第74話 久しぶりの休息
鬼面の巨猿と戦闘が始まって、すでに三十分ほどが経過しようとしていた。
「チィ……ッ!」
鋭く舌打ちをこぼしながら、大きくバックステップをとる。
……硬すぎるだろ、あの毛皮!
毛むくじゃらのあの腕に何度剣を振るったかわからない。
だが、巨猿の腕にはそれほど深い傷は見受けられない。せいぜい、いくつかの浅い傷から多少の血が滴っている程度。
……それにあの馬鹿力も厄介だな。
本能のまま振り回される大木のような腕は、次々と周囲の木々を薙ぎ倒してゆく。
正直、掠めただけでもかなりの痛手となるはずだ。
無駄に硬い耐久性と、馬鹿馬鹿しいまでの破壊力。
その二つを兼ね備えた文字通りの“化け物”ということだ。
……せめてマリアからの支援があれば……――。
チラリと横目にマリアたちの方を見やる。
師匠は俺の視線に気づいているだろうに、わざとらしくあくびを漏らしている。
対照的に、マリアは心配そうに眉をハの字に曲げて、祈るように両手を組みながら戦いの行く末を見守っている。
イヅナとドラグは今にも飛び出しそうに、身体は前のめりだ。
三者三様の反応を見せてはいるが、つまるところ答えは同じ『救援は望めない』である。
それに、師匠の反応の意味は『退屈。さっさと終わらせろ』だ。
これ以上長引かせるのは得策ではないだろう。
「あぁ、クソッ……!」
諦めからようやく腹を括り、長剣を両手で深く握り込む。
目を瞑る。息を吸う。息を吐く。
一連の流れで心を鎮めると、目を開く。
「……よしっ。やるか」
精神統一を果たした瞬間、俺の肩にちょこんと精霊が乗ってくる。
『やる? やっちゃう?』
「ああ、お願いするよ」
口の端を上げ、精霊を身体の中へ迎え入れる。
身体の奥底から湧き上がる力を感じながら、巨猿を見定める。
次の瞬間、周囲の景色すら置き去りにし、一直線に駆け出した。
「――ッ!」
巨猿とすれ違った直後、ピタリと動きを止める。
息を吐いて振り返ったときには、すでに巨猿は事切れてその場に倒れ伏していた。
巨猿から視線を切ると、剣についた血のりを振り払う。
「……あ、あれを一撃で……?」
マリアの驚愕する声を聞きながら、同化していた精霊を身体の外へ出してやる。
『おつかれ~!』
「ありがとう。助かったよ」
精霊に感謝の言葉を口にしてから、何度か手を開いて閉じてを繰り返してみる。
……思ったより、身体の負担が少ないかな。
軽く確認してみるも、異常はなし。
先の戦闘で精霊竜との『憑依融合』を試した際、融合を解いた瞬間に一歩も動けないほど疲弊してしまった。
だが、今回は少しの疲労はあれど、まだしばらく戦闘を続けられる程度には余力が残っている。
……やっぱり融合する精霊の格や力量によって、解除した際の反動の強さも変わってくると考えた方がいいか。
とんでもない戦場に放り込まれたものだが、思わぬ収穫があった。
一息ついて、師匠の方へ目を向ける。
すると、彼女はすでに興味が失せたように視線を切り、早々と歩き出していた。
「あっ、ちょっ……!」
無言でどこかへ歩いてゆく師匠のマイペースさに、マリアは戸惑いの声をあげている。
が、もう半ば諦めている俺は肩をすくめるだけにして、駆け足でその背を追い始めた。
しばらく歩き続けた先、いつぶりかに感じた障壁を抜ける感覚を得た直後、視界いっぱいに広がった懐かしい景色に口元を緩めた。
「――ようこそ、『精霊の森』へ」
足を止め、振り返る師匠。
そして歓待の言葉が発されたと同時、俺たちの周りに大勢の精霊が一瞬にして集まってきた。
『ようこそ~!』
『こそこそ~!』
『うぇるか~む!』
「わっ……!?」
あまりに突然の出来事に、三人はそれぞれ戸惑いの表情を見せる。
その光景を眺めながら、俺と師匠は急に訪れた気の抜けた雰囲気に僅かに肩をすくめたのだった。
精霊に囲まれた皆をおいて、向かう先は精霊の森のさらに奥。
見上げてもその先端が見えないほどの巨木――『世界樹』を仰ぎ見て、その足元に腰を下ろす。
「……やっぱりここが一番落ち着くな」
数える程度しかここに来た覚えはないが、それでもこの場所に来ると心が鎮まる。
……この身体のせいなのかな?
手のひらに視線を落として、魔力を糸状に変換する。
その編んだ糸を鳥やリスなどの動物の形に変えて戯れていると、すぐ背後から静かな足音が迫ってきた。
「お前もここに来ていたのか、レオン」
「ええ、師匠」
振り返ると、こちらを優しい目つきで見下ろす師匠と目が合う。
その手にはひとつの酒瓶と、一対の酒杯が握られている。
「一杯付き合え」
「じゃあ、一杯だけ」
隣に腰を下ろす師匠から酒瓶と酒杯と受け取り、まず師匠の杯に注ぐ。
それから酒瓶を師匠に渡し、次はこちらの杯に注いでくれる。
そして、軽く杯を突き合わせて、音を鳴らす。
「「乾杯」」
ぐっと一息に呷り、再び大樹を見上げる。
しばらく無言で酒を注ぎ、呷る流れを繰り返していると、ふと隣からひとつ問いかけが飛んできた。
「レオン。先ほどの精霊魔法は、お前の発案か?」
「さっきの……――」
手を止め、少し記憶を遡る。
「あぁ、精霊との『憑依融合』ですか」
「ふむ、憑依融合……。なるほど、その身体が世界樹であることを利用した、精霊との疑似的な同一化、というわけか。確かにお前にしかできない、良い考えだ」
「……さすがは師匠。一度見ただけで見破られますか」
「ふっ。伊達や酔狂などで研究者なぞしてはおらんよ」
軽く笑い合い、少し朱が差した顔で師匠はさらにひと口酒を喉に流す。
そこからさらに杯へ酒を注ごうとして、おもむろに手を止めた。
「そうだ。ひとつ忘れていたよ」
「……ん、何をですか?」
首を傾げる俺に、柔らかな声音で師匠は告げた。
「――おかえり、レオン」
一瞬、目を見開く。
だが、すぐに口元を緩めると、俺も言葉を返した。
「――ただいま、師匠」




