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顔の在処  作者: 山高帽
3/6

第三話 カメラを回す

 初回の打ち合わせは、撮影の三週間前だった。


 事務所の会議室で、真帆は紙のスケジュール帳を開いた。見開きいっぱいに色の違う線と文字が詰まっていた。余白は端にしか残っていなかった。


「玲の一日のうち、動かせるのはここです」


 真帆は一区画を指で押さえた。


「と、ここ」


 もう一つ押さえた。


「ここは触らないでください」


 指先が、三つ目の狭い区画の上で止まった。


「移動ですか」


「迷う時間です」


 真帆はそう言って、ページの端に小さな印をつけた。


 玲の迷う時間が帳面に確保されていた。


「必要なんですね」


「削ると、あとで別のところに出るので」


 真帆は顔を上げなかった。


 撮影の流れ、衣装の数、移動の順番、スタジオ入りの時間。話は途切れず続いた。真帆は一度も手帳から目を離さず、必要なときだけこちらを見た。


「二日で撮り切ります。予備は半日」


「半日で足りますか」


「足りなければ、足りないまま進めます」


 冗談には聞こえなかった。


 打ち合わせが終わるころには、まだ始まっていない撮影の輪郭だけが、手帳の上で閉じていた。


――――――――


 初日の朝、玲は十七分遅れて入ってきた。


 スタジオはすでに照明が組まれていて、白い床の上に薄い熱がたまっていた。スタッフは大きな声を出さずに急いでいた。そういう現場だった。急ぐことが、最初から手順に入っている。


「すみません」


 玲はそう言って入ってきた。謝っているというより、いま言うべき言葉を先に置いたような声だった。


 真帆は何も言わず、手帳を開いて何かを書き込んだ。


「大丈夫です」


 書きながら言った。


「十七分は想定内なので」


 玲は一度まばたきをして、真帆を見た。


「何分まで想定してますか」


「二十三分までです」


「どうして二十三分なんですか」


 真帆は顔を上げた。


「最長が二十二分五十四秒だったので」


 玲は少し黙った。


「五十四秒まで覚えてるんですか」


「測ってたわけじゃないです。覚えてただけです」


 その返答で話は終わった。


 わたしはカメラの設定を合わせながら、五十四秒という数字の置き場所を考えた。真帆の手帳には、そういう数字が入る棚がありそうだった。


 撮影が始まると、玲は遅刻の十七分を持ち込まなかった。照明の位置を確認し、マークを踏み、言われた角度で顔を向ける。無駄がなかった。


 モニター越しに見ると、整っていた。


 整いすぎてもいた。


 足りない、とまでは言えなかった。撮れているという感触の表面が少し滑っていた。何が足りないのかを決める前に、次のカットが来た。


「玲ちゃん、目線だけもう少し左です」


 スタッフが言う。


 玲はすぐに直した。直したあとの角度が、言われる前より正確だった。


 わたしはファインダーを覗いたまま、その修正の速さを見ていた。速さの中に迷いの痕跡が残らなかった。


 昼を過ぎるころ、照明の立て替えで五分だけ空いた。


 玲はセットの端で立ったまま水を飲んでいた。真帆はその横で手帳を開き、次の段取りを確認していた。二人は会話をしていなかったが、離れた感じもしなかった。


「今日の押し、どれくらいですか」


 わたしが訊くと、真帆はすぐに答えた。


「今のところ九分です」


「取り戻せますか」


「十三分までは戻せます」


 玲がペットボトルを口元から外した。


「戻せる時間って決まってるんですね」


「決めておいた方が戻しやすいので」


 真帆はそう言ってページをめくった。


 午後の後半に入ると、スタジオの空気が少しずつ重くなった。照明の熱が床にたまり、衣装の布が皮膚に沿いはじめる。スタッフの声は変わらないのに、間だけが短くなる。


 玲はその中でも崩れなかった。崩れないまま、カットを重ねた。


 わたしはカメラを回し続けた。


 回しながら、撮れていると思った。そのたびに、まだ撮れていない感じも残った。輪郭はあるのに、中が少し空いている。


 だがその日は、待っても何も出てこなかった。


 こちらが届いていないだけかもしれなかった。


 それでもカメラは止めなかった。


 最後のカットが終わると、玲は小さく息を吐いた。疲れた顔には見えなかった。


 真帆が近づき、何かを確認した。玲は頷いた。次の予定の話らしかった。二人の声は低く、内容までは拾えなかった。


 機材を片づけていると、玲が一人で廊下へ出たのが見えた。わたしはバッテリーをケースに入れ、少し遅れて外へ出た。


 廊下は、朝より静かだった。照明の熱だけが残っていて、人の気配はところどころ薄くなっていた。


 玲は自販機の前に立っていた。飲み物を選ぶでもなく、表示の列を見ていた。


「お疲れさまでした」


 わたしが言うと、玲は振り向いた。


「お疲れさまでした」


 少し間があった。


「今日の映像、どうでしたか」


 返すまでに一拍かかった。


「撮れていると思います」


「思います、なんですね」


 玲は笑わなかった。確認するように言っただけだった。


「足りないですか」


「まだ、分かりません」


 玲は自販機のボタンの列に目を戻した。


「野口さん、撮ってるときと、そうじゃないときで、顔が少し違いますよね」


 わたしは答えなかった。答えられなかった、の方が近かった。


「今日の廊下は、昨日と違う顔してますか」


 玲はそう続けて、ようやくこちらを見た。


 問いの形は少しずれていた。


「昨日?」


「試写室の帰りです」


 わたしは壁に寄せてある機材ケースを見た。取手の角が少し擦れていた。


「自分では分かりません」


「そうですか」


 玲は頷いた。失望した様子はなかった。


 そこで真帆が廊下に出てきた。


「玲ちゃん、車来てる」


「はい」


 玲は自販機に視線を戻し、そのまま何も買わずに歩き出した。真帆は一度だけわたしに会釈をして、その後ろについた。


 二人が廊下の角を曲がるところまで見てから、わたしはスタジオに戻った。


――――――――


 夜、自宅でその日の映像を見返した。


 モニターの中で、玲は正確に動いていた。目線、角度、間。どれも揃っていた。仕事としては十分だった。


 それでも、昼のあいだ何度かあった空白だけが残った。


 わたしは再生を止めた。


 見ることと言わないことが、自分の中で近い場所にあった。


 モニターを閉じる。台所で湯を沸かす。急須に茶葉を入れ、湯を注ぐ。待つあいだ、今日の廊下のことを考えた。


 今日の廊下は、昨日と違う顔をしてますか。


 茶を飲み、カップを洗った。布巾で拭いて棚に戻した。途中で止まった言葉だけが残った。


――――――――


 翌週も撮影が続いた。


 初日と同じように、玲は時間どおりに入り、時間どおりに動いた。違ったのは、ごく小さいところだけだった。


 返事が少し早かった。


 目線を戻すまでに、一拍だけ余分な間があることがあった。


 ペットボトルの水が減るのに、昼食の箱はほとんど減らなかった。


 どれも小さかった。誰も指摘しない種類の変化だった。真帆はたぶん見ていた。予定の順番は変わらなかった。


 わたしも見ていた。


 見て、それ以上はしなかった。


 カメラを回しているとき、そういう沈黙は手の中に収まる。収まるから、そのままにしてしまう。


 玲がフレームの中で少しだけ細く見える日があった。照明のせいだと思うこともできた。だが、一度そう見えると、次のカットでも同じところを探してしまった。


 真帆がスケジュール帳に印を増やしていく。玲は「大丈夫です」と言う。スタッフは次のカットを準備する。わたしはカメラを構える。


 その順番が、毎回きれいに繰り返された。


 繰り返されるたび、何かが少しずつ薄くなった。


 それが玲の方から減っているのか、わたしの見方の方がずれてきているのか、まだ分からなかった。


 分からないまま、次の撮影日が決まっていった。


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