第15話 観測不能の星
満月が近づくにつれ、城内の空気はわずかに張り詰めていった。──血が、夜に引かれている。月は、血を持つ者の奥を静かに揺らす。
セラフィオンから静かな申し出があったのは、そんな午後のことだった。
「月齢と血流の相関を観測したい。立ち会っていただけますか」
合理的な理由だ。王族として断るほうが不自然で、ローゼリアは迷わず頷いた。
研究塔は王城の北端、夜空に最も近い場所にある。塔へ向かう石畳の回廊は静まり返り、傾きはじめた夕暮れの光が長い影を引いていた。
首元の詰まったドレスを選んだのに、布の下の熱は消えない。無意識に襟元へ触れかけて、ローゼリアはすぐに手を離した。
隣を歩くセラフィオンは、一定の距離を保っている。触れれば届くが、触れなければ永遠に届かない距離。
セラフィオンの周囲には、いつも少しだけ冷えた匂いがある。ジュニパーベリーの青い静けさ。乾いたインクとホワイトティーが静かに重なる、情緒を置き去りにした“記録の匂い”。それは人肌の温度を拒む、静かな結界みたいだった。
「満月は二日後です。王族の儀式にとって、最も安定する周期──」
淡々と告げる横顔を見ながら、ローゼリアは思わず問いを投げた。
「反対しないの?」
セラフィオンはわずかに首を傾ける。
「合理的かどうかで言えば、反対です」
正直な答えに、ローゼリアは小さく笑った。
「でも、止めないのね」
「あなたが選んだ未来なら否定はしません」
夕暮れの光がセラフィオンの横顔を柔らかく縁取り、その瞳に淡い群青を落とす。感情を滲ませない男なのに、その声はほんのわずかに低く、深い。冷えた香りの奥で、シダーだけがほんのわずかに体温を含んだ気がした。
研究塔の最上階、観測室へ出ると視界が一気に開けた。開閉式の硝子天井は今夜は開かれ、群青へと移ろう空が広がっている。淡い星がひとつ、またひとつと灯りはじめ、涼やかな風が頬を撫でた。
「……綺麗」
「湿度が低い。観測条件は良好です」
ロマンを数値に変換する男に、ローゼリアは小さく笑う。
「星を見ても、ときめかないの?」
セラフィオンは夜空から視線を外さないまま、静かに答えた。
「あなたは“揺らぎ”が少ない」
褒め言葉なのか、検査結果なのかわからず、ローゼリアは少しだけ顔を顰めた。
「星は軌道を外れません」
セラフィオンは続ける。
「一度選んだ道を、揺らがず進む光です」
それがローゼリアのことを言っているのかどうかは分からない。ただ、その言葉は静かに胸に落ちた。理性の声で語られるのに、どこか温度がある。セラフィオンは夜空を見上げたまま、言葉を重ねた。
「……どうして、契約を急ぐのですか」
「……守りたいから」
「あの騎士を?」
「ええ」
風が吹き、髪が揺れる。セラフィオンの指が一瞬だけ動きかけ、止まった。許可のない接触はしない。その徹底した節度が、逆に意識を強くさせる。
「王族性を分けるということは、あなた一人の問題ではなくなるということです」
「わかってる。それでも」
迷いはない。夜は深まり、星は増えていく。
「あの騎士との契約を成功させたいのでしょう」
「ええ」
「ならば共鳴を安定させる必要があります」
「方法は?」
「私と契約してください」
「愛人契約の儀式をするってことかしら?」
「はい。私にも王族性を持つ血が流れています。共鳴の安定には有効でしょう」
「……そうかもしれないわね」
「……共鳴は、ただの形式ではありません」
「小指に刻まれた薔薇は、生涯消えません」
静かな視線が、ローゼリアの指先へ落ちる。
「それでも、私を受け入れてくれますか?」
低い声だった。青い瞳が、わずかに揺れる。逃げ道を与えるような問いのようで、逃げ道なんてないかのように青い瞳に吸い寄せられる。
「……不思議ね」
ローゼリアは夜空を見上げた。ひとつの星が瞬く。胸の奥で何かが引かれる。理屈ではない。血の奥が静かに疼いた。
「本当は、あなたを遠ざけるべきだと思うのに」
セラフィオンは黙ったまま、ローゼリアの視線の先を辿る。
「どうしてかしら」
小指に咲く紫の薔薇へローゼリアの視線が落ちる。そこにはもう、ルカリウスとの契約の証が刻まれている。セラフィオンの視線も、紫の薔薇を辿る。
(ルカは──怒るかしら?けど、これがルカのための選択となる気がする)
「あなたと契約するのが、間違いだとは思えないの」
「合意……と受け取ってもよろしいですか?」
ローゼリアは応える代わりに、セラフィオンの前に小指を差し出した。
セラフィオンは距離を詰めなかった。ただ右手だけを差し出す。互いの腕が静かに交差し、指先だけが近づいた。触れ合う小指の熱だけが、やけに鮮明だった。
小指を口元に近づけたまま、青い瞳だけがまっすぐ翡翠の瞳に向けられた。ローゼリアは先にセラフィオンの小指に牙を刺した。翡翠と青の視線が強く絡み合う。
ローゼリアに続こうと、牙を沈める直前、セラフィオンが一瞬だけ止まる。まるで、これ以上近づけば均衡を失うと知っているみたいに。息を吐くとセラフィオンもローゼリアの小指に浅くゆっくり牙を刺した。
光が滲む。赤とも青ともつかない淡い輝きが、二人の指先を包み込んだ。右手首の奥が、熱を持つ。一瞬、紫の奥へ青が静かに滲んだような影が現れた気がした。
ローゼリアの小指には、紫に寄り添うように青い薔薇が咲く。セラフィオンの小指にも赤い薔薇が咲く。契約した相手の色を受け継ぐように。
セラフィオンが静かに口を開く。
「私も……愛人となりました。愛称で呼ぶ許可をいただけますか」
ローゼリアは少しだけ考えて、頷いた。
「いいわよ、フィオ」
ほんの少しの沈黙のあと、セラフィオンは小さく息を吸う。
「……リア」
──その呼び方だけが、観測ではなかった。
理性の仮面の隙間から、はにかんだような表情が一瞬だけ覗いた。
「あなたがあの騎士を選ぶ未来が、合理的でないとしても」
セラフィオンの声色がわずかに変わった気がした。
「それでも私は、その未来の隣に立てる位置にいたい」
青い瞳が、初めて観測ではなくローゼリアだけを見ていた。
「……選ばれなくても構いません」
そう言いながら、その視線だけは少しも逸れなかった。その言葉は静かすぎて、優しいのに痛かった。
それでも星の下で並ぶ距離は、不思議と心地よかった。胸の奥で最初に響くのは、あの騎士の名前だけだったとしても。
夜空をひと筋の光が横切る。流れ星だった。
セラフィオンは願わない。願いは理論ではないからだ。けれど、指先が熱い。流れ星が消えても──隣の星からは、視線を外せなかった。




