第五話 では、なぜ
授賞式の夜のあとも、撮影は予定どおり続いた。
予定どおり、という言い方がどこまで正確なのか、そのころにはもう少し分からなくなっていた。真帆の手帳の上では、おそらく何も崩れていなかった。入り時間、衣装、移動、照明の組み替え、休憩の長さ。数字にすれば、たぶんどれも許容の範囲に収まっていた。
だが、収まっているものの中でだけ起きるずれがあった。
スタジオに入ると、玲はいつもどおり先に挨拶をした。声は変わらなかった。顔も、大きくは変わらなかった。変わらなかったからこそ、小さいところだけが目についた。
返事が少し早かった。
目線を戻すまでに、余分な一拍があることがあった。
衣装の肩を指先で直す回数が、前より増えていた。
どれも、言葉にするほどではなかった。言葉にした途端、こちらの見方の方が過剰になる種類の変化だった。
真帆はその朝も手帳を開いていた。スケジュールは想定通りです、とスタッフに言っていた。声に揺れはなかった。
玲は「大丈夫です」と言った。
その二つの文のあいだで、撮影は進んだ。
わたしはカメラを構えた。
モニターの中で、玲は正確に立っていた。照明はきれいに乗っていた。レンズを通すと、疲れは少しだけ遠くに行く。遠くに行くから、こちらの手も動かしやすい。
それでも、その日の玲はときどき輪郭が薄かった。
薄い、と思ったのは顔ではなかった。動きが正確すぎて、どこにも引っかからない時間が続いた。こちらの指先に残るものが少なかった。
わたしはそれを見ていた。
見て、カメラを止めなかった。
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午後、照明の位置を変えるために十五分だけ空きができた。
スタッフがスタンドを運び、床のテープを貼り直していた。真帆は廊下側で電話に出ていた。低い声で、短く返事をしていた。玲は楽屋へ戻った。水だけ持って行ったのが見えた。
わたしは機材の脇でケーブルを巻き直していた。巻き癖のついた部分を指でならし、輪を揃えて床に置く。その作業だけで、少し時間が埋まる。
廊下の向こうで、足音が急に速くなった。
若いスタッフが一人、楽屋の方から走ってきた。途中で真帆を見つけて、声を落としきれないまま何かを言った。言葉はここまで届かなかったが、真帆の顔がそこで初めて手帳から外れた。
電話を切る動作だけが、少し乱れた。
真帆はすぐに楽屋の方へ向かった。スタッフも後ろについた。廊下は元の静けさに戻らなかった。何人かが立ち止まり、何も聞こえなかったふりをして動きを遅くした。
わたしはその場から動かなかった。
動かなかった、というより、動く順番が分からなかった。
機材ケースの横にしゃがんで、ケーブルの先端をまとめる。マジックテープを留める。一本、もう一本。手だけが先に次の作業を知っていた。
楽屋の方から、扉の開く音がした。
誰かの声が短く重なった。水、という言葉だけが聞こえた。少し遅れて、真帆の声がした。内容は拾えなかったが、速度だけで真帆だと分かった。いつもより少し速かった。
そのとき、まだ言われていない問いだけが、なぜか先にそこにあった。
わたしはケーブルを持ったまま立ち上がり、またしゃがんだ。
何かを手伝いに行くこともできた。廊下を曲がって楽屋の前まで行き、必要なものがあるか訊くこともできた。
でもそうしなかった。
楽屋の前で必要とされる人間の中に、自分は入っていない気がした。
言い訳に近かった。
手は次のケーブルをまとめた。
――――――――
しばらくして、撮影中止の連絡が来た。
スタッフの一人が、申し訳なさそうに言った。体調不良で、本日はここまでになります、と。誰に向けた説明でもない説明だった。誰も詳しくは訊かなかった。
照明が一つずつ落とされる。白かった床が急に平たくなる。機材を外す音だけが残った。
真帆は最後まで楽屋の方から戻ってこなかった。
玲の姿も見なかった。
わたしはレンズを外し、キャップをはめ、ケースに入れた。三脚の脚を縮める。台車に積む。いつもの順番だった。順番だけが残っていて、その中身が抜けていた。
廊下を出るとき、楽屋の扉は閉まっていた。前に紙コップが二つ置かれていた。一つは水が半分くらい残っていた。
見ただけで、通り過ぎた。
――――――――
外は夜になっていた。
台車を押して駐車場まで出る。アスファルトが昼の熱をまだ少し持っていた。車に機材を積み込む。重さはいつもと変わらないはずなのに、その日は箱の角だけが妙に硬かった。
エンジンをかける前に、ハンドルに手を置いたまま少し座った。
何も考えていなかった。
考えないまま、さっき見たものだけが残っていた。廊下を走る足音。電話を切る真帆の手。閉まった楽屋の扉。床に置かれた紙コップ。
どれも断片だった。断片のまま、きれいに離れていた。
家に帰っても、モニターを開かなかった。外付けドライブを机の上に置いたまま、台所へ行った。やかんに水を入れ、火にかける。沸くまで流しの前に立っていた。
玲が倒れた、と、誰もはっきりわたしに言ったわけではなかった。
でもそうとしか取れない速度で、人が動いていた。
お湯が沸いた。茶葉を入れ、湯を注いだ。待つあいだ、楽屋の前の紙コップのことを考えた。誰がどちらを使ったのかは分からなかった。分からないままでいいはずのものだった。
茶を飲み、カップを洗い、拭いて、棚に戻した。
その順番の中にいるときだけ、考えないでいられた。
――――――――
撮影は数日止まった。
その数日で、誰からも詳しい連絡は来なかった。真帆からは日程調整のメールだけが届いた。文面は短く、復帰日だけが書いてあった。理由はなかった。
復帰初日の朝、スタジオの廊下は前と同じにおいがした。発泡スチロールと蛍光灯と、少し遅れて人の汗のにおいがした。
わたしは機材ケースを壁際に置いた。扉はまだ開いていなかった。人の出入りも少なく、収録前の廊下にしては静かだった。
玲が、控室の方から歩いてきた。
顔色はよくも悪くも見えなかった。よく見ようとすると、何も見えなかった。
玲はわたしの前で止まった。
「野口さん」
「おはようございます」
「おはようございます」
そこまではいつもどおりだった。
玲は扉の方を見ず、わたしだけを見た。
「ひとつ、訊いてもいいですか」
「はい」
「気づいていましたか」
何に、と聞く必要はなかった。
「はい」
返事は思っていたよりすぐに出た。
玲は少しだけ頷いた。
「では、なぜ止めなかったんですか」
廊下の奥で台車の車輪が鳴った。誰かが通り過ぎたはずだったが、こちらを見たかどうかは分からなかった。
わたしは答えなかった。
答えられなかった。
止めるべきだった、とは思っていた。思っていたのに、止めなかった。そのあいだにあるものを、言葉にしようとすると、手が先に空になる感じがした。
見ていたから、とも言えた。
自分の役割ではないと思った、とも。
どちらも少し違った。
玲は急がなかった。
声の速さは変わらなかった。問いだけが、そこに置かれていた。
しばらくして、玲は視線を外した。
「そうですか」
そう言ったのではなく、そういう形の息が落ちた。
それ以上は何も言わず、扉の方へ歩いていった。わたしはその背中を見ていた。止める言葉は、今度も出なかった。
控室の扉が閉まるまで、廊下のにおいは変わらなかった。
そのまま、わたしはしばらく動けなかった。




