第十八話 『神』のストレス
王立大劇場の舞台上で、史上最悪の迷惑コンビは高らかに「次なるゲーム」の開幕を宣言した。
しかし、彼らがアイリスに襲いかかることはなかった。
「フフフ、最高のプレイヤーには、最高の舞台をご用意せねばなりませんからな」
ミストが芝居がかった仕草で扇子を広げると、彼を包んでいた虹色の幻術が霧散する。
「愛しいアイリス様。私たちの愛の劇場は、こんな小さな箱ではありませんわ。次の舞台で、最高の贈り物と共に、お待ちしています」
レイラがうっとりと微笑むと、劇場全体を覆っていた冷気が嘘のように消え去った。
凍りついていた舞台や観客席は瞬く間に元の姿を取り戻し、パニックに陥っていた観客たちは、何が起こったのか理解できないまま、呆然とその場に座り込んでいる。
二人の魔族の姿は、まるで幻だったかのように消えていた。
アイリスは、彼らが意図的に自分を解放したことを悟る。
これは、次なるゲームへの、悪趣味極まりない招待状だった。
彼女が劇場の外へ出ると、王都の夜空には、以前よりもさらに濃く、さらに不気味に混ざり合った青と虹色のオーロラが、巨大な傷跡のように広がっていた。
その頃、王城の最も高い塔の一室。
ノクトは、彼の人生において最大級のストレスに苛まれていた。
二つの厄介事が一つになったことで、マナ通信網への干渉はさらに増大していた。
彼の目の前にある巨大な魔力モニターに映し出された『帝国興亡記IX』のタイトル画面は、致命的な処理落ちでカクカクと揺れている。
「……なんだ、これは」
ノクトの低い声が、静寂な部屋に響く。
レイラの氷魔法による物理的な「遅延」と、ミストの幻術魔法による情報そのものの「歪曲」。
二つの性質が最悪の形で結合し、神域とまで謳われた彼のプライベート回線を、ヘドロが流れるドブ川へと変貌させていた。
「動け…動けッ、俺の神聖なデータ!」
ロードに通常の五倍の時間をかけ、ようやくゲームを開始する。
だが、彼の最強騎士団ユニットに移動を命じた瞬間、画面は無慈悲にフリーズした。
数秒後、彼のユニットは、敵の罠のど真ん中にワープしていた。
「馬鹿な! こんな座標に移動を命じた覚えはないぞ! ミストの幻術が、俺のコマンド情報を書き換えているのか!? いや、違う…レイラの遅延のせいで、数秒前のコマンドが今頃反映された結果、致命的な位置に…!」
もはや、まともなプレイは不可能だった。
彼の完璧な戦略は、通信環境の不安定さによって、ただの運任せのギャンブルへと成り下がっていた。
彼のストレスは、ついに頂点に達する。
『新人ッ!! 聞こえているか! あの迷惑コンビめ、俺のゴールデンタイムを完全に破壊しやがった! 断じて許さん!』
ノクトの怒りの絶叫が、王城へと戻るアイリスの脳内に、ノイズ混じりで叩きつけられた。
その声は、もはや神の威厳など欠片もなく、大切なものを壊された子供の癇癪に近かった。
アイリスは、このままでは王国の危機よりも先に、この神の精神が崩壊しかねないと、本気で危惧した。
彼女は、国王レジスの執務室へと足を速めた。
この二人の魔族の危険な共闘は、もはやアイリス分隊だけで対処できるレベルを遥かに超えている。
本格的な対策を講じる必要性を、国王に進言しなければならない。
「陛下、緊急のご報告がございます」
執務室に入ったアイリスは、疲労の色が濃い国王を前に、単刀直入に切り出した。
「魔王軍四天王のレイラとミストが、正式に共闘を開始しました。彼らは『私をギャフンと言わせる』という、ただ一点の目的で完全に利害が一致しています」
アイリスは、劇場での一件と、二人の魔法が結合したことによるマナ通信網への深刻な影響を報告した。
「彼らの共同戦線は、これまでの単独での迷惑行為とは比較になりません。このまま放置すれば、王都のマナ通信網は完全に崩壊し、遠方の領地との連絡はおろか、王国の統治機能そのものが麻痺する危険性があります」
「…やはり、最悪の事態になったか」
国王レジスは、こめかみを強く押さえながら、深いため息をついた。
彼の脳裏には、国の危機と、塔に引きこもる弟の機嫌という、二つの巨大な問題が渦巻いていた。
「アイリスよ。…『神』は、何と?」
「…『徹底的に、社会的に抹殺する』と。そのためには、王国の全面的な協力が必要不可欠である、と申しております」
その言葉に、国王は静かに頷いた。
弟の私怨が、結果的に国を救うための最も有効な手段であるという、この上なく皮肉な現実を受け入れるしかなかった。
「分かった。全権を君に委ねる。騎士団も、魔術師団も、好きに動かすがよい。…頼む、アイリス。我が国の平穏と…『神』の安寧を、取り戻してくれ」
王の許可は下りた。
しかし、アイリスの心は晴れなかった。
史上最悪の迷惑コンビが次に仕掛けてくるであろう、より大規模で、より理不尽な「ゲーム」。
その舞台は、すでに王都全体へと広がり始めていた。