第六話 今日はここまでにしましょう
復帰後の撮影初日、スタジオは前より静かだった。
人の数は変わっていないはずなのに、声だけが少なかった。照明の熱は同じように床へ落ちていたが、誰もそれを口にしなかった。何かあった現場の翌週は、だいたいこうなる。みな事情を知っているわけではない。知らないまま、知っている形だけが共有される。
わたしはカメラを組みながら、昨日の廊下のことをまだ体のどこかで持っていた。
気づいていましたか。
はい。
では、なぜ止めなかったんですか。
問いは答えにならないまま、機材の重さと一緒に残っていた。
玲は予定の時間に入ってきた。挨拶をして、衣装の確認をして、立ち位置を確かめた。動作はいつもどおりだった。いつもどおりに見えることだけが、前より少し重かった。
真帆は手帳を開いていたが、ページをめくる手が少し遅かった。スタッフへの指示は変わらなかった。ただ、返事の前にごく短い間が入った。
撮影が始まる。
玲はカメラの前に立ち、求められた角度で顔を向けた。照明が頬の骨に当たり、髪の影が首筋に落ちた。レンズ越しに見ると、きれいだった。きれいで、薄かった。
薄い、と思う日は前にもあった。だがその日は、薄さがごまかしのきかないところまで来ていた。目線を外して戻すまでの時間。息を吸う前の肩の止まり方。ポーズをほどくとき、指先だけが一拍遅れる。
スタッフが次の指示を出した。
「玲ちゃん、もう一回だけお願いします」
玲は頷いた。
頷き方まで、きれいだった。
わたしはファインダーを覗いたまま、右手の指に少し力を入れた。録画ボタンはそのままだった。止めるなら今しかない、という考えと、今止めて何が変わるのかという考えが、同じ速さで来た。
玲が次の位置へ入る。足元のテープに靴の先が重なる。顔が上がる。その途中で、ほんの一瞬だけ焦点が合わないように見えた。
わたしはそこでカメラを下ろした。
「今日はここまでにしましょう」
言ったあとで、自分の声がスタジオのどこから出たのか分からなかった。
スタッフの動きが止まった。照明のファンの音だけが残った。
真帆がこちらを見た。すぐには返事をしなかった。一拍だけ置いてから、手帳を閉じた。
「分かりました」
それだけだった。
玲は何も言わなかった。立ち位置の上で、少しだけ肩を下ろした。
スタッフが照明を落とし始める。さっきまで撮影のための場所だった空間が、ただのスタジオに戻っていく。真帆は玲の方へ歩いていき、何かを低く訊いた。玲は短く答えた。二人ともこちらを見なかった。
――――――――
機材を片づけているとき、玲が一人で近づいてきた。
照明が半分落ちたあとで見ると、顔の輪郭はさっきより少し柔らかかった。撮影のための顔から、まだ完全に降りてはいない途中の顔だった。
「ありがとうございました」
玲はそう言った。
「いえ」
それ以上の言葉は出なかった。昨日の問いに対する答えも、今さら差し出せるものではなかった。
玲は頷いた。
少し離れたところで、真帆がスタッフと次回の日程を確認していた。声はいつもの速さに戻りきっていなかった。
玲は振り返らずに真帆の方へ歩いた。途中で一度だけ、照明の外れたスタジオの床を見た。
わたしは三脚の脚を縮めた。金属の擦れる音が、ようやく自分の手元へ戻ってきた。
――――――――
数日後、受賞映像についての短い取材が入った。
会場は小さく、白い背景紙の前に椅子が二脚置かれていた。インタビュアーは若い男で、質問項目を紙に並べて持っていた。受賞しなかった作品についても、候補作として再度取り上げる企画だと説明された。映像が配信で広く見られたことが理由らしかった。
机の上には、当日の進行表と、印刷されたキャプチャが数枚置かれていた。その中に、一秒半の廊下の画があった。
インタビュアーは定型の質問をいくつかした。制作の経緯。編集時に意識したこと。候補入りした感想。わたしは順番に答えた。どれも答えられる種類の質問だった。
「この映像で、特に印象に残っているカットはありますか」
紙の上の一秒半が、白い背景紙の前よりはっきり見えた。
「あります」
「どのカットでしょう」
わたしはキャプチャを指ささなかった。
「廊下の短いカットです」
「人が通るところの」
「はい」
インタビュアーがメモを取った。
「なぜそのカットが」
そこで、少しだけ間が空いた。
言わなくても取材は成立した。だが、その場で言わないことは、前に戻ることに少し似ていた。
「この映像に映っている人が、今どこにいるか知っているので」
インタビュアーが顔を上げた。
不思議そうな顔ではなかった。少しだけ、予定にない答えを受け取った顔だった。
「それは、後から分かったということですか」
「そうです」
それ以上は続けなかった。インタビュアーも追わなかった。
取材が終わり、椅子から立ち上がる。背景紙の白さが、しばらく目に残った。
――――――――
翌週、新しいオファーの資料が届いた。
わたしは事務所の小さな会議室で、タブレットの画面を見ていた。タイトル、制作会社、撮影時期、脚本のあらすじ。指でスクロールすると、文字だけが滑って上へ消えた。
条件はよかった。そういう言い方になる案件だった。規模も、扱いも、今のわたしに合っていた。断る理由は特に見当たらなかった。
見当たらないまま、画面の上で指だけが止まった。
真帆は向かいの席にいた。紙の手帳は閉じたまま、横に置いてあった。珍しかった。
「どう思う」
真帆が言った。
急かす声ではなかった。答えの置き場所を先に空けておくような言い方だった。
わたしはタブレットを伏せた。
「今期は、少し間を空けたいです」
真帆はすぐには返事をしなかった。手帳の表紙に指を置いたまま、わたしを見た。
「そう」
それだけだった。
本当にいいの、とか、少し休めば変わるかもしれない、とか。そういう文の入る場所が、しばらく空いたままだった。
真帆はその空いた場所を埋めなかった。
「先方には、こちらで返しておくね」
「はい」
返事をしたあとで、胸のあたりに遅れて何かが来た。軽いのか重いのか、まだ名前がつかなかった。
真帆がタブレットを閉じた。画面が黒くなる。そこに会議室の蛍光灯が映った。
「他のも、少し見直そうか」
その声は、前より少しだけ静かだった。
わたしは頷いた。
それで話は終わった。
――――――――
帰宅して、台所でお湯を沸かした。
やかんの底に火が当たる音がしていた。窓の外はもう暗かった。冷蔵庫の上に置いたままの郵便物が二通、重なっていた。昼のあいだ持っていたバッグを椅子の背にもたせかける。
今日は、やりたくないから、とまでは言わなかった。
その言葉は、もう少し先にあった。
湯が沸くまで、流しの前に立っていた。換気扇の音がしていた。やがて蒸気が細く上がり、ガラスに触れる前にほどけた。
茶葉を入れ、湯を注ぐ。待つ。カップに移す。両手で持つ。熱は指先からゆっくり上がってきた。
見られていない時間が、前より少し長かった。
悪くはなかった。
茶を飲み、カップを洗い、拭いて、棚に戻した。
――――――――
深夜、わたしは机の前に座っていた。
外付けドライブを接続し、画面の上に並ぶフォルダを開く。日付と現場名。いつもと同じ文字列だった。カーソルを動かし、目的のフォルダを選ぶ。あの一秒半のある素材は、まだそこにあった。
再生はしなかった。
ファイル名の上に、削除の操作だけを呼び出した。確認画面は開かなかった。キーに指を置いたまま、押さなかったからだ。
削除してしまえば、片づいた形にはなるかもしれなかった。残しておけば、抱え続ける形にも見えた。
どちらも少し違う気がした。
画面の光が、爪の先だけを白くした。
わたしは指を離した。ウィンドウを閉じることもしなかった。ドライブの回転音だけが、机の上で小さく続いていた。
ただ、そこにあるものを、そのままにしておいた。
窓の外で、遠くの車の音が一度だけ通った。
部屋は静かだった。
静かなまま、前より少しだけ輪郭があった。




