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顔の在処  作者: 山高帽
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第四話 受賞した夜

 授賞式の会場は、光が多すぎる場所だった。


 ロビーの床は磨かれていて、照明の丸い反射がいくつも重なっていた。壁際には花が並び、受付の近くではスタッフが小さな声で走っていた。小さな声で走ることができる人たちだった。靴音だけが少し遅れて残った。


 わたしは別件の撮影でそこにいた。受賞者のコメントを押さえる短い仕事で、会場に入ってからやることはほとんど決まっていた。入口、ロビー、表彰後の導線、控室前。確認する順番まで、朝のうちに共有されていた。


 機材を肩から下ろして、壁際に寄せた。会場の空気は乾いていた。花のにおいと、ワックスと、冷えた空調のにおいが混ざっていた。華やかな場所のにおいは、たいてい少し薄い。


 スクリーンでは候補作の映像が順番に流れていた。拍手が起きるたび、音が天井で一度平たくなった。


 数年前に編集した短い映像も、その夜の候補の一つに入っていた。切り離したはずの一秒半が、別の形で戻ってきていた。


 だが会場にいる人間のほとんどにとって、それはただの一本だった。映像は流れ、拍手があり、次の作品へ移る。そういう速度で夜は進んだ。


 スタッフに呼ばれて、ロビーから廊下へ移った。控室前は少し暗く、足元の絨毯が音を吸っていた。会場の中心から十数歩離れただけで、光の厚みが変わった。


 そこで玲に会った。


 壁際に立っていた。濃い色のドレスに、薄いショールを肩にかけていた。白い照明の下で見るより、輪郭がやわらかかった。髪はまとめてあり、首筋だけが静かに出ていた。


 わたしが足を止めるより先に、玲がこちらを見た。


「野口さん」


 会場の中では少し低すぎる声だった。


「こんばんは」


「こんばんは」


 玲はわたしの持っている機材を見て、それから廊下の先を見た。


「今日も撮ってるんですね」


「はい。別件で」


「そうですか」


 それだけ言って、玲は少し笑うでもなく目を戻した。会場の奥から誰かに呼ばれているらしかったが、すぐには動かなかった。


「玲さんも」


「別の作品で呼ばれました」


 廊下の向こうでスタッフが通り、ショールの端がわずかに揺れた。


「この前の撮影、ありがとうございました」


 玲が言った。


「いえ」


「まだ続くんですよね」


「はい」


 玲は頷いた。


「よかったです」


 何がよかったのかは言わなかった。わたしも聞かなかった。


 会場係が玲の名前を呼び、玲はそちらへ向き直った。


「またあとで」


 そう言って、廊下の角を曲がった。あとで、という言葉だけがそこに残った。


――――――――


 表彰が終わるまで、仕事は途切れず続いた。


 受賞者が名前を呼ばれて立ち上がる。歩く。頭を下げる。マイクの前で一度息を吸う。そういう順番を何度も見た。受賞の瞬間は華やかに見えるが、近くで見ると動作の集まりだった。歩幅、裾の持ち上げ方、マイクの高さ、拍手が止むまでの待ち方。


 自分の映像は賞を逃した。結果が出た瞬間、特に何も感じなかった。感じなかった、というより、感じる前に次のカメラ位置へ移動していた。


 それもいつものことだった。


 仕事が終わるころには、会場はもう打ち上げの形に変わっていた。丸いテーブルにグラスが並び、誰もが少しだけ声を大きくしていた。わたしは端の方で紙コップの水を取った。こういう場に知り合いがいないわけではないが、話し込むほどの相手もいなかった。


 玲は、会場のいちばん隅に近いテーブルのそばにいた。誰かと話していたわけではなかった。グラスを持ったまま、壁の装飾を見ていた。


 わたしに気づくと、少しだけ顎を引いた。呼ぶでもなく、避けるでもない動きだった。


 近づくと、玲が先に言った。


「受賞した夜って、何もないですね」


 グラスの中の氷が、小さく鳴った。


「もっと、何かあるのかと思ってました。急に別の人になるとか」


「ならないですね」


「野口さんは、こういうの慣れてますか」


「慣れてはいないです」


 玲はグラスの縁を指でなぞった。


「わたし、ずっと考えてたんです。こういう夜のあと、部屋に帰ったら何が残るんだろうって。でも、たぶん今日も同じですね」


 落胆も期待も、強くは入っていなかった。


「昔、一度だけ」


 わたしはそう言って、そこで少し止まった。


「似たような夜のあとで、何も言わなかったことがあります」


 玲は顔を上げた。続きを急かさなかった。


「二十代のころ、よく顔を合わせていた人がいました。仕事で会うことが多かったです。近かったのかどうか、今もよく分かりません」


 会場の中央で笑い声が上がった。誰かがグラスをぶつけたらしく、高い音が遅れて届いた。


「その人は、わたしのことを、迷わない人だと思っていました」


 玲は何も挟まなかった。


「自分が何をしたいか、ちゃんと分かっている人だと。わたしは訂正しませんでした。訂正しなくても、その場は進んだからです」


 水の入った紙コップが、手の中で少し柔らかくなった。


「そのあと、その人は東京を離れました。病気が理由でした。大きな病気ではなかったです。でも生活を変えるには十分だった」


 玲はグラスをテーブルに置いた。音はしなかった。


「別れ際に、同じことを言われました。あなたは大丈夫だと思うって」


 そこまで言って、わたしは会場の床を見た。磨かれた床に照明が丸く映っていた。


「何も言いませんでした」


 玲は少し間を置いてから訊いた。


「その人に、伝えましたか」


「いいえ」


 返事はすぐに出た。


 玲は頷きもしなかった。


「わたしも同じです」


 声は低く、平らだった。


 誰に対してのことかは言わなかった。母かもしれなかった。真帆かもしれなかった。まったく別の誰かかもしれなかった。わたしは聞かなかった。


 玲も続けなかった。


 沈黙は短かった。短いまま、何かが残った。


 会場の中央ではまだ誰かが話していて、拍手も笑いも途切れなかった。その音だけが、こちらのテーブルから少し離れたところを流れていた。


「何もないですね」


 玲がもう一度言った。


 今度は独り言に近かった。


「でも、ない方が残ることもありますよね」


 その言葉の置き方は、第2章の試写室で言ったことに少し似ていた。誰もいない廊下の方が顔が残る、と言ったときと同じ種類の静けさがあった。


 わたしは頷いた。


 それ以上、どちらも言葉を足さなかった。


――――――――


 会場を出たあと、夜気は思っていたより湿っていた。


 タクシーに乗り、行き先を告げる。ドアが閉まると、外の音が薄くなった。窓の外では、信号待ちの車の列が赤く並んでいた。


 シートに背をつけたまま、さっきの会話を順番に思い出した。


 受賞した夜って、何もないですね。


 その人に、伝えましたか。


 いいえ。


 わたしも同じです。


 四つの文だけが、別々の重さで手元に残っていた。どれも説明しようとすると形が崩れそうだった。


 車内には、芳香剤の弱いにおいがした。運転手はラジオを消していた。ワイパーは動いていなかったが、窓の外の光は少し滲んで見えた。


 わたしはスマートフォンを取り出して、何も開かずにまたポケットに戻した。


 連絡しようと思えばできる相手が、まだどこかにいる。そういう事実だけが、急に古びたもののように見えた。


 同時に、玲の言葉も残っていた。誰に向けたものかは、確かめないまま残った。


 車が交差点を曲がるたび、街灯の光が窓を横に流れた。


 今夜は何も起きなかった。


 何も起きなかったまま、少しだけ形が変わった気がした。


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