日常の側には影
週末土曜日。一週間で一番忙しい日を乗り越え俺のファミレスバイトは終了した。
帰宅準備をするため男性更衣室へと向かう。
週末の家族連れが多い時のシフトは勤務時間に関わらず、疲労感が凄かった。
疲れ切った状態でとぼとぼと店内奥の更衣室へと歩いて行く。
更衣室のドアに手をかけると、隣の女性更衣室の扉が勢いよく開き一人の女性が飛び出してきた。
「ああ、立花君お疲れ様。」
「北園さんお疲れ様です。相変わらず帰宅準備が早いですね。」
同じ時間にシフトが終了するはずの彼女は、ベージュの上着に黒の鞄を抱えて目の前に現れた。
「今日中に大学の課題を終わらせないといけないんだよね。明日は夕方からのシフトだから徹夜でね。」
そういった彼女はスマホで時間を確認していた。
「立花君も大学生になればわかるよ。」
「俺は北園さんみたいに課題を溜めたりしませんよ。反面教師にさせていただきます。」
「バイトしながら課題をやるのは大変なんだぞ。」
そう言うと彼女は少しむくれた顔をこちらに向けてきた。
その顔には少し余裕がないように見えた。
本当にギリギリなのだろう。
「それじゃあまた明日。」
「お疲れ様でした。課題頑張ってください。」
「はーい。頑張りまーす。」
足早に帰路へとつく彼女の背中を見送り、改めて更衣室のドアを開けて自分のロッカーへと向かう。
ロッカーを開けると、点滅しているスマホが目に入った。
LINEにメッセージが来ているようだった。
美穂からだ。
美穂は幼馴染で現在は俺の彼女だ。
明日の午前中に一丁前にデートに誘ってみたその返信だろう。
彼女からの了承メッセージに安堵する。
美穂とのLINEにスタンプを送り帰宅準備を始める。
スマホの時計を見ると、シフト時間が終わってから既に10分も経っていた。
早く帰らないと。
急いでロッカーを閉めて自宅へと向かった。
自宅までは自転車で20分ほどの距離だ。住宅街に入って行くにつれて人通りが少なくなっていく。
あと5分もすれば自宅という時に、乗っていた自転車がスリップしてバランスを崩した。
なんとか体制を立て直したが、後方で物音が聞こえた気がして自転車を止める。
振り返ると地面に光るものが見えた。ポケットに入っていた俺のスマホだ。
「マジかよ、画面割れてないだろうな。」
自転車を道の脇に止めて急いでスマホを拾いに向かう。
水溜りでも踏んだのか、車輪の跡が道に線を引いていた。
スマホを拾い上げ画面を確認してみると、運よく画面は割れていなかった。
「良かった、なんともなさそうだ。」
スマホをポケットに入れ直そうとした時、スマホの裏面が濡れていることに気がついた。
どうやらスリップした原因の水溜りに落ちてしまっていたようだ。
まあ、防水だから拭けばいいか。
服の裾で水気を拭い取っているときに、今日は晴天だったことを思い出した。
だったらこの水溜りはなんだ。
よく見ると脇道からその水は流れていた。
脇道に街灯はなく、薄暗くてよく見えない。
月も雲に隠れていて余計に暗い。
目を凝らして脇道を覗き込むと、だんだんと月明かりが差し始める。
水溜りを遡ると大きな物体が見えてきた。
その物体から水が流れていたみたいだ。
さらに明るくなると、その物体に突き刺さった光るものが見えてきた。
ナイフだ。
そしてそのナイフが刺さった物体は、人間だ。
俺は声が出なかった。
月明かりに照らされて自分の手が真っ赤に染まっていること、そして目の前に人が倒れていること。 これらが鮮明になってきた。
鮮明になるにつれて、目の前の非日常に冷や汗が噴き出てきた。
警察や救急車を呼ぶことなんて頭に浮かばない。
目の前に実際に起こっている事実を受け入れたくない。
受け入れる余裕なんてない。
呆然と突っ立っていると所々赤く染まってしまったスマホが鳴り響いた。
条件反射で画面を見ると、美穂からの着信だった。
その着信音が緊急通報できなかった俺を正気に戻した。
しかし、突然の出来事に戸惑い美穂からの着信に応答してしまった。
「もしもし、奏真。もう家に着いた?」
「いや、美穂。まだ俺家に帰ってない。」
辿々しい日本語で返事をすると、不審に思ったのか美穂が質問をしてきた。
「なんかあった? 日本語変だけど。」
「今、目の前に人が。血が出てて、倒れてて。」
「ちょっと、何言ってるの? 大丈夫?」
少しずつ興奮状態になっていくのがわかる。
先程までかいていた冷や汗が運動した時のような汗に変化していく。
「家の近くまで来たんだけど、転びかけて、スマホ落として、拾ったら赤くなってて。」
精一杯言葉を振り絞って現状を伝えていく。
「取り敢えず落ち着いて、今どこ?」
「後5分くらいで家に着くところ。」
住み慣れた場所のはずなのに、これ以上の表現が出てこない。
「わかった。奏真の家に連絡してみんなで迎えにいくからそこで待ってて。電話は切らないで。」
迎えに来てくれる。
この状況を一人で受け止めきれない俺は、その言葉に気を緩めてしまった。
「ちょっと奏真、聞いてるの?」
美穂の声が段々と遠くなっていく。
全身の力が抜けていき遂に膝から崩れ落ちてしまった。
その数秒後、俺の意識は暗闇に飲み込まれていくかのように消えていった。