第10話 専属侍女と、湯気の向こうの攻防戦
「入浴のお世話は、専属侍女の役目ですので」
にこりともせず、ミーナはそう言った。
俺は慌てて立ち上がる。
「い、いや、そこまでしてもらわなくても……!」
「お気になさらず。私の仕事ですので」
どうやら彼女、俺が逃げようとするたびに一歩前へ出るようにして、距離を詰めてくる。
「ちょっと、だから、えっと……男の裸とか、平気なの?」
「ええ、慣れておりますので」
「そんな、即答で……!」
「お嫌でしたら、目は閉じておきます。洗う手元に集中したほうが効率的ですし」
いや、そういう問題じゃなくてだな!?
だが、彼女の迷いのないまっすぐなまなざしは、職務に忠実というより、どこか意地のようなものを感じる。何か、俺が断ったら負け、みたいな……。
――そして結局、俺はずるずると風呂場へと連行される羽目になった。
浴室は客室に備え付けられている。白を基調とした石造りの空間に、大きな浴槽から湯気が立ちのぼる。ホテルの高級スイートみたいな設計だ。
「それでは、服を脱がせますね」
「いや、自分で――」
言い終わる前に、手際よく上着のボタンを外され、シャツが脱がされていた。迷いのない動きが逆に怖い。
「腕、上げてください」
「……もう、わかったよ……」
諦めて指示に従うと、ミーナは静かにうなずいた。そして残りの衣服も脱がしていき、一枚ずつ丁寧に畳んで棚に置いていく。
ズボンが足元まで下ろされた瞬間、俺はつい身をすくめた。
「では、こちらも失礼します」
「えっ、ちょっ、そこは自分で――」
聞く耳も持たず、ミーナは無言のまま下着にも手をかけた。
「……っ、くぅぅ……」
恥ずかしさにうめきながら、俺はタオルで前を隠しつつ、されるがままになっていた。
そして最後の一枚も、きっちり畳んで棚に収められていく――俺の尊厳とともに。
そんな俺に「こちらへどうぞ」と促し、ミーナは備え付けの腰かけ椅子を指さす。
言われるままに座らされ、もう逃げ場もなかった。
裸で座らされる羞恥に耐えていると、ミーナはタオルを手に、するりと背後にまわった。
「それでは、失礼します」
ミーナは静かにシャワーを手に取り、お湯の温度を確かめるように指先で触れたあと、俺の頭にそっとかけた。
最初は驚いたが、お湯の温かさとともに、ほんの少しだけ緊張がほぐれるのを感じた。
泡立てたシャンプーが、ふわりと頭にのせられる。ミーナの指が、ゆっくりと頭皮をなでるように動きはじめた。
……え、意外と気持ちいい。
「ちょっ……これは、まあ……あの、わりと丁寧じゃん……」
「当然です。粗雑に扱えば、毛根にダメージが蓄積します」
「なんでそんなに冷静なの……」
そんな会話を交わしながら、髪を洗い流され、さっぱりとした気分になったのも束の間――
ミーナはボディソープを泡立てると、手のひらにふわふわとした泡を広げながら、落ち着いた口調で言った。
「それでは、全身を丁寧に洗わせていただきますね」
「……え、背中だけじゃなく?」
「はい。全身です」
そう言った次の瞬間、泡のついた手が俺の肩にそっと触れる。
「ちょっ、ちょっと待って!? せめて前は自分で洗――」
「暴れないでください。泡が飛び散って、掃除が大変になりますので」
うわ、完全に力負けしてる……。
「力はないですが、意外と骨格はしっかりしてますね」
「なに普通に論評してんの!? ていうか、もっと遠慮してくれ!」
「遠慮しました結果、最短で済ませる方向に動いております」
「……理屈で詰めるのやめてくれ……」
その後も、泡立てた掌と指先は、肩から胸、腹、足にいたるまで、容赦なく――いや、律儀に――全身をくまなく洗っていった。
恥ずかしさで顔が熱くなるのがわかったが、ミーナは変わらぬ無表情で手を動かし続ける。たぶん、彼女のほうがずっと冷静だった。
――けれど、ふと気づけば。
彼女の手つきは、意外にもやさしくて。
痛くないように、くすぐったくないように、まるでこちらのことを気にしているようで。
「……もしかして、慣れてるだけじゃなくて、けっこう気を使ってくれてない?」
「……ふん、べ、別に……気を使うほどの価値があるとは思っていませんけど!」
ぴしゃりとした声と裏腹に、彼女の指先は、繊細で丁寧だった。
「ふーん……」
「なにか?」
「いや。ありがとう」
そう言うと、ミーナは少しだけ動きを止めて、ぽつりと呟いた。
「――感謝されるの、嫌いじゃありませんので」
言葉のトーンはあくまで平坦なのに、その耳が、ほんのり赤く染まっているような気がした。
しばしの沈黙のあと、ミーナはそっと口を開く。
「……慣れている、というのは、あれ、少し……嘘でした」
「え?」
「男の方の身体に、こうして触れるのは……初めてです。見るのも、もちろん。けれど――」
一瞬だけ、ミーナの声が小さくなった。
「任された以上、失敗するわけにはいきませんので」
そう言って再び手を動かすミーナの横顔は、やはりいつものように無表情で、でもどこか、頬だけが少し赤かった。
◇
「髪も濡れておりますので、タオルを……」
湯上がりの体を拭かれるころには、俺の心もすっかりふやけきっていた。もう……好きにしてくれ……。
ミーナは手際よく、俺の髪にタオルをかけ、軽く水気を吸わせる。
「そのまま座っていてください。風邪をひかれては困りますので」
すっと立ち上がると、どこからか魔力式の送風機のようなものを取り出し、俺の背後でスイッチを入れた。
ふわり、温かい風が首筋に触れた。
「わ……」
「熱くありませんか?」
「いや、ちょうどいい……って、これ、髪乾かしてくれてるの?」
「はい。私の役目ですので」
仕事であるのは分かるけど、その手つきがやけに丁寧というか――
「……なんか、俺の髪、撫でるように乾かしてない?」
「撫でてません。整えているだけです。無造作にしておくと、ルシア様が不機嫌になりますので」
「ルシア……?」
「髪に少し寝癖がついているだけで、“研究の集中が乱される”と仰います。……少し過敏なところがおありですから」
なんとなく納得しかけたけど、ミーナの口調はどこか、ルシアを思いやっているようでもあり、からかっているようでもあり……。
「では、服を着ますね」
「それぐらいは自分で……って、ここまで来たら今さらだな……」
「はい。遠慮なさらず、足を上げてください」
観念した俺は、なるべくタオルで前を隠しつつ、無言で足を上げた。
だがミーナは、邪魔だと言わんばかりにタオルをどかし、いつも通り無表情のまま、手際よく下着を履かせていった。
抵抗する気ももうなかった。というか、さっき全身を洗われて、タオルで拭かれたばかりだ。
今さら下着ぐらいで大騒ぎするのも、むしろ恥ずかしい。
ただし、せめてもの抵抗として――
「上着だけは……自分で着るからな」
「……承知しました」
俺は、わずかばかりの尊厳を死守した気分で、上着を自分の手で羽織った。
「はい、整いました」
ミーナはぴしりと一礼したあと、ふっと柔らかく微笑んだ――気がした。
「本日も、一日よろしくお願いいたします。旦那様」
「……だから、そういう呼び方はやめろってば……!」
今朝の騒動で、俺の心はすっかり振り回されたけれど。
それでも、たぶん――
俺の中で、彼女の存在は少しずつ、確かに大きくなってきている。
そんな気がした。