どんよりと曇った灰色の空だった。
* * *
日がすっかり暮れる頃、アストリッドが連れて来られたのは、そのまま横になって眠れそうな程に分厚い絨毯の、絢爛豪華な部屋だった。彼は理解した。……そこは、アストリッドが普通に暮らしていれば、決して一生立ち入る事も無かっただろう、上方に住まう貴族の屋敷だったのだ。
暴れ出したい程に気分が悪かった。絶え間ない吐き気に襲われ何度も嘔吐を繰り返した。もう胃の中には何も残っていない。
心臓は、どくどくと早鐘を打っている。アストリッドは豪奢な毛並みに突っ伏し、ついには動けなくなっていた。
暫くすると、部屋に大勢の人間が入ってくる気配がした。アストリッドは、薄っすらと目を開けた。
「おお…この少年か……」
部屋に入って来たのは、着飾った貴婦人、気取った微笑みを浮かべる紳士達だった。
「近付いても大丈夫かね?」
「はい……。今は薬に弱っております」
「…………」
視界がボンヤリと霞んで、大人達の声は何処か遠くに聴こえる。
警戒したアストリッドは、手足の枷と重たい鎖を引き摺って、どうにか少し後退った。
「ねぇ、お父様……この子、私にくださいな。銀色の髪に青い瞳……綺麗なお人形になりそうで、私……気に入ったわ」
まるで冷たい金属の様な貴婦人の声音に、アストリッドの背筋がゾクリと震えた。
この連中は本当に人間なのか?
悪い夢を見ている様だった。
「いや、待て待て。この子を買うのは私だよ」
「あら、男爵。意外ですわ。そういうご趣味がおありでしたの?」
「そうではない。酒場の利益は私の財産のうちのひとつだったのだ……。悪い子供には仕置をしないとならん。一生をかけて償わせなければ私の気が収まらないんだよ」
そう言ってアストリッドを見下ろした紳士は、まるで道端の汚物でも見るような目をして眉根を顰めた。
酒場での悪事がバレている様だ。うまくやっていたはずだったが、やはり悪事は長くは続かないらしい。
アストリッドは、口の端をギュッと結んだまま、人買いの貴族達を見つめていた。
そんなアストリッドを見て、不意に、紳士の一人が怪訝に眉根を寄せた。
「この子は本当に薬に漬かっているのかね?」
紳士が人売りに問う。
すると傍に立っていた人売りが、「そのはずですが……」と呟いて、アストリッドの顔を覗き込んだ。
吐くだけ吐いてもがき苦しむと、幾らか気分が楽になった。
アストリッドには〝薬〟というものが実際はどんな物かは良く分からなかったが、彼らの言い様からすると、自分には、あまり薬の効果が出ていないようである……。
確かに、アストリッドは元々、良くも悪くも薬の類が効かない体質だ。もっとも、病気の時にそんな上等なものを与えられた経験は、両親が揃っていた頃でさえ数える程しかなかったが。
「まだ少し、躾が足りないかもしれませんな」
人売りが呟いた。
「私は構わないわ」
貴婦人達がクスクスと笑った。
「それにしても気丈な子だこと……。この子は私達の声が聴こえているのでしょう? 助けも請わない、命乞いもしないだなんて」
まるで、犬か猫でも買う様に、この連中は人間を買うのだ……――アストリッドがそんな事を思った時だった。
「しかし…見れば見るほど生き写しだな……あの娼婦に。実の子という話は本当のようだな」
一人の紳士の言葉に、アストリッドの心臓がドキリと高鳴った。
「何だ、これは娼婦の子か」
「実に馬鹿な女だったよ。美しかったからね……私は何度か、彼女に身請けを申し出た事がある……が、子があるからと、あの女、私の申し出を断るのだよ。
そのうち、身体を壊して客を取ることが出来なくなったと聞いたのだが……――子供がこんな所に居ると言う事は、おそらくもう死んだのだろうな? この少年が娘だったら、私は迷わず買い取るんだがねぇ……」
「…………」
言葉にならない思いが、アストリッドの心を駆け巡った。
彼女は最期の時、既に息子の顔も判らなかった。夜毎、薄暗い路上に座り込んで、酒瓶を片手に笑っていた。
アストリッドは、おかしくなったそんな母親を探し出し、ねぐらへ連れ帰ろうと彼女を説得するのが日課だった。そんな毎日が続いたある日、母親は、道端でぷっつりと動かなくなってしまったのだ。
まるでゼンマイが切れたように、彼女は死んだ。
涙などは流れなかった。
そんな上等な感情は、彼女に対して言えば麻痺していたと言っていい。明日から一体どうして生きていこう……と、まずはそれを考えた。
だが……。
――殺してやりたい。
アストリッドの心の底に、じわりと黒い感情が込み上がってきた。
それは殺意だ。
母を買った男たちが憎い。
憎しみによる殺意など、生まれて初めての感情だった。
母親のことが好きだった。
アストリッドはその事実を、突然のように思い出した。
父親がまだ居た頃、彼女は自分に優しく笑った。我が身は売っても子を売らなかったのは、母の愛情以外にどんな理由があっただろうか……?
いつも、道端で鼻歌を歌いながら酒を飲んでいた、聖書を捨てた神父が以前言っていた。
『お前は、母さんを大切にするんだぞ』
その言葉に、アストリッドは意味も解らないまま、コクリと頷いたのだった。
――オレは馬鹿だ。
今更、理解した。
――愛されていた。
人間であることを捨てたくなるような極貧の中で、狂うまで、彼女が自分を見捨てなかった事の意味を……。
「では商談にまいりましょう」
人売りが声を上げた。
アストリッドは、黙ってその光景を見つめた。その眼差しに、微かな光が宿った事には誰も気付かない。
――逃げ出すチャンスはきっと来る。
それまでは、このまま従順で弱い子供を演じるのだ……。
それまでは。