第三話 カメラを回す
初回の打ち合わせは、撮影の三週間前だった。
事務所の会議室で、真帆は紙のスケジュール帳を開いた。見開きいっぱいに色の違う線と文字が詰まっていた。余白は端にしか残っていなかった。
「玲の一日のうち、動かせるのはここです」
真帆は一区画を指で押さえた。
「と、ここ」
もう一つ押さえた。
「ここは触らないでください」
指先が、三つ目の狭い区画の上で止まった。
「移動ですか」
「迷う時間です」
真帆はそう言って、ページの端に小さな印をつけた。
玲の迷う時間が帳面に確保されていた。
「必要なんですね」
「削ると、あとで別のところに出るので」
真帆は顔を上げなかった。
撮影の流れ、衣装の数、移動の順番、スタジオ入りの時間。話は途切れず続いた。真帆は一度も手帳から目を離さず、必要なときだけこちらを見た。
「二日で撮り切ります。予備は半日」
「半日で足りますか」
「足りなければ、足りないまま進めます」
冗談には聞こえなかった。
打ち合わせが終わるころには、まだ始まっていない撮影の輪郭だけが、手帳の上で閉じていた。
――――――――
初日の朝、玲は十七分遅れて入ってきた。
スタジオはすでに照明が組まれていて、白い床の上に薄い熱がたまっていた。スタッフは大きな声を出さずに急いでいた。そういう現場だった。急ぐことが、最初から手順に入っている。
「すみません」
玲はそう言って入ってきた。謝っているというより、いま言うべき言葉を先に置いたような声だった。
真帆は何も言わず、手帳を開いて何かを書き込んだ。
「大丈夫です」
書きながら言った。
「十七分は想定内なので」
玲は一度まばたきをして、真帆を見た。
「何分まで想定してますか」
「二十三分までです」
「どうして二十三分なんですか」
真帆は顔を上げた。
「最長が二十二分五十四秒だったので」
玲は少し黙った。
「五十四秒まで覚えてるんですか」
「測ってたわけじゃないです。覚えてただけです」
その返答で話は終わった。
わたしはカメラの設定を合わせながら、五十四秒という数字の置き場所を考えた。真帆の手帳には、そういう数字が入る棚がありそうだった。
撮影が始まると、玲は遅刻の十七分を持ち込まなかった。照明の位置を確認し、マークを踏み、言われた角度で顔を向ける。無駄がなかった。
モニター越しに見ると、整っていた。
整いすぎてもいた。
足りない、とまでは言えなかった。撮れているという感触の表面が少し滑っていた。何が足りないのかを決める前に、次のカットが来た。
「玲ちゃん、目線だけもう少し左です」
スタッフが言う。
玲はすぐに直した。直したあとの角度が、言われる前より正確だった。
わたしはファインダーを覗いたまま、その修正の速さを見ていた。速さの中に迷いの痕跡が残らなかった。
昼を過ぎるころ、照明の立て替えで五分だけ空いた。
玲はセットの端で立ったまま水を飲んでいた。真帆はその横で手帳を開き、次の段取りを確認していた。二人は会話をしていなかったが、離れた感じもしなかった。
「今日の押し、どれくらいですか」
わたしが訊くと、真帆はすぐに答えた。
「今のところ九分です」
「取り戻せますか」
「十三分までは戻せます」
玲がペットボトルを口元から外した。
「戻せる時間って決まってるんですね」
「決めておいた方が戻しやすいので」
真帆はそう言ってページをめくった。
午後の後半に入ると、スタジオの空気が少しずつ重くなった。照明の熱が床にたまり、衣装の布が皮膚に沿いはじめる。スタッフの声は変わらないのに、間だけが短くなる。
玲はその中でも崩れなかった。崩れないまま、カットを重ねた。
わたしはカメラを回し続けた。
回しながら、撮れていると思った。そのたびに、まだ撮れていない感じも残った。輪郭はあるのに、中が少し空いている。
だがその日は、待っても何も出てこなかった。
こちらが届いていないだけかもしれなかった。
それでもカメラは止めなかった。
最後のカットが終わると、玲は小さく息を吐いた。疲れた顔には見えなかった。
真帆が近づき、何かを確認した。玲は頷いた。次の予定の話らしかった。二人の声は低く、内容までは拾えなかった。
機材を片づけていると、玲が一人で廊下へ出たのが見えた。わたしはバッテリーをケースに入れ、少し遅れて外へ出た。
廊下は、朝より静かだった。照明の熱だけが残っていて、人の気配はところどころ薄くなっていた。
玲は自販機の前に立っていた。飲み物を選ぶでもなく、表示の列を見ていた。
「お疲れさまでした」
わたしが言うと、玲は振り向いた。
「お疲れさまでした」
少し間があった。
「今日の映像、どうでしたか」
返すまでに一拍かかった。
「撮れていると思います」
「思います、なんですね」
玲は笑わなかった。確認するように言っただけだった。
「足りないですか」
「まだ、分かりません」
玲は自販機のボタンの列に目を戻した。
「野口さん、撮ってるときと、そうじゃないときで、顔が少し違いますよね」
わたしは答えなかった。答えられなかった、の方が近かった。
「今日の廊下は、昨日と違う顔してますか」
玲はそう続けて、ようやくこちらを見た。
問いの形は少しずれていた。
「昨日?」
「試写室の帰りです」
わたしは壁に寄せてある機材ケースを見た。取手の角が少し擦れていた。
「自分では分かりません」
「そうですか」
玲は頷いた。失望した様子はなかった。
そこで真帆が廊下に出てきた。
「玲ちゃん、車来てる」
「はい」
玲は自販機に視線を戻し、そのまま何も買わずに歩き出した。真帆は一度だけわたしに会釈をして、その後ろについた。
二人が廊下の角を曲がるところまで見てから、わたしはスタジオに戻った。
――――――――
夜、自宅でその日の映像を見返した。
モニターの中で、玲は正確に動いていた。目線、角度、間。どれも揃っていた。仕事としては十分だった。
それでも、昼のあいだ何度かあった空白だけが残った。
わたしは再生を止めた。
見ることと言わないことが、自分の中で近い場所にあった。
モニターを閉じる。台所で湯を沸かす。急須に茶葉を入れ、湯を注ぐ。待つあいだ、今日の廊下のことを考えた。
今日の廊下は、昨日と違う顔をしてますか。
茶を飲み、カップを洗った。布巾で拭いて棚に戻した。途中で止まった言葉だけが残った。
――――――――
翌週も撮影が続いた。
初日と同じように、玲は時間どおりに入り、時間どおりに動いた。違ったのは、ごく小さいところだけだった。
返事が少し早かった。
目線を戻すまでに、一拍だけ余分な間があることがあった。
ペットボトルの水が減るのに、昼食の箱はほとんど減らなかった。
どれも小さかった。誰も指摘しない種類の変化だった。真帆はたぶん見ていた。予定の順番は変わらなかった。
わたしも見ていた。
見て、それ以上はしなかった。
カメラを回しているとき、そういう沈黙は手の中に収まる。収まるから、そのままにしてしまう。
玲がフレームの中で少しだけ細く見える日があった。照明のせいだと思うこともできた。だが、一度そう見えると、次のカットでも同じところを探してしまった。
真帆がスケジュール帳に印を増やしていく。玲は「大丈夫です」と言う。スタッフは次のカットを準備する。わたしはカメラを構える。
その順番が、毎回きれいに繰り返された。
繰り返されるたび、何かが少しずつ薄くなった。
それが玲の方から減っているのか、わたしの見方の方がずれてきているのか、まだ分からなかった。
分からないまま、次の撮影日が決まっていった。




