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顔の在処  作者: 山高帽
2/6

第二話 声で分かった

 表示された番号に見覚えはなかった。


 わたしはスマートフォンを取った。二回目の振動が止む前に通話を開く。


「野口さんでしょうか」


 女の声だった。速くもなく、遅くもなかった。必要な情報だけを先に置く声だった。


「はい」


「朔田玲のマネージャーの、田中と申します」


 そこで一度だけ、向こうが息を継いだ。


「使用確認の件で、メールを拝見しました。本人が一度、映像を見たいと言っているので、できれば今日か明日でお時間いただけますか」


 やかんの湯気が、視界の端で細く上がっていた。


「本人が、ですか」


「はい。書類だけでも手続きはできるんですが、映っている時間が短いので。玲が、自分で見ておきたいそうです」


 その一文だけ、田中の声が少し遅くなった。


 玲、という呼び方だけが少し私的で、ほかはすべて業務の形をしていた。


 わたしはテーブルの上のカップを見た。まだ口をつけていなかった。


「今日の夕方なら」


「ありがとうございます。では、事務所の試写室を押さえます。十七時で大丈夫でしょうか」


「大丈夫です」


「助かります。詳細、すぐにお送りします」


 電話はそこで終わった。切れたあとも、田中より玲の方が耳に残った。


 スマートフォンの画面に、すぐメールが届いた。地図と入館方法、それから件名の頭に【至急】とついた短い文面。無駄がなかった。本文の最後に、田中真帆と名前があった。


 わたしはようやく茶を飲んだ。少し冷めていた。


――――――――


 その日の夕方、指定された階の小さな会議室に通された。壁際にモニターと小型のスピーカーが置いてあり、窓には遮光ロールが下りていた。会議室というより、小さな試写室だった。


 田中真帆は、モニターの脇に立っていた。


 栗色の髪を後ろで束ねていた。片手に紙のスケジュール帳を持っていた。表紙の角が少し擦れて白くなっていた。


「すみません、お時間いただいて」


 真帆はそう言って頭を下げた。動作が短かった。下げ慣れているというより、必要な長さを知っているように見えた。


「いえ」


「データ、こちらでつなげますか」


「持ってきています」


 わたしはバッグからドライブを出した。真帆はその型番を一度見てから、机の上にスペースを作った。ペンと手帳とスマートフォンが、最初からそこに置かれていた。会議のためというより、待つための配置だった。


「玲、あと三分で来ます」


 三分、と真帆は言った。


「正確ですね」


「正確に言っておいた方が、遅れたときに修正しやすいので」


 真帆は笑わなかった。冗談の形をしていない返答だった。


 接続の確認をしているあいだ、ドアの外を人が通った。足音が一度止まり、ノックがあった。


「どうぞ」


 真帆が言って、ドアを半分だけ押さえた。玲が入ってきた。


 薄い灰色のニットを着ていた。髪はおろしていた。廊下で見たときより、顔の輪郭がやわらかく見えた。


「お待たせしました」


 玲はわたしと真帆を順に見て、それからモニターに目を向けた。


「野口さん、こちら玲です」


「はじめまして」


 玲はそう言って、少しだけ頭を下げた。廊下で会ったときと同じ声だった。顔より先に、そちらが一致した。


 真帆が椅子を引いた。玲はモニターの正面に座り、真帆は少し離れた端の席に座った。三人の距離が、最初から測られているようだった。


「短いので、すぐ終わります」


 わたしはそう言って、映像を開いた。


 候補作品の本編を頭から流す必要はなかった。該当箇所の少し前から再生する。人気のない廊下。固定気味の画角。奥でスタッフが通り、数秒遅れて、フレームの左から人物が入る。


 玲だった。


 待って見ていると、一秒半は少し長くなった。


 映像が通り過ぎたあとも、誰もすぐには口を開かなかった。スピーカーから空調の薄い音だけが出ていた。


 玲が言った。


「これ、わたしですか」


 画面はすでに別のカットに移っていた。人のいない廊下が映っていた。問いだけが、その上に残った。


 わたしはモニターを見たまま答えた。


「すぐには分かりませんでした」


 そこで一度、言葉を切った。


「でも、声で分かりました」


 真帆が手帳に落としていた視線を上げた気配がした。


 玲は何も言わなかった。画面に向いたまま、少しだけまばたきが遅くなったように見えた。


「声ですか」


 真帆が確認するように言った。


「廊下の空気の入り方で、そうかもしれないと思って。最後に少しだけ、スタッフに返事をしていたので」


 玲はそこで初めてこちらを見た。


「顔じゃなくて」


「はい」


「顔は変わるからですか」


 わたしはすぐには答えられなかった。


「変わる、というより」


「整えられることが多いので。声の方が、残ることがあります」


 玲は目を伏せた。肯定も否定もしなかった。


「玲、どうする」


 真帆が言った。事務的な調子だったが、そこだけは急がなかった。


「使用許可、こちらで進めていい?」


 玲はモニターを見たまま頷いた。


「大丈夫です」


 それで用件は終わるはずだった。


 真帆はすぐに手帳を閉じ、次の予定へ移る形をつくった。椅子がわずかに鳴った。わたしもドライブを抜こうと手を伸ばしかけた。


「あの」


 玲が言った。


 真帆の手も、わたしの手も止まった。


「次の宣材の映像、まだ決まってないですよね」


 真帆が先に玲を見た。次にわたしを見た。


「候補はあります」


「この方にお願いしたいです」


 玲はそう言って、ようやくこちらをまっすぐ見た。声は静かだった。


「わたしの顔じゃなくて、声で分かった人に」


 真帆は返事をしなかった。手帳の角を指で押さえたまま、一度だけ玲を見た。


 わたしは椅子に座ったまま、手を膝の上に戻した。断る理由を探そうとしたが、理由はすぐに見つからなかった。見つからないままの時間が、数秒続いた。


 真帆が口を開いた。


「野口さん、今月後半の空き、ありますか」


 早かった。拒絶でも保留でもなく、段取りの形に変えるのが。


「二日なら」


「二日あれば足ります」


 玲はそこで、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。


 日程を二、三確認し、仮押さえの話をした。真帆は一度も迷わなかった。玲は必要なところだけ答えた。わたしはその都度、外側から返事をした。


 部屋を出るとき、玲がドアのところで一度振り返った。


「あの廊下の映像、誰もいないところが長く映ってましたよね」


「はい」


「わたし、あそこが一番好きでした」


 真帆が先に廊下へ出ていた。玲はその背中を追う前に、続けた。


「誰もいない方が、顔が残ることってあるんですね」


 わたしは返事をしなかった。その言葉の置き場所が、すぐには見つからなかった。


 玲は小さく会釈をして、廊下へ出た。ドアが閉まる。


 会議室に残ったのは、切ったままの映像と、まだ少し熱を持っているモニターだけだった。


 わたしはドライブを抜き、ケースにしまった。数分前までここに三人いたことが、部屋の温度としてだけ残っていた。


 声で分かった、と、わたしはさっき言った。


 その言葉だけが、少し遅れて戻ってきた。


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