【2】
アストリッドは目を開けた。居間のソファで眠ってしまっていたらしい。足元にジェイクが座っており、宿題のノートを膝の上に広げたままで、こちらも寝息を立てていた。
部屋にルーアの姿は無かった。
外は既に暗く、夕刻より酷くなった雨と風が窓硝子を横殴りに叩き付けている。
暖炉の薪が、コトリと音を立てて崩れ落ちた。
アストリッドはハッとした。
自分はたった今、夢を見ていたのだと思い出した。
不思議だった……。
その夢は、あまりに鮮明に、その内容が記憶に残っている。
「…………」
うたた寝をしてしまったせいか、頭が少し痛んだ。
アストリッドは立ち上がり、テーブルの水差しに手を伸ばしながら外の様子を伺った。
窓の外には、無数のランプの灯りが揺れていた。
「そろそろ出発するみたいだ」
アストリッドが呟くと、ジェイクがゆっくりと目を開いた。
「もうそんな時間?」
大きく伸びをしながら、ジェイクが問う。
「お前、神父様の所へ行かなくていいの?」
アストリッドがニヤリと笑うと、ジェイクは口をへの字に曲げた。
「ここで僕が抜け出してみなよ。ルーア保安官助手の、見張りの立場ってものがあるだろう?」
「そうか? ルーアは気になんてしなさそうだけどな」
「僕もそう思う。彼は少し……浮世離れしているよ。もちろん良い意味さ」
二人の少年が、クスクスと笑った。
「大丈夫。やれる事はやった」
「そうだな……」
二人が頷き合った、その時だった。
アストリッドは、自身が佇む窓際の向こうに小さな人影を見付けてハッとした。
「ジェイク……この集落には、お前以外に子供がいるのか?」
アストリッドが問うと、ジェイクはきょとんとした。
「メーベルの所に、二歳のマナがいるよ」
「…………」
嵐の中に、子供がひとり佇んでいた。
こちらの部屋の灯りで辛うじてその姿が確認できる程度の距離に、子供はじっと立っている。よく見ると、場違いに豪奢なドレスに身を包んだ、それは少女だった。二人の少年と、年の頃は近そうだ。アストリッドと目が合うと、嵐の中でずぶ濡れのまま、少女はニコリと微笑んだ。
その異様さに、アストリッドの背筋が粟立った。
「ジェイク……、ちょっと……お前こっちに来て、窓の外を見てみろよ……」
「何? その情けない声は」
ジェイクが立ち上がり、こちらに歩み寄って来た。
その刹那である。
窓の向こうの暗闇が、ユラリと揺れた。
「…………!?」
けたたましく、窓硝子の割れる音がした。
「ロー!」
ジェイクが叫んだ。
外の嵐と一緒に、大きな黒い塊が数体、部屋の中に飛び込んで来た。アストリッドはその場から飛び退くと、体勢を立て直し、懐の銃を抜いた。
ジェイクが、壁のライフル銃を手に取るのが見えたが、飛び込んで来たのは、件の犬の様な姿をした獣だ。どう見ても、例の禁呪の化け物達だった……。銃など殆ど効かない相手である。
「外へ逃げよう!」
言いながら、ジェイクは勇敢にも、化け物の口に銃口を突っ込んだ。同時に銃声がして、化け物が数メートル後方に吹き飛んだ。……が、撃ったジェイクの方も、背後の壁に強かに背中を打ち付けて唸った。
拳銃の弾は、あっと言う間に撃ち尽くしてしまった。
「ジェイク!」
アストリッドがジェイクの腕を取って助け起こした。化け物達は、銃弾に怯みはするが、どれも全く致命傷にはならなかった。猟師達が言っていた通りである。
二人は、化け物達に囲まれて、じりじりと間合いを詰められつつあった。
その時だった。
「二人共、下がれ」
表に出ていたらしいルーアが、部屋に飛び込んで来た。ルーアは、二人の少年と化け物達の間に割って入りながら、手にしていた剣を鞘から抜いた。化け物達は、唸り声を上げ、そんなルーアに飛び掛かった。
彼の雨に濡れたマントが、ふわりと翻った。
「…………」
ルーアは恐ろしく戦い慣れしていた。
昼間と同様、彼は鮮やかな身のこなしで、化け物達の猛攻を交わしつつ、あっと言う間に一頭の首を刎ねた。反す剣で二頭目の首も飛ぶ。三頭目の化け物が、さすがに身の危険を感じたのかじわりと後退った。
ルーアの真紅の瞳が、爛々としている。
アストリッドは、元が人間であろうと容赦無く化け物達を斬り捨てるこの青年に、その時、身震いをするような畏れを感じた。
「凄い……任せて大丈夫だ。ロー、逃げよう」
「ああ……」
ジェイクに促されて、アストリッドはその場を去ろうと踵を返した。
しかし……――開け放たれた扉の向こうに現れたのは、四頭目の化け物だった。灰色の毛皮の、一際大きな半獣人だ。その見た目はまるで、物語の中の狼人間のようだった。二人の目の前で、灰色の太い腕が、力任せに扉を引き千切った。
「…………!」
「ロー、行け!」
叫んだジェイクが、次の瞬間その身を翻した。そこに現れたのは、黒豹だった。
黒豹が、灰色の狼人間……灰狼に飛び掛かる。その前足が化け物の顔を引き裂くと、血飛沫が上がった。灰狼は、悲鳴に似た唸り声を上げると、顔面を押さえてのた打ち回った。
その隙に、アストリッドは嵐の屋外へ飛び出した。
皆、荒れ地の教会へ向かったのか、通りには誰も居なかった。アストリッドは駆け出しながら、助けを探して周囲に視線を走らせた。
「!」
その時、アストリッドの行く手に、立ちはだかった人影があった。
それは先程、窓の外に見掛けた、不気味な微笑みの少女だった。
少女は手にしたランプを翳し、アストリッドと目が合うと、再び嬉しそうに微笑んだ。
するとその時、アストリッドは、不思議な事に、彼女の顔に見覚えがある事に気が付いた。
しかし、それが何処の誰だか、全く思い出せない……。
「お前は誰だ?」
苛立ったようにアストリッドが叫ぶと、少女の手元で何かが光った。
同時に、銃声がした。
次の瞬間、アストリッドの肩口から血飛沫が上がった。
「…………ッ!」
焼ける様な痛みに耐え兼ねて、アストリッドはその場に崩れ落ちた。
少女がヒタヒタと歩み寄って来る。
傍まで来ると、彼女は間近でアストリッドの顔を覗き込んだ。
「お前に、逢いたかった……ずっと……」
「…………」
少女の言葉に、アストリッドは怪訝に眉根を顰めた。
「何処かで遭ったか?」
アストリッドが吐き捨てるように問うと、少女は、ピクリと頬を引き攣らせた。しかし、彼女は思い直した様に頭を振った。
「直ぐに思い出すさ。さあ、一緒に行こう? 急がなくちゃ」
少女が言った。
アストリッドは、ハッとして背後を振り返った。
灰狼が、咆哮を上げながら、ルッソ家から飛び出して来た。
「くそっ……!」
アストリッドが、その恐ろしい獣から逃れようと立ち上がった。しかし、足が縺れて上手く走れない。
少女が袖の中に仕込み銃を持っていた事が、痛すぎる誤算だった。
――まさか、撃たれるなんて。
間抜けもいいとこだ。
アストリッドは、あの瞬間、自分が少女の見た目に惑わされた事を自覚した。しかしそれは、この少女の魅力に心を奪われた――という意味とは少し違う。つまり、アストリッドは、彼女の危険な雰囲気を目の当たりにしながらも……何故か、この少女を敵だと認識する事が出来なかったのである。
――何故だろう?
転がるように駆けて来た血塗れの灰狼が、アストリッドと少女を掴み上げた。
再び雨足が強まると、視界は殆ど効かなくなった。
ルーアと黒豹が追い掛けて来る気配がある。が……、こちらを見失ってしまったのか、その気配は直ぐに遠ざかった。
――二人が酷い怪我をしていなければいいけれど……。
アストリッドは、ボンヤリとそんな事を考えた。怪我の痛みのせいか、多くの事は考えられなかった。
目眩がして、アストリッドはそのまま意識を失った。




