第十三話 ライバルのプライド
王都ソラリアの時計は、午前十時半を指していた。
ミストが設定した制限時間は、十個の鍵に対して合計十時間。
アイリスが最初の謎に取り掛かってから、まだ三十分しか経過していなかったが、彼女の手にはすでに七個の鍵が握られていた。
彼女の攻略速度は、ミストの想定する「究極のライバル」のそれを遥かに凌駕していた。
アイリスは、ノクトの指示に従い、最後の三つの鍵が隠されたエリア、王城の旧地下牢の最奥へと向かっていた。
彼女の脳内に響くノクトの声は、もはや焦りも興奮もなく、ただの事務処理のように淡々としていた。
『新人。残り三つは、奴が最も自信を持っているロジックだ。だが、全てデータ依存。八つ目の鍵は、旧地下牢の最奥、最も深い水溜りの底だ。奴の幻術は、暗闇の中で最も効果を発揮するが、俺の光魔術的データ処理の前では無意味だ。進め。』
アイリスは、水溜りを厭わず、暗く湿った石床を歩く。
彼女の足音だけが、静寂に包まれた地下牢に響き渡る。
その時、彼女の脳内に、幻術による強烈な恐怖の幻影が押し寄せた。腐敗した魔物の死体、鎖につながれた人々の嘆き声、そして、冷たい地下水から伸びる無数の手。
だが、ノクトの冷徹な声が、その幻影を全て無力化する。
『無視。全ては幻影だ。五感を麻痺させるための低級なエフェクトに過ぎない。現実の脅威は、足元の苔による滑りだ。右に三度体重移動しろ。回避優先。無駄な感情に時間を費やすな』
アイリスがノクトの指示に完璧に従い、滑りを回避した瞬間、ミストの幻影が、苦痛に顔を歪めて叫んだ。
「なぜだ! なぜ私の恐怖の演劇に、微塵も動じない!? 貴女の精神構造は、まるで鉄でできているのか!? その冷徹な動きは、まるで…まるで私を見下しているようだ!」
ミストの幻術は、単なる視覚的な騙しではない。
それは、人間の心の弱さを突く、高度な魔術的なロジックパズルだった。
恐怖を感じることで判断力が鈍り、謎解きに時間がかかる。
それがミストの計算だった。
しかし、アイリスの精神は、ノクトの指示という絶対的な外部ロジックによって完全に保護されていた。
ミストの幻術は、ノクトの攻略法の前では、単なる低解像度のテクスチャでしかなかった。
アイリスは、水溜りの底から八つ目の鍵を回収した。
そして、九つ目の鍵。
『新人。九つ目は、このエリアに設置されている、幻のチェス盤のクイーンの駒の下だ。そのチェス盤は、この地下牢の構造そのものを鏡写しにしており、奴が最も芸術的だと自負している仕掛けだ。』
アイリスは、ノクトの指示通りに地下牢の壁に触れた。
そこに物理的な壁は存在しないが、ノクトの解析によれば、そこに幻のチェス盤が存在している。
『クイーンは、この部屋の南西、三歩先だ。クイーンの動きは最も自由だが、奴は、キングであるお前を、決して最後まで見捨てない。そのロジックを逆手に取れ。』
アイリスは、ノクトの指示の意図を理解する。
ミストは、チェスのクイーンの動きの自由さこそが、謎解きの鍵だとプレイヤーに思い込ませ、最後の最後に、プレイヤーが自分を「キング」として捧げる自己犠牲の美学に辿り着くことを期待していたのだ。
それは、ミストのロジック狂としての美学そのものだった。
だが、ノクトは、その美学を容赦なく踏みにじる。
『いや、待て。クイーンではない。キングだ。奴は、最後の最後で、観客である自分を、プレイヤーの「切り札」として使うよう、無意識に誘導している。俺の攻略法は、常に最短。キングの駒を動かせ。』
アイリスがノクトの指示通りに幻のキングの駒の位置を叩くと、キングの駒が倒れる音と共に、九つ目の鍵が、現実の空間に顕現した。
ミストの幻影は、もはや怒りを超え、絶望に打ちひしがれていた。
「私の美学が……! このゲームの最も優雅な結末が、なぜ、なぜロジック的な暴力によって踏みにじられる! 貴女は、私の設計したロジックの「心」を、まるで理解しようとしていない! ただ、最短で破壊するだけか!」
ノクトは、ミストの悲痛な叫びを無視して、最後の指示を放った。
『新人。最後の鍵だ。十個目の鍵は、この地下牢に設置されている、最も隠蔽された場所、つまり、奴が「最も安全」だと信じて疑わない場所だ。奴のロジックを裏切れ。「鍵は鍵の在り処を知っている」。八つ目の鍵を、最初の鍵が出たライオン像の台座の方向へ、魔力を込めて投げつけろ。』
アイリスは、ノクトの指示に従い、八つ目の鍵を投擲した。
鍵は、地下牢の、誰もがただの壁だと思う場所に激突する。
次の瞬間、石壁の一部が、ミストの幻術によって隠されていた空間を露わにし、その奥から、十個目の鍵が、黄金に輝く光と共に現れた。
アイリスは、十個目の鍵を手に取り、地下牢の中心へと戻る。
制限時間、九時間十分を残しての、ゲームクリア。
アイリスの脳内に、ミストの幻影が、苦悶の叫びと共に崩れ落ちる音が響いた。
「……………クリアだと!? 十時間かけて解かれるべき、私の、私の完璧なロジックパズルが……九時間十分も残して、クリアされただと!? 馬鹿な! 私のプライドが、私の存在意義が……!」
幻影は、まるで霧のように、王都の空に溶けて消えた。
彼の悲痛な叫びは、ノクトの圧倒的な勝利を象徴していた。
アイリスは、手に持った十個の鍵の重みを、改めて感じた。