第13話 午後の清拭と、専属侍女の同居宣言
目を開けると、カーテンの隙間から差し込む光が、午前より少しだけオレンジを含んでいた。
肩口をとん、と軽く叩かれる。
「起きられますか。――寝汗をかいています。拭きますね」
ミーナの声は今日も一定。けれど、耳たぶだけがわずかに赤いのは、きっと気のせいじゃない。
「い、今ここで?」
「はい。体表の熱は放置せず速やかに処置、が基本です。観察の一環でもありますし」
便利ワード、観察。抵抗は消耗戦――これはもう学習済みだ。
「上、脱がせます。腕を上げてください」
「……はいはい」
半袖パジャマの襟元を、手際よく外される。布が肩を滑って、ひやりと空気が触れた。
蒸しタオルの温もりが鎖骨に置かれ、すうっと清涼感が広がる。胸、脇、みぞおちの脇。掌越しに伝わるリズムは、びっくりするほど一定でやさしい。
「冷たくありませんか」
「気持ちいいけど……恥ずかしいのは、変わらない」
「"羞恥反応あり"と記録しておきます」
「記録しないでくれ」
うつ伏せに促され、背中も。肩甲骨の内側、背骨の線、腰のくびれ――最後に一瞬、タオルが止まり、心臓が無駄に仕事をした。
「では、下も」
「……観念します」
あっという間にズボンとパンツも脱がされて全裸にされて、足元からふわり、温いタオル。
「……そんなにじっくり見ないでくれ……」
特に発汗してそうな部分とその周辺を、広げたタオルで両手で入念に拭かれた時は、思わず余計な声が漏れそうになったが、喉の奥でなんとか押し留めた。
入浴、全身洗浄、拭き上げ――今日だけで羞恥の耐性が少し上がった気がするのは、たぶん気のせいじゃない。
「終わりです。着替えましょう」
脱ぐ時と同様、あっという間に下着とズボンを着せられ、最後に清潔な半袖パジャマに袖を通す。生地がさらりとして、さっきの蒸しタオルの名残と混ざり合う。
「着崩れ直します。……はい、整いました」
「その“整いました”ってやつ、地味に癖になる響きだよな」
「依存は推奨しません」
突っぱねる言い方のくせに、前髪をほんの少しだけ撫で上げてくるのは反則だ。
◇
「夕食には早いので、軽食を用意しました」
ミーナが卓上の鐘を鳴らすと、ほどなくワゴンが運ばれてきた。
薄焼きの焼き菓子と、蜂蜜で和えた果実の小鉢、そして温いハーブスープ。胃に優しそうな布陣だ。
「糖分・水分・塩分の補給をバランスよく。――はい、“あーん”」
「自分で食べられるけど」
「観察の一環です」
観察強い。
目の前に差し出された焼き菓子を、負けて噛む。ほろっと崩れて、甘さが広がる。
「美味しいですか?」
「くやしいけど、美味しい」
「あなた様が悔しがる理由はありません」
果物を一つ、ミーナ自身も口に運ぶ。無表情のまま、ほんの少しだけ目を細めた。
「毒見?」
「味の共有です」
「便利に言い換えるなあ」
二人で半分ずつ食べ終えるころには、部屋の光がさらに傾き、床に伸びる影が長くなっていた。
俺がカップの縁を指でなぞっていると、ミーナが唐突にこちらを向く。
「お伝えしておきます」
「ん?」
「ルシア様が執務中の間は、専属侍女としてあなた様のお世話をしますので、心配せずに任せてくださいね」
「うん、よろしくたのむよ」
自然と返事が出た瞬間――
「では、今日から私もこちらのお部屋に泊まります。か、勘違いしないでください。あくまで専属侍女の仕事ですから」
「うん、わかっ……って、いやいやいやいや! さすがにそれはまずいでしょ! ベッド一つしかないし!」
「十分広いので、問題ないかと」
「いやいやいや、ベッドは確かに大きいけど、問題あるでしょ! この部屋にはミーナの物は何もないし!」
「あります」
ミーナが指で示した先、壁際。小ぶりのトランクが二つ、いつの間にか置かれていた。
「……いつの間に?」
「あなた様が午睡中に。最低限の荷物だけ先行で。追加は後ほど」
「俺が寝てる間に既成事実を積むのやめてくれない!?」
「既成事実ではありません。業務です」
ぴしゃり。けれど、その耳はまた赤い。
「“専属”って、寝食まで一緒って意味だったのか……」
「語義的に“専ら属する”ですから。休養・食事・入浴後の管理・起床就寝の補助――全部含みます」
「起床就寝の補助って、寝かしつけ入ってない?」
「入っていません。必要なら検討します」
「検討しないで」
ため息をつく俺を横目に、ミーナは淡々と段取りを告げる。
「夕刻以降は執務が延長する可能性があるため、ルシア様は来室が遅くなります。その間、私が付き添い、異常があれば速やかに報告します。食後は軽い体操、その前に体温確認――腕を」
「またか」
「午後データです。午前と比較します」
言いながら、すっと寄ってきて、当たり前みたいに俺の右腕を抱き寄せる。半袖と半袖が触れ合い、肌の温度が直に交じる。
五分――のはずが、沈黙が心地よくて、少し長めになった。
「……今日はゆっくり休養できていますか?」
横顔のまま、ミーナが問う。
俺は天井を見上げ、ゆっくり息を吐いた。
「うん。ミーナが近くにいてくれるのが、大きい」
「それは――よかったです」
短く言って、いつもの調子へ戻る。
「ただし、引き続き休養が第一です。余計な発熱は――」
「厳禁、だろ? 覚えた」
「学習が早いのは良いことです」
観察対象として褒められるのは、複雑な気分だ。
「ほんとに泊まるんだな……」
「はい。荷物は最小限です」
「“最小限”って、その二つで?」
「化粧水・タオル類・替えの下着・書類一式・温度測定具・簡易の魔術具・非常用の干し肉と乾パン、以上です」
「最後の二つ、重いな!」
「備えは大事です。……それと」
ミーナが少しだけ視線を落とす。
「私がここにいた方が、あなた様は、よく眠れるみたいですから」
「……それ、観察結果?」
「統計上の傾向です。勘違いしないでくださいね。私は任務で――」
「はいはい、任務で」
任務のくせに、声がほんの少しだけ柔らかかった。
窓の外から、早い鳥の声が響く。部屋の中は、ミーナの荷物のぶんだけ新しい空気になって、俺の生活がじわっと塗り替えられていく感覚がした。
「じゃあ今夜から本当にここで?」
「はい。本日から」
「ベッドは――」
「必要なら、私が床に――」
「いや、それはさすがに悪い。傍にいてくれるのは……ほんのちょっとだけ、助かるかも」
言ってから、自分で照れた。
ミーナは一拍だけ黙って、いつもの無表情でうなずく。
「承知しました。では、今夜から寝食を共に――」
「言い方!」
「正確な表現です」
どうやら本当に、逃げ場はなくなっていくらしい。
でも――悪くない。ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなる。
「それでは、夕食前に軽い体操を。寝巻のままでもできます」
「やるのか……」
「やります。私も一緒に」
ミーナが両手を前に出し、俺の手を軽く取った。手のひらが触れたところだけ、やけに温度が高い。
専属、ね。任務、ね。そう言い張るくせに、指先は驚くほどやさしい。
ベッドの上には既にミーナの枕が置かれ、二人分の夜が、もう用意されている。
新しい生活の気配に、胸の中のざらつきが、ほんの少しだけ、ほどけていく気がした。