深夜のモニター監視アルバイト
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世の中には、労働の対価というものについて、一度きちんと考え直したほうがいい瞬間がある。俺にとってそれは、大学の生協食堂で見つけた求人サイトの画面をスクロールしていた、あの昼下がりだった。
「単発バイト・深夜監視業務・時給三千円・学生歓迎・経験不問」
三千円。もう一度言う。三千円だ。コンビニのレジ打ちの倍以上、家庭教師のバイトすら軽く超える数字が、スマホの画面の中でのんきに俺を待っていた。普通、こういう数字には裏がある。それが世界の基本原理であることぐらい、二十年も生きていれば嫌でも学ぶ。だが人間というのは不思議なもので、裏があると分かっていても、目の前に提示された数字が大きければ大きいほど、「まあ、自分の場合は大丈夫だろう」という根拠のない自信が湧いてくるようにできている。俺も例外ではなかった。
面接は拍子抜けするほどあっさり終わった。都内某所、駅から少し歩いた雑居ビルの一室。スーツ姿の、笑顔が標準装備されているタイプの中年男が、履歴書にろくに目も通さずに言った。
「高橋くんね。うん、大丈夫大丈夫。体力あるでしょ、大学生だし」
体力と時給三千円の因果関係がいまいち理解できなかったが、聞き返すほどの度胸もなく、俺は「はあ、まあ」と曖昧に頷いた。この手の空気で細かいことを尋ねると、面接という名の儀式全体の雰囲気を壊すことになる。それぐらいの社会性は、俺にも一応備わっている。
「仕事内容はね、簡単に言うと監視。モニターをじーっと見てもらうだけ。難しいことは何もない」
モニターを見るだけで時給三千円。この時点でもう少し警戒すべきだったと、今なら思う。だが当時の俺は、来月の家賃と、サークルの飲み会代と、あとついでに言えば気になっている女の子と少しマシな店で飯を食う軍資金のことで頭がいっぱいで、「モニターを見るだけ」という言葉の不自然な軽さに、疑問符をつける余裕がなかった。
採用の通知は、その日の夜のうちにメールで届いた。返信の早さも、時給の高さと同じベクトルで、何かを物語っていたのかもしれない。
出勤の日、俺は電車に揺られていた。自宅の最寄り駅から三十分。悪くない距離だ。終電に間に合う範囲だし、乗り換えもない。
改札を出ると、正面にそびえる観覧車が、営業時間を終えて静かにライトを落としていた。昼間はさぞかし賑やかなのだろう。家族連れ、カップル、絶叫マシンの列に並ぶ大学生のグループ。だが今、目の前にあるのは、照明を落とした巨大な遊園地の、輪郭だけが闇に浮かぶ姿だった。営業を終えたテーマパークというのは、思っていたよりずっと不気味なものだ。楽しさの残り香だけが漂っていて、それが余計に静けさを際立たせる。
指定された通用口から中に入ると、案内された先は、パーク内にあるとは思えないほど無機質な部屋だった。壁一面にずらりと並んだモニター。その数、ざっと数えて30以上。アトラクションの入り口、園内の通路、バックヤード、駐車場、果ては従業員用の休憩スペースまで、パーク内のあらゆる場所が、四角く切り取られた白黒とカラーの映像になって、壁を埋め尽くしていた。
「高橋くんね。じゃあ説明するから」
先に来ていた初老の警備員__名札には「田村」とあった__が、椅子を指さした。俺はそこに座り、渡された分厚いファイルをめくる。
仕事内容自体は、聞いていた通り単純だった。深夜、閉園後のパーク内を映すモニターを見張り、不審者の侵入、火災の兆候、設備の異常、その他もろもろの「おかしなこと」がないかをチェックする。何かあれば所定の番号に連絡し、あとは指示を待つ。それだけだ。
「基本、何も起きないよ。閉園後にここまで入ってくる不審者なんて、まあ、年に数回あるかないか」
田村さんはそう言って、あくびを噛み殺した。この人にとっては、もう何百回と繰り返してきた、退屈極まりない夜なのだろう。
俺は正直、少し拍子抜けした。時給三千円の根拠が、いまいち見えてこない。ただモニターを見て、何もなければそのまま朝を待つだけの仕事に、なぜこれほどの対価が支払われるのか。
午前2時過ぎ。30台以上並んだモニターのうち、俺が惰性で眺めていたのは、園の中央にある大観覧車を映す16番モニターだった。特に理由はない。ただ、観覧車のシルエットが暗闇の中で一番目立っていたから、視線が自然とそこに吸い寄せられていただけだ。
観覧車のゴンドラは、当然、すべて空のはずだった。営業は夜9時に終わっている。動力も落ちている。ゴンドラは止まったまま、夜風に揺れることすらなく、規則正しく円周上に並んでいるだけの、ただの鉄の箱の集合体__その、ゴンドラの一つに、人影が見えた。
最初は見間違いだと思った。画面の粗さのせいだと、モニターの解像度のせいだと、自分に言い聞かせた。だが目をこすってもう一度見ても、そこには確かに、うつむいたまま座っている誰かのシルエットがあった。座席の位置からして、身長百五十センチ前後というところか。子供、いや、小柄な女性だろうか。
「田村さん」
声が思ったより上ずっていたことに、自分で少し驚いた。田村さんは休憩スペースで缶コーヒーを飲んでいたはずだったが、俺の声のトーンだけで何かを察したらしく、すぐに戻ってきた。
「どうした」
「16番、観覧車の……3時方向のゴンドラに、誰かいます」
田村さんはモニターを覗き込み、数秒黙った。それから、俺が予想していたのとはまったく違う反応を見せた。
「ああ」
「ああ、って」
「たまにいるんだよ、それ」
俺は自分の耳を疑った。「たまにいる」という言葉が、この状況に対する説明として、あまりにも軽すぎた。
「不審者じゃないんですか。通報とか」
「したところで、警察が来る頃にはいなくなってる。今までも、そうだった」
その台詞の後、田村さんは何事もなかったかのように休憩スペースに戻っていった。俺は一人、16番モニターに向き直った。ゴンドラの中の人影は、さっきと寸分たがわぬ姿勢で、うつむいたまま座り続けていた。
風は吹いていない。ゴンドラは揺れない。だが、その人影だけが、ほんの少し――本当にほんの少しだけ――さっきより、こちら側を向いているような気がした。
♢
午前3時過ぎ、13番モニターに目を向ける。
園の裏手、従業員用の資材置き場を映すカメラだ。積み上げられたコンテナと、防犯灯の白い光だけの、退屈を煮詰めたような画面。
そこに、何かがいた。
四本脚。コンテナの陰から、するりと出てきたシルエット。大きさは中型犬ほどだろうか。体高は膝くらい、胴は長め。動きは滑らかで、迷いがない。
「野犬…か?」
声に出してみたが、自分でもあまり納得していなかった。この辺りに野犬が出るなんて話は、面接のときも初日の説明でも、一度も聞いていない。テーマパークという場所柄、動物の管理には相応に気を遣っているはずだ。迷い込んだ野良犬にしては、歩き方に妙な余裕があるように見えた。
もう少しよく見ようと、画面を拡大した。
その瞬間、それは走り去った。
驚いて逃げたわけではない。画面越しのズーム操作に反応できるはずがない。それなのに、まるでこちらの意図を見透かしたかのようなタイミングで、四本脚の何かは画面の端へと消えていった。
「は?」
思わず声が漏れた。偶然だ。そう自分に言い聞かせる。カメラの操作音か、あるいは防犯灯の点滅か、何かに反応しただけだろう。世の中には説明のつく偶然というものが、いくらでも転がっている。
念のため、隣接するエリアを映す別のモニターに視線を移した。14番。資材置き場のすぐ裏手、従業員通路を映すカメラだ。
いた。
同じシルエットが、通路の奥、防犯灯の光が届かない暗がりの手前に立っていた。心臓が一つ、大きく跳ねる。俺は反射的にマウスに手を伸ばし、そのカメラをズームにかけた。
画面が拡大される、その一瞬のラグの間に、もう姿はなかった。
「噓だろ……」
暗がりに逃げ込んだにしては、あまりにも早すぎる。しかも、その暗がりというのは行き止まりのはずだった。ファイルの見取り図で確認した記憶がある。あの通路の先には、施錠された非常口があるだけだ。
俺は椅子から半分腰を浮かせたまま、田村さんの名前を呼んだ。
返事がない。
もう一度、少し大きな声で呼んでみる。それでも、休憩スペースの方から返ってくるのは沈黙だけだった。
トイレにでも行っているんだろう、と自分に言い聞かせる。田村さんだって人間だ。缶コーヒーを何本も飲んでいれば、そういう時間だって必要になる。
13番と14番のモニターに現れたあの四本脚の何かは、その後しばらく、どのカメラにも映らなくなった。俺は監視室の椅子に座ったまま、壁一面のモニターを端から端まで、何度も何度も見比べた。時間の感覚が妙に間延びして、壁時計の秒針の音だけが、やけにはっきりと耳に届いた。
何もない時間が続く。
それが、この仕事における「正常」の状態だ。頭ではそう分かっている。だが、たった今まで確かに存在した何かが、忽然と消えたという事実は、「何もない」という状態に、これまでとはまったく違う重みを持たせていた。
椅子に座ったまま、9番モニターに目を向けていた時、
突然、10番モニターに、それが映った。
資材置き場でも従業員通路でもない。園のメインエリアに近づいている。俺は息を呑んで画面を凝視した。四本脚のシルエットは、迷いのない足取りで、カメラからカメラへと移動していく。
9番。
8番。
7番。
四本脚の生き物は監視カメラの番号順に、自分がどのカメラに映っているかを完全に把握した上で、次に進むべき番号を選んでいるように見えた。
俺は反射的に、自分の座っている監視室からモニターまでの位置関係を思い出した。部屋の見取り図が脳裏に浮かぶ。この監視室にもっとも近いカメラは__1番モニターだ。入り口の防犯灯を映す、正面玄関のすぐ脇のカメラ。
6番。
5番。
4番。
「噓だろ……」
声が掠れた。
四本脚の生き物は確実にこっちに近づいてきている。
この部屋には俺一人しかいない。田村さんはどこにもいない。助けを呼ぶための知識も、対処法も、渡された分厚いファイルのどこにも書かれていなかった。
(こっちに来る)
その考えが確信に変わった瞬間、俺は椅子を蹴るようにして立ち上がっていた。モニターから目を離す。それがどれほど危険なことか、この状況では判断のしようもなかったが、体が先に動いていた。監視室の扉に飛びつき、力任せに閉める。鍵はない。代わりに、近くにあった重い事務机を、両手で扉に押し当てた。
息が上がる。腕に伝わる机の重みだけが、今この瞬間、俺が現実の中にいることを教えてくれる唯一の手がかりだった。
3番。
2番。
1番モニターに、影が映った。
俺は机を押さえたまま、モニターに背を向ける格好でうつむいた。だから、その瞬間の画面がどうなっていたのか、直接は見ていない。ただ、視界の端、壁のモニターの光が、わずかに揺らいだのを感じた気がした。
俺は目を閉じた。
扉の向こうから、何かの気配がする__はずだった。だが、耳を澄ませても、聞こえてくるのは自分の心臓の音と、壁時計の秒針だけだった。
どれくらいそうしていただろうか。数分か、あるいはもっと短かったのかもしれない。恐る恐る目を開け、振り返り、1番モニターへと視線を戻す。
「…いない」
そこには何も映っていなかった。
ただの、誰もいない正面玄関の映像が、いつも通りの静けさで、そこにあるだけだった。
♢
「高橋くん、どうした? 開けてくれ」
扉の向こうから聞こえたのは、田村さんの声だった。俺は詰めていた息を一気に吐き出し、震える腕で机をどかした。もう恐怖よりも、状況を理解したい気持ちの方が強くなっていた。四本脚の何かのこと、田村さんが姿を消していたことも、全部まとめて説明してほしかった。
鍵のかかっていない扉を開ける。
そこにいたのは__
ブリッジの体勢をとった田村さんだった。
床に手をつき、体を反らせて逆さまにこちらを見上げる格好のまま、老いた顔だけがにやりと笑っている。予想していたどんな状況とも違う光景に、俺の喉からは、自分でも制御できない悲鳴が飛び出した。
「うわああああああ!!」
田村さんはゆっくりと体勢を戻し、腰を叩きながら、心底愉快そうに笑い声を上げた。
「いやあ、すまんすまん。私はホラー映画が好きでね、ついつい人を驚かせたくなる性分なんだ」
俺は言葉も出ないまま、その場にへたり込みそうになるのを、どうにか堪えた。全身から力が抜けていく感覚と、胸をなで下ろす安堵とが、同時に押し寄せてきた。あの四本脚の何かについて尋ねる気力すら、もう残っていなかった。
その日、勤務時間が終わると、俺は田村さんに別れの挨拶をして、始発の電車に乗り込んだ。窓の外を流れる街灯の光をぼんやり眺めながら、スマホが震えた。
派遣会社からの電話だった。
「高橋様、本日はお疲れ様でした」
事務的な、それでいてどこか柔らかい女性の声。今日の勤務時間の確認、そして給料の金額が伝えられる。時給三千円、深夜割増込みの金額を聞かされて、俺は思わず口元が緩むのを感じた。明日にはこの金額が口座に振り込まれるという。この短時間で得られる対価としては、破格としか言いようがなかった。
最後に、仕事はどうだったか聞かれ、俺は正直に答えることにする。
「観覧車に謎の影が見えたり、めちゃくちゃ怖かったです。
あと、田村さんに、めちゃくちゃ驚かされたんですよ。ホラー映画好きらしくて」
「田村さん、ですか?」
電話の向こうで、女性の声が一瞬止まった。
「はい。現場でご一緒した、警備員の田村さんです」
「田村ではなく、田中では?」
「え?」
「弊社からあちらのテーマパーク様に派遣しているのは、田中という若い男性一人だけです」
言葉が出なかった。ついさっき、ブリッジの体勢から笑いかけてきたあの顔が、再生される。あれは、いったい誰だったのだろう…。
♢
その日の夕方、テレビをつけていた俺の耳に、聞き覚えのある単語が飛び込んできた。ニュースキャスターが淡々と読み上げる原稿。テーマパークの駐車場に停められた車の中で、男性の遺体が発見されたという。死因は心臓発作。名前は、田中という名字だった。
俺はリモコンを持ったまま、しばらく動けなかった。
田村という人間が何者だったのか。あの夜、監視室の壁のモニターに映っていた四本脚の生き物、あれは何だったのか。。
尋ねたいことは、いくらでもあった。だが、それを尋ねるべき相手は、もうどこにもいなかった。




