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顔の在処  作者: 山高帽
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第一話 廊下

 編集室は、深夜と正午の見わけがつかない部屋だった。窓がない。蛍光灯は昨日と同じ明るさで天井にあり、モニターは消えていなければ朝でも夜でも同じ顔をしている。冷却ファンの音が、部屋の底に常にあった。慣れると聞こえなくなる音で、気がつけば最初から聞こえていなかった。ここに仕事場を借りて二年になる。最初から窓のない部屋を選んだ。外が明るいか暗いかで、作業の密度が変わるのが面倒だった。


 わたしはその午後、外付けドライブの整理をしていた。デスクに並べて、ラベルを確認して、収録日の順に置き直す。毎月末にやると決めている作業だった。決めていなければ、延々と後回しにする自信があった。


 十数本並べると、デスクの端まで占領する。プラスチックの筐体には、テープで手書きのラベルが貼ってあった。日付と現場名だけを書く。書いた時点では必ず区別できると思っているが、半年後には似たような現場名が並んで判断に迷う。今年の五月にそれで一時間使った。次からは月も書くと決めたが、もう七月になっていた。守っていなかった。


 三本、四本と抜き差しするうちに、サムネイルの一覧がモニターに並んでいく。使ったカット、使わなかったカット、没にした素材。判断の速いものと、迷ったあとで結局外れたものが混在している。どちらがどちらかは、見ればわかった。迷った素材は、微妙に構図がよかった。そういうものが多い。使うには何かが足りなく、捨てるには何かが惜しい。不要ではないが、必要でもなかったものだった。最終的には捨てられずにドライブの中に残る。


 五本目を差したとき、見覚えの薄いカットが視野の端をかすめた。


 手を止めた。


 ポインタを動かして、サムネイルを大きくした。縦長の画面の左端に、ほかの素材と同じ比率で、それは映っていた。廊下を歩いている、横顔だった。二年前の素材だった。別の仕事の撮影で、主体とは無関係に写り込んだものだった。主役でもなく、背景でもなく、フレームに居合わせただけの人物が一秒半だけ映って、去っていた。


 再生してみた。


 一秒半は短かった。停止した状態のサムネイルより、動くともっと短く感じた。


 何の経緯でこのドライブに残っていたのか、よく覚えていなかった。編集のときに使わないと判断したのは確かだった。理由は覚えていない。ただ外した、という記憶だけがあった。


 再生を止めた。ケーブルを抜いて、ドライブを棚に戻す。


 整理を続けながら、わたしはその一秒半のことを特に考えなかった。考えるほどのものではなかった。でも手が止まったことは、確かだった。手は、理由なく止まる。


 機材のケースを持ち、編集室を出た。廊下に、いつもと同じにおいがした。


――――――――


 廊下で彼女に会ったのは、収録の四十分前だった。


 スタジオの廊下はいつ来ても同じにおいがした。発泡スチロールと蛍光灯と、微量の汗のまじったにおい。わたしは機材のケースを持ち直して、壁際を歩いていた。廊下は幅が狭い。壁の両側に台車が置かれ、機材ケースが積まれ、レールの一部が外に出ていた。人がすれ違うとき、片側が止まって待つ。今日は収録が重なっていて、人の往来が多かった。スタッフが三人組で横を通り過ぎた。誰とも目が合わなかった。こういう廊下では、見るより早く見られることが多い。


 彼女は控室の扉の前に立っていた。立っているというより、そこに在った、という方が正確だったかもしれない。白いシャツ。まだ何も塗られていない顔。廊下の喧騒は彼女の手前で止まり、彼女の足元からまた始まっているようだった。


 スタイリストが彼女に近づいて、今日のコンセプトの話をした。素顔、という言葉が聞こえた。もう少し作り込んでいいか、という問いもあった。一応確認を、という低い声も続いた。わたしはそこで足が止まっていた。止まろうとして止まったわけではなかった。


 スタイリストが手帳に何かを書き込んで、次の確認事項に移ろうとしていた。彼女はゆっくりと口を開いた。


「自分しか顔を履いていないので」


 スタイリストが聞き返そうとした瞬間、別のスタッフが割り込んできた。収録時間の変更か、機材の問題か。声は重なって、それぞれが別の方向へ流れていき、彼女は扉の向こうに消えた。


 その一瞬の空白だけが、言葉の意味より先に残った。


 わたしはその場に立ったまま、機材ケースの取手を握っていた。金属が手のひらに食い込んでいた。どこに引っかかったのか、そのときはわからなかった。しばらく立ったままでいて、廊下を数人通り過ぎてから、ようやく歩き出した。


――――――――


 夜、帰宅してから、台所でお湯を沸かした。やかんを火にかけて、壁に背を向けて待った。やかんの口から蒸気が出始めるまでの時間、わたしはただそれを見ていた。


 顔を、履く。


 靴を履くように、顔を選んで身につける。そのとき彼女が指しているのは何か。表情か、化粧か、あるいはもっと皮膚に近い何かか。わたしにはわからなかった。わからなかったが、彼女がそれを言うとき、迷いがなかったことだけは覚えていた。スタイリストの問いに対する、ためらいのない答えだった。


 お湯が沸いた。


 茶葉を急須に入れ、湯を注いだ。一分、待った。茶碗に移した。湯気が細く立ち上り、やがて天井に溶けて見えなくなった。


 わたしはカップを両手で包んで、熱を確かめた。


 自分しか顔を履いていない。


 その言葉は何かを閉じ込めていた。標本瓶のように、内側に一つだけ何かを沈めたまま、外側は透明に保たれていた。わたしはそれを光にかざすことも、中身を取り出すこともできなかった。ただ、その重さをてのひらで量るようなことだけが、できた。


 茶が冷めた。わたしはそれを飲み干して、カップを洗い、拭いて、棚に戻した。洗い物を片付けて、電気を消して、眠った。夢を見たかどうかは覚えていない。


 次の朝にはもう、あの台詞の輪郭が少しだけ薄れていた。でも完全には消えなかった。


――――――――


 翌朝、六時十分に目が覚めた。アラームの三分前だった。毎回そうなのが、いつのまにか習慣になっていた。アラームを設定している意味がどこにあるのかと考えたことがある。でも設定しないと、六時より前に起きる気がした。根拠はない。


 台所に行き、やかんに水を入れた。昨夜と同じやかんを、同じ量の水で沸かす。スマートフォンのメールは朝に確認しないと決めていた時期があったが、今はその決めごとをやめている。一度やめると、戻す理由が見当たらない。


 スマートフォンを開いた。未読が四件。仕事の確認が一つ、請求書の件が一つ、ニュースレターが一つ。最後の一件が、件名の時点でいつもと違った。


「映像賞ノミネートについて(使用確認のご依頼)」


 送信者は制作会社の連絡窓口だった。


 本文をスクロールした。三段落で要件が書いてあった。昨年提出した短編ドキュメンタリーが映像賞の候補に入ったこと。その映像の中に、当初の提出時に権利処理が完了していない人物の肖像が含まれていること。授賞式までに使用許可を正式に取る必要があること。対象になる出演者の一覧を添付する、とあった。


 添付ファイルを開いた。


 縦に名前が並んでいた。十四名。ほとんどは覚えていた。収録当日にすでに書面を取った人間が十三名で、書類の手続きが必要なのは番号のついた一名だけだった。収録日に別件と重なっていて、あとから素材を確認してもらった際に手続きが完結しなかった、という経緯が注記に書いてあった。


 四番。朔田玲。


 やかんが鳴り始めた。


 わたしはスマートフォンをテーブルに置いた。やかんの火を止めて、急須に湯を注いだ。一分待つ間、四番という数字と、一昨日の廊下のことを、頭の中でなるべく別々に置こうとした。うまくいかなかった。


 朔田玲。廊下に立っていた人物の名前だった。一昨日、顔を見た。声を聞いた。名前は知らなかった。今、知った。


 人に会ってから名前を知ることは、この仕事では珍しくなかった。出演者と顔を合わせて撮って、書類を渡されて、初めて名前を認識する。だいたいはそれで問題がない。でも何かが後から来て、すでにある形に無理やり収まろうとすることが、たまにあった。


 それがいつも、少し遅れてくる。


 茶碗に茶を移した。少し熱かった。


 連絡は、しなければならなかった。


 済むはずだった。


 わたしは宛先を開いた。名前を入力した。本文の一行目を打ちかけて、止まった。


 画面の白さだけが、指先のすぐ下にあった。


 そのとき、スマートフォンが震えた。


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