第二話 声で分かった
表示された番号に見覚えはなかった。
わたしはスマートフォンを取った。二回目の振動が止む前に通話を開く。
「野口さんでしょうか」
女の声だった。速くもなく、遅くもなかった。必要な情報だけを先に置く声だった。
「はい」
「朔田玲のマネージャーの、田中と申します」
そこで一度だけ、向こうが息を継いだ。
「使用確認の件で、メールを拝見しました。本人が一度、映像を見たいと言っているので、できれば今日か明日でお時間いただけますか」
やかんの湯気が、視界の端で細く上がっていた。
「本人が、ですか」
「はい。書類だけでも手続きはできるんですが、映っている時間が短いので。玲が、自分で見ておきたいそうです」
その一文だけ、田中の声が少し遅くなった。
玲、という呼び方だけが少し私的で、ほかはすべて業務の形をしていた。
わたしはテーブルの上のカップを見た。まだ口をつけていなかった。
「今日の夕方なら」
「ありがとうございます。では、事務所の試写室を押さえます。十七時で大丈夫でしょうか」
「大丈夫です」
「助かります。詳細、すぐにお送りします」
電話はそこで終わった。切れたあとも、田中より玲の方が耳に残った。
スマートフォンの画面に、すぐメールが届いた。地図と入館方法、それから件名の頭に【至急】とついた短い文面。無駄がなかった。本文の最後に、田中真帆と名前があった。
わたしはようやく茶を飲んだ。少し冷めていた。
――――――――
その日の夕方、指定された階の小さな会議室に通された。壁際にモニターと小型のスピーカーが置いてあり、窓には遮光ロールが下りていた。会議室というより、小さな試写室だった。
田中真帆は、モニターの脇に立っていた。
栗色の髪を後ろで束ねていた。片手に紙のスケジュール帳を持っていた。表紙の角が少し擦れて白くなっていた。
「すみません、お時間いただいて」
真帆はそう言って頭を下げた。動作が短かった。下げ慣れているというより、必要な長さを知っているように見えた。
「いえ」
「データ、こちらでつなげますか」
「持ってきています」
わたしはバッグからドライブを出した。真帆はその型番を一度見てから、机の上にスペースを作った。ペンと手帳とスマートフォンが、最初からそこに置かれていた。会議のためというより、待つための配置だった。
「玲、あと三分で来ます」
三分、と真帆は言った。
「正確ですね」
「正確に言っておいた方が、遅れたときに修正しやすいので」
真帆は笑わなかった。冗談の形をしていない返答だった。
接続の確認をしているあいだ、ドアの外を人が通った。足音が一度止まり、ノックがあった。
「どうぞ」
真帆が言って、ドアを半分だけ押さえた。玲が入ってきた。
薄い灰色のニットを着ていた。髪はおろしていた。廊下で見たときより、顔の輪郭がやわらかく見えた。
「お待たせしました」
玲はわたしと真帆を順に見て、それからモニターに目を向けた。
「野口さん、こちら玲です」
「はじめまして」
玲はそう言って、少しだけ頭を下げた。廊下で会ったときと同じ声だった。顔より先に、そちらが一致した。
真帆が椅子を引いた。玲はモニターの正面に座り、真帆は少し離れた端の席に座った。三人の距離が、最初から測られているようだった。
「短いので、すぐ終わります」
わたしはそう言って、映像を開いた。
候補作品の本編を頭から流す必要はなかった。該当箇所の少し前から再生する。人気のない廊下。固定気味の画角。奥でスタッフが通り、数秒遅れて、フレームの左から人物が入る。
玲だった。
待って見ていると、一秒半は少し長くなった。
映像が通り過ぎたあとも、誰もすぐには口を開かなかった。スピーカーから空調の薄い音だけが出ていた。
玲が言った。
「これ、わたしですか」
画面はすでに別のカットに移っていた。人のいない廊下が映っていた。問いだけが、その上に残った。
わたしはモニターを見たまま答えた。
「すぐには分かりませんでした」
そこで一度、言葉を切った。
「でも、声で分かりました」
真帆が手帳に落としていた視線を上げた気配がした。
玲は何も言わなかった。画面に向いたまま、少しだけまばたきが遅くなったように見えた。
「声ですか」
真帆が確認するように言った。
「廊下の空気の入り方で、そうかもしれないと思って。最後に少しだけ、スタッフに返事をしていたので」
玲はそこで初めてこちらを見た。
「顔じゃなくて」
「はい」
「顔は変わるからですか」
わたしはすぐには答えられなかった。
「変わる、というより」
「整えられることが多いので。声の方が、残ることがあります」
玲は目を伏せた。肯定も否定もしなかった。
「玲、どうする」
真帆が言った。事務的な調子だったが、そこだけは急がなかった。
「使用許可、こちらで進めていい?」
玲はモニターを見たまま頷いた。
「大丈夫です」
それで用件は終わるはずだった。
真帆はすぐに手帳を閉じ、次の予定へ移る形をつくった。椅子がわずかに鳴った。わたしもドライブを抜こうと手を伸ばしかけた。
「あの」
玲が言った。
真帆の手も、わたしの手も止まった。
「次の宣材の映像、まだ決まってないですよね」
真帆が先に玲を見た。次にわたしを見た。
「候補はあります」
「この方にお願いしたいです」
玲はそう言って、ようやくこちらをまっすぐ見た。声は静かだった。
「わたしの顔じゃなくて、声で分かった人に」
真帆は返事をしなかった。手帳の角を指で押さえたまま、一度だけ玲を見た。
わたしは椅子に座ったまま、手を膝の上に戻した。断る理由を探そうとしたが、理由はすぐに見つからなかった。見つからないままの時間が、数秒続いた。
真帆が口を開いた。
「野口さん、今月後半の空き、ありますか」
早かった。拒絶でも保留でもなく、段取りの形に変えるのが。
「二日なら」
「二日あれば足ります」
玲はそこで、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
日程を二、三確認し、仮押さえの話をした。真帆は一度も迷わなかった。玲は必要なところだけ答えた。わたしはその都度、外側から返事をした。
部屋を出るとき、玲がドアのところで一度振り返った。
「あの廊下の映像、誰もいないところが長く映ってましたよね」
「はい」
「わたし、あそこが一番好きでした」
真帆が先に廊下へ出ていた。玲はその背中を追う前に、続けた。
「誰もいない方が、顔が残ることってあるんですね」
わたしは返事をしなかった。その言葉の置き場所が、すぐには見つからなかった。
玲は小さく会釈をして、廊下へ出た。ドアが閉まる。
会議室に残ったのは、切ったままの映像と、まだ少し熱を持っているモニターだけだった。
わたしはドライブを抜き、ケースにしまった。数分前までここに三人いたことが、部屋の温度としてだけ残っていた。
声で分かった、と、わたしはさっき言った。
その言葉だけが、少し遅れて戻ってきた。




