山脈の影
朝霧の立ち込める奥羽山脈の中腹で、義経は立ち止まった。
濡れた岩肌が、朝日に濡れて光っている。背後の道のりは霧に溶けて見えないが、追っ手の気配は確かに迫っていた。
「殿」弁慶が低い声で告げる。「この先、伏兵の気配がございます」
義経は無言で頷いた。泰衡は山道に精通した山番たちを差し向けてきたのだろう。まさに蟻の一穴も見逃さぬ態勢か。
「よし」義経は鎧の背綴を少し緩めた。「山を知る者との戦いなら、こちらにも心得がある」
かつて富士の裾野で、常に地の利を活かして戦った平家の残党たち。その戦いで得た教訓が、今ここで生きる。
「殿、向かいの尾根に...」
声が途切れる前に、矢が風を切る音が響いた。義経は岩陰に身を寄せ、飛んでくる矢を冷静に見据える。
「射手は三か所」鋭い目が霧の中を読み解いていく。「いずれも高所から俯瞰できる位置取り」
続いて、岩を転がす音が轟いた。
「退け!」
義経の号令と同時に、巨岩が轟音を立てて転がり落ちてくる。しかし、それは想定内だった。
「今だ!」
岩を避けた瞬間の態勢の崩れを狙って、伏兵たちが襲いかかってきた。だが、義経の太刀は既に抜かれていた。
一閃。山番の首級が、霧の中に消えていく。
「殿! 上です!」
弁慶の声に応じて義経が跳躍した瞬間、大太刀が頭上を薙いでいた。伏兵の一人が、断崖から飛び込んできたのだ。
しかし、義経の動きの方が速かった。
岩場を蹴る足さばき、体重の移動、太刀筋の選択。全てが一瞬の判断で決まる。伏兵の太刀が空を切る中、義経の返し技が確かな手応えとともに肉を裂く。
「山の者よ」義経は静かに告げた。「卑怯な戦い方とは言わぬ。それが生き様なれば」
残る伏兵たちの気配が、次第に遠のいていく。彼らは、目の前の武者の真価を見て取ったのだ。
「殿」弁慶が報告する。「道は開けました」
義経は頷き、山頂を仰ぎ見た。霧の向こうに、北の空が広がっている。
「行くぞ。この山を越えれば、また新たな戦いが待っている」
陽光が霧を透かし、岩肌を黄金色に染め始めていた。