第十五話 新たな予兆
王城の旧地下牢から戻ったアイリスは、自室のベッドに倒れ込むように身を沈めた。
肉体的疲労よりも、精神的な疲弊が大きかった。
英雄として祭り上げられながら、その実態は「神」の駒として、狂気の魔族が仕掛けたゲームを攻略させられている。
彼女の脳内に響くノクトの怒りは、まだ収まっていなかった。
『あのロジック狂め、俺の貴重な時間を無駄にしやがって。次のゲームは、絶対に奴を完膚なきまでに叩きのめす。…まずは、王家のアーカイブにある、幻術魔法に関する文献を全て精査しておけ。奴の弱点を探る』
アイリスは、その指令に苦笑いを浮かべた。
自室に戻っても、英雄としての業務と「神」のパシリ業務は止まらない。
だが、次のゲームの準備をしなければ、王都の混乱がさらに拡大するだろう。
彼女が、ノクトの指示に従い、王立図書館の魔術師たちに、幻術魔法に関する文献の提供を要請した、その日の午後。
王都ソラリアの上空に、奇妙な現象が現れた。
午前中、ミストの幻術が消えたことで清々しく晴れ渡っていた空に、再び、異質な魔力の光が差し込み始めたのだ。
それは、色彩と形状が、まるで一つに溶け合うように混ざり合った、不気味な光だった。
レイラの氷魔法の冷たくて硬質な青白い光と、ミストの幻術魔法の熱を帯びた複雑な虹色の光。
二つの異なる魔力が、王都の空中で、大規模に結合し始めたのだ。
空は、まるで巨大な油絵のように滲み、氷の欠片が空中に静止したかと思えば、次の瞬間、それが巨大な目玉の幻影へと姿を変える。
その光景は、美的な要素と、論理的な恐怖が、最も悪趣味な形で融合した、悪夢のような芸術だった。
この現象に、最も早く気づいたのは、もちろん、ノクトだった。
王城の最も高い塔の自室で、特注の魔力モニターに映し出されたマナ通信網のフローチャートを見ていたノクトは、眉間に深い皺を刻んだ。彼の目の前にあるチャートの、王都の中枢を示す点が、赤と青の二色で激しく点滅し始めたからだ。
『……まさか、本当にやりやがったのか、あのロジック狂……』
ノクトは、すぐにアイリスに脳内通信を送った。
その声は、苛立ちに加え、最悪の事態の発生を予感させる、緊張を帯びたものだった。
『新人。王都上空を見ろ。奴が次のゲームを仕掛け始めたぞ。そして、その仕掛けは、レイラの氷魔法と、奴の幻術魔法を、意図的に結合させたものだ』
アイリスは、慌てて窓の外を見上げた。
空に広がる、異常な色彩のオーロラ。
(これが……次のゲーム……?)
『ミストの幻術魔法は、単体でも王都のマナ通信網に干渉していた。そして、レイラの氷魔法は、さらに大規模なノイズを発生させていた。この二つの「迷惑な才能」が結びつけば、俺のゲーム環境が完全に破壊されるという危機感を覚えたが……どうやら、その予感は現実のものになったようだ』
ノクトは、魔力モニターの分析結果を、アイリスの脳内に即座に投影した。
『見ろ。レイラの氷魔法は、マナ通信の「物理的な伝達速度」を遅延させる。ミストの幻術魔法は、マナ通信の「情報の中身」を歪曲させる。この二つが結合したことで、王都全体のマナ通信の速度と正確性が、以前の比ではないレベルで低下している!』
この現象は、単なる迷惑行為では済まされない。
王国の防衛、経済、統治、その全てを支えるマナ通信網の根幹が、二人の魔族の個人的な理由で、破壊されようとしていたのだ。
その頃、アイリス分隊のメンバーも、この異常事態に気づいていた。
王立魔術学院では、名誉顧問のジーロスが、ピンク色のクリスタルへと改築した校舎の屋根に立っていた。
「ノン! なんという醜悪な色の組み合わせだ! 冷たい青と、熱い虹色! 美学の対極にある二つの色が、互いに打ち消し合うことなく、ただ混沌を生み出している! これは、芸術に対する冒涜だ!」
ジーロスは、怒りに燃える光魔法で、空中の魔力の結合体を破壊しようと試みたが、彼の光は、ただ二色の光に飲み込まれ、不協和音を奏でるだけだった。
騎士団の訓練場では、特別名誉教官のギルが、空を見上げて激昂していた。
「なんだ、あの気持ち悪い光は! 姉御にちょっかいを出したロジック狂と、氷のストーカーが、手を組んだでありますか! 姉御を困らせる不埒な輩は、二匹だろうと三匹だろうと、まとめて粉砕してくれるであります!」
ギルは、力任せに城壁を殴りつけ、その勢いで、訓練場の石畳を一部砕いた。
そして、聖女アイリスファンクラブ本部では、会長のテオが、窓の外の空を見て、目をぎらつかせていた。
「ひひひ……こいつは、とんでもねぇことになったぜ! このマナの揺らぎ……通信魔法はしばらく使えねぇ! 商工会との交渉は、当面、対面でやるしかねえってことだ。直接会って交渉すりゃ、あの弱気な会頭から、さらに利益を搾り取れるかもしれねぇ! 国家の危機は、俺のビジネスチャンスだ!」
テオは、この異常事態を、即座に自身の利益へと結びつける算段を立てていた。
アイリスの脳内では、ノクトの分析が、冷徹に続いていた。
『奴の狙いは、俺のロジックの破壊だ。俺の攻略法は、完璧な情報処理に依存している。マナ通信網が破壊されれば、俺はリアルタイムで王都の情報を取得できなくなる。つまり、俺は管理者として機能できなくなる』
ノクトの平穏な引きこもりライフは、ミストの歪んだライバル心と、レイラの狂気の愛によって、完全に脅かされていた。
彼の安寧を破壊した二人の魔族は、今や手を組み、彼の「神」としての権能そのものを奪おうとしていた。
『新人。ミストは、自分のプライドを満たすために、レイラの非合理性という「不条理」を取り込んだ。俺のロジックが通用しない、真の不条理ゲームを仕掛けてきたわけだ。このままでは、俺はゲームができないどころか、最悪、王都のマナ通信網が永久的に破壊され、世界全体が情報的に麻痺する』
ノクトの言葉は、彼の個人的な私怨を超え、再び世界の危機を示唆していた。
『奴らに好き勝手させるわけにはいかない。新人。あの二人の狙いは、間違いなくお前だ。奴らは、お前を「究極のプレイヤー」あるいは「究極のコレクション」として、次なる舞台に引きずり込もうとするだろう。警戒を怠るな。俺のゴールデンタイムを、二度と邪魔させるな』
アイリスは、窓の外の不気味な光と、脳内に響くノクトの苛立ちと決意の波動を感じていた。
(次の舞台……。それは、一体、どんなものになるのだろうか)
王都の空には、結合した魔力のオーロラが不気味に輝き、史上最悪の迷惑コンビの誕生と、ノクトの安寧を懸けた、対迷惑魔族大戦の予兆が、静かに、しかし確実に、広がり始めていた。
アイリスは、これから始まるであろう、さらなる混沌を予感しながら、自室の窓を閉ざした。