北上川の戦い
夜明け前の北上川は、濁流となって唸りを上げていた。
義経の一行は、川縁の細道を北へと駆けていく。雨で重くなった鎧が肩に食い込むが、それも今は戦いの一部だった。
「殿! 追っ手が迫ります!」
後方から伝令が駆け寄る。馬上で振り返った義経の目が、遠雷のように鋭く光った。
「何騎だ」
「およそ五十。先陣は泰衡の精鋭です」
義経は一瞬、天を仰いだ。東の空がわずかに白み始めている。この薄明の刻こそが、戦機となる。
「川を渡る。上流の瀬を探せ」
「しかし殿、増水が...」
「だからこそだ」
義経の声に迷いはない。濁流と化した北上川は、追っ手にとっても同じ障壁となる。ここを渡れば、一時の活路は開ける。
馬蹄の音が、次第に大きくなってくる。
「殿、浅瀬を見つけました!」
前方から弁慶の声が響く。義経は即座に手綱を引いた。
「全軍、渡河の準備!」
その時、後方から矢が風を切る音が響いた。義経は瞬時に体を傾け、矢を躱す。馬上での技が、今また生きる時が来たのだ。
「弓張り候え!」
義経の号令と共に、残った家臣たちが弓を構える。しかし、矢数は少ない。ここは知略で補うしかない。
「待て...待て...」
追っ手が射程に入るのを待つ。雨に濡れた弦を引く手に、緊張が走る。
「今だ!」
一斉に放たれた矢が、曇天の下で冷たく光を放つ。泰衡の精鋭たちが、次々と馬から落ちていく。
「渡河開始!」
先陣の弁慶が、大太刀を背に負いながら川に馬を進める。濁流が馬の腹を打ち、白波を立てる。
義経は最後尾で陣を取った。残る追っ手との距離は、刻一刻と縮まっている。
「来い!」
義経の刀が、朝靄の中で妖しく輝いた。襲いかかる敵の太刀を受け止め、返す太刀で喉を薙ぐ。水しぶきと血飛沫が交じり合う。
「殿! こちらへ!」
対岸から弁慶の声が響く。義経は馬の首を川へと向けた。濁流が馬の足を取ろうとするが、戦場を駆け抜けた名馬は、主の意志を感じ取ったように力強く水を掻く。
追っ手は、増水した川の前で足止めを余儀なくされた。
「往生際の良い男よ、源義経」
対岸から聞こえた泰衡の声に、義経は答えなかった。ただ、静かに北へと馬を進める。
東の空が、ようやく明るみを帯び始めていた。