第47話 堕ちゆくフ女子は何を願う 10
「う……ぅ、ん……」
カーテンの隙間から侵入した細い陽の光が鋭利な刃物の如く少女の寝顔に突き刺さる。
少女は何度か寝がえりを打って抵抗するものの、やがて我慢しきれなくなって気怠そうによっこら身体を起こした。
「……はあ……」
起き抜けに毎回覚える悪循環に大きくため息をつく。
時計を確認すると、午後の二時。
このくだりもいつの間にか慣れてしまった。
そしてボサボサのショートヘアにパジャマのまま階段を下りると、ダイニングテーブルにブランチの菓子パンが一個置いてある。
胡桃はそれに手を付けず、冷凍庫からアイスを取り出し口へ運んだ。気が重い時でもアイスの冷たい爽やかさが少しだけ彼女の気分を晴らしてくれたからだ。
胡桃はゆっくりアイスを口中で転がしながら手近な椅子に腰かけ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
この間まで葉が一枚も付いていなかった街路樹は青々と茂り、胡桃に時間の経過を容赦なく突き付けてくる。
あの朝からもうじき一年が経とうとしていた。
校門をくぐることなく胡桃は二年に進級し、幸もまた進級している。
胡桃が一方的に決別を決めてからも幸は毎日迎えに来てくれたし、相談にも乗ると言っては家を訪ねてきてくれていた。その原因が自分だとは気づきもしないまま。
しかしそんなお節介もひと月が過ぎた頃には徐々に減っていき、やがて途絶えてしまった。
それでも何事もなかったように日常は過ぎ、体調不良から始まった不登校に関しても両親は寛容だった。
裕福でもないのに名門と言われるこの学校に娘を通わせるだけでも相当な経済的負担があるはずだ。
しかし今まで何も言ってくることはなく、それが却って見えない重圧となって胡桃に圧し掛かってきていた。
「いっそ張り倒してくれたら、思い切り泣けるのに……」
胡桃はぼそりと小さく独り言ちると残りのアイスを一気に頬張って何かを振り払うかのように階段を駆け上がる。
そして再び部屋の入口を固く閉ざしてしまうのだった。
■□■□
「異世界……? なにそれ。オカルトかよ」
ある日だらだらとネットをうろついていた胡桃は、掲示板でまことしやかに囁かれている妙な噂話を目にした。ツリーを追っていくと、どうやら今胡桃たちが暮らしている世界とは次元時空の異なる世界が存在するらしい。
胡桃は黙ったままどこを見るでもなく指で弄るようにタブレットの画面を上へ下へスクロールさせる。それはもう読むことをやめ思考に陥っている証拠だ。
「それってボクなんかでも……行けるのかな……」
不意に胡桃の心の本音が漏れる。それはとても小さな声で発せられたが確実な言葉だ。
親友も無くし両親の枷になっている自分なんてこの世界からいなくなった方がいい、そう日々思い悩む故の言葉だった。
「もうやめ、おしまい!」
やがて胡桃は頭を左右に数回強く振ってタブレットの画面を切り替えると、そこに現れた描きかけのイラストにペンを走らせる。
胡桃にとって創作はすっかり現実逃避の手段となっていた。
鬱屈した時間は絵に没頭することで忘れられたし、集中すれば半日程度はあっという間に過ぎてしまうから都合がよかったのだ。
「よし……ふふん、なかなかイイじゃん♪」
胡桃はタブレットを傾けて満足そうに成果を眺めると、SNSを開いて書きたてのイラストをアップした。
フォロワー約三千五百人。
所謂絵師アカウントとしては多い方ではないが、その分胡桃のファンは比較的離れる人も少なく熱心な人が多かった。
とは言え最近は増加具合が芳しくなく、胡桃はしばし中空を眺めると、ため息まじりにぼそりと独り言ちる。
「やっぱレイ様ばっか描いてたら伸びないかぁ」
アップしたイラストは胡桃が最近ハマっている女子校を舞台にした恋愛ゲームで、屈指の人気イケメンキャラ(女子)だ。
恋愛ゲームと言っても男性キャラは教職員などごく一部に限られ、主人公である新入生の女子と魅力的な女性先輩たちとの甘いひと時を味わえる『百合ゲーム』というジャンルだ。
そのレイと呼ばれるキャラは画面の中でこちらに優しく微笑む面影が、どことなく獅子戸先輩に似ていた。
元来、胡桃は凛々しい王子様顔が好きなのかもしれない。
「あ。またこの人だ」
すると、唐突にイラストの下にピンクのハートがポン、と軽やかに点滅した。
その出どころは最近フォローしてくれたアカウントで、直近のイラスト全て一番乗りで『いいね』してくれているひと際熱心な人だ。
こんな自分を応援してくれるなんて、一体どんな物好きなんだろう……そう胡桃が思ったときチカチカと封筒型のアイコンが点滅した。
「DM……?」
その送り主は件の最速ファボラーだ。
胡桃はテンプレ染みた誉め言葉を期待しながらアイコンをタップすると、その直後自分の軽はずみな行為を激しく後悔する。
「う、そ……」
見る見るうちに胡桃の顔から血の気が引いて手が震え始める。
大粒の汗が額から耳の前を伝い、顎に雫溜まりをぶら下げた。
「やだ……やだ……!」
胡桃はタブレットを放り投げると、ベッドへ飛び込んで手足をひっこめた亀のように布団を頭から被ってうずくまる。
そしてそのまま五分ほどいると、今度は飛び起きてパジャマを投げ捨てた。
「ヤバい、ヤバい……」
胡桃は今にも駆け出しそうに足踏みをしながら大急ぎで適当な服に着替えると、他に誰もいない家を飛び出していった。
■□■□
胡桃はバスの窓から流れる景色を虚ろに眺める。
ようやく冷静になったところで、もういちど自分のアカウントを確認する。
そしてDMで届いた文章を読み直した。
『久しぶり□この絵、胡桃でしょ? 相変わらず、ううん、もっと上手くなってる!□
このキャラ私も知ってるよ□ 先輩に似た感じだから胡桃も好きだろうなって思ってたんだ□
元気そうで安心した□』
最近フォローしてくれた熱心なアカウントは、幸だ。
彼女が家にも来るかもしれない、そう思ったら呑気に部屋にはいられなくなって飛び出してきたという訳だ。
これからもずっと彼女の影に怯えるくらいならアカウントを消してしまおう、そう思って何度も同じ手順をさっきから幾度となく繰り返している。
しかしその度にこんな自分を応援してくれているフォロワーを失いたくなくて、最後の踏ん切りがつけられずにいた。
やがてバスは、胡桃もよく訪れる繁華街に到着する。
降車すると彼女は人目を避けるようにパーカーのフードを深くかぶってヘッドホンで武装した。
「ついでだから新しいネタでも探しにいこ……」
そして、特に行くところもないので新作の百合ゲーを物色しに通い慣れた足取りで雑居ビルに向かうのだった。
■□■□
「あっ、新作出てんじゃん」
店頭に設置された特設モニターの前に平積みされている大袈裟に大きい化粧箱を手に取った胡桃は、表紙のイラストや置かれた什器を食い入るように見つめる。
「ふーん、今のトレンドはこういう塗りなんだ……薄いなぁ。主線も細いし……ボクは厚塗り気味だからちょっと研究用に欲しいな……」
そう言ってポケットに手を入れた胡桃だが、慌てて出てきた為財布もカードも無くスマホに入っている残高も心許ない。
「いいよ、アマで買うし」
口を尖らせてそう吐き捨てると、後ろ髪を引かれるように化粧箱をそっと段のいちばん上に戻す。
それからしばらくの時間、目的もなく店内をうろうろと見て回る。
胡桃はこの空気が好きだった。
目に入ってくる景色は派手に髪色を染めた二次元美少女で埋め尽くされ、創作の刺激がもらえる。
加えてここには自分と価値観の近い人たちがいるし、みんな友達ではないがどこか同じ目的を持った同士のような気がして、胡桃にはそれだけで孤独を紛らわせるには十分だった。
「……!」
ご機嫌で歩く胡桃のスマホが不意に震え、彼女を夢の空間から現実に引き戻した。
恐る恐る画面を覗くと、先ほど上げたイラストの反応だ。
本来嬉しいはずなのに、今は確認するのが怖い。
帰りたくない。
もし帰路で幸に会ってしまったら。
彼女が家に尋ねてきたら。
想像すると足が震えた。
閉店までここにいたとして、その後どこへも行く当てはない。
マンガ喫茶に泊まるお金もない。
「そうだ、異世界……」
困り果てた胡桃の脳裏にその言葉がふと浮かぶ。
もし、異世界が本当にあって、そこへ行けたら。
(ネットでは交通事故とか書いてあったけど……ぎゅんって行っちゃうなら飛び降りも同じだよね……)
胡桃の足は無意識に店舗を出て非常階段へ向かっていた。
そして無機質な金属の階段を上へ、上へ進んでいく。
(……ボクが死んだりいなくなったら、おとうさんとおかあさん、悲しむかな……でもこんなボク、いない方がいいよね)
(……幸も)
胡桃の目の前には空が広がっている。
腰まである手すりを乗り越え、縁に腰かけた。
ヘッドホンとフードを外すと、爽やかな空気と雑踏が胡桃にリアルを感じさせる。
ここが、分水嶺。
生と死、現世と死後、または異世界。
怖くはない。
自分には、なにもないから。
胡桃はゆっくり立ち上がると、更に前へ。
つま先の下はもう空中だ。
「くるみは新しい世界へ旅立ちます……さよなら」
(……ごめんね)
「んちゅ~~~~ン♪」
「ぎゃあああああああ!!」
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