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5-24 建速勇人(8)

 結局、勇人が楠木正成の陣中を訪ねる事が出来たのは、それから数日後、正成が河内へ帰ると言う日の前日になった。

 五辻宮の事に付いて小夜に報告した所、和政や影太郎も交えて小夜と親房の警護態勢を見直す事になり、京にいる間はそこに勇人も組み入れられる事になったのだ。

 勇人の予想通り小夜は最初自分の警護に多くの人間が割かれる事に関しては渋ったが、話を聞く内に五辻宮の危険さを納得した。

 正成の元から合流してきた忍び達は相当に質が良く、当面は人手に不足する事は無さそうだった。ただ、ちあめほどの飛び抜けた腕の持ち主は勇人が見る限りやはりいない。

 五辻宮とその配下に付いて、影太郎とも詳しく話し合った。影太郎は以前から帝の影の力に関しては独自に諜報と分析を繰り返していたようで、ある程度その組織を把握していた。

 帝の下で動く忍びの組織だろう、と勇人は何となく考えていたが、実際にはもっと複雑な物らしい。勇人が直接ぶつかったような者達もいるが、朝廷や、あるいは武家の中に立場を持っている者達もいる。勤王の志で強固にまとまった昔からの人の繋がりが、広く深く根を張っていて、それを五辻宮が統括している。

 ただ、小夜や親房が今まで敢えて深く調べないようにしていた事もあり、影太郎もやはり全容を調べ切れてはいないようだ。

 影太郎としっかり話すのは、これが初めてだった。

 優れた忍びなのだろう、と言う以上の感想は、勇人は抱かなかった。少なくとも勇人と相対する限りは、礼儀を守りながらも徹底して自分と言う物を消して来ている。

 左近やちあめと比べれば、ずっと忍びらしい忍びでもあるのだろう。

 楠木正成の陣を訪ねると、すぐに正成の仮小屋へと通された。

 京に残っている正成の兵は、数百と言った所だ。楠木勢の陣は、奥州軍とはまるで雰囲気が違っていた。奥州軍は合戦から遠ざかっていても常に一定の緊張を保っているが、楠木勢はのんびりとしていて兵の表情も明るく、ともあれば軍律も乱れているように見えた。しかし良く見ればどこにも隙が無い。

 正成は小屋の中で碁を打っていた。相手をしているのは正成と同年代の武士だ。


「これは、建速殿。今日はどのような御用ですかな」


 勇人を見ると正成は穏やかな口調でそう言った。


「河内へと戻られる前に、一度正成殿と話をしてみたい事がありまして」


「なるほど。建速殿は、碁は?」


「打ち方程度は」


「では良ければ一局お相手しながらお話を伺いましょうか。身内ばかり相手にしていると、互いに飽きてしまいましてな。こちらは一族の正家と申す者ですが」


 正家、と呼ばれた武士が小さく頭を下げた。


「常陸に入られると言う、あの」


「陸奥守様が陸奥に戻られる際に、途中までご一緒したいと思っております」


 正家は、正成よりさらに少し小柄で、痩せていた。そのせいか、若干老いても見えるが、実際には正成よりは年下なのかもしれない。


「正家、少し出ていてくれるか」


 二人きりで話したい、と言う空気を感じ取ってくれたのか、正成の方からそう言ってくれた。正家は何も言わずに頷き、仮小屋から出ていく。

 正成は一度碁盤の上に並んだ石を片付けて行く。勇人が見る限りでは、中途の盤面は互角だった。

 碁の打ち方は随分昔に祖父に教わったきりだった。ちゃんと勉強した事など一度もない。


「六百年で、打ち方の作法が変わっていなければいいのですが」


 碁盤を挟んで正成の反対側に座りながらそう言った。将棋は時代に応じて駒やルールが大きく変わっていったと言う話を聞いた事があるが、囲碁の場合はどうなのかあまり良く勇人は知らなかった。


「何、囲碁の極意はその単純さにあります。例え時代が移り変わっても大本がそう大きく変わる事はありますまい」


 そのまま二人で碁を打ち始めた。その場には酒も置いてあったが、正成はそれを勧めてくる事はせず、勇人も気にも留めなかった。


「それで、話と言うのは?」


 数手を重ねた後、正成の方からそう切り出した。


「先日、顕家様と親房様が主上、そして五辻宮と言う人物と会って話されました」


「それは、存じております」


「正成殿は、主上の理想に付いてどうお考えなのですか?」


「以前に語った通りでございますよ、それは。正成はただ主上の臣でございます。心中にどのような理想を抱かれておろうとも、ただ下された命に従います」


 正成は穏やかな表情のまま答えた。


「理想の中身には何の興味もない。そうも聞こえてしまいますが」


「そう受け取られても、仕方ありませんな」


「誰がどのような志や理想を抱いて政や戦を行おうと、意味は無い、とお考えですか」


「それぞれに高い志や理想を抱いた者達が戦い合い、血を流し合う。その一方で、人の愚かさは、決して消えないのではないか。最後に残った勝者の志も、いつしか人の愚かさに呑み込まれてしまうのではないか。その後ろ向きな考えは、拭いようもなくあります。しかしこれは正成一人の考えであり、上に立つ方々の理想を否定する気はございませぬ」


「もし理想に興味が無いのであれば、主上から離れ、顕家様の臣になられませんか?」


「恐ろしい事を、あっさりと言われますな。やはり時代が変われば、人も変わる物ですか」


「それなりに思い切って、言っています」


 楠木正成の思考を凌げる者はいない。だからこの男が一度考えて結論を下した考えを、言葉を重ねる事によって変える事が出来る者はいない。

 小夜や親房はそう考えているのだろうし、恐らくそれは間違ってはいない。

 だから勇人も、最初から理屈で正成を説得しようとは思っていなかった。


「正成殿がここに至るまでどんな戦いをされ、どれほど苦しんで来られたのか、そして何故それほどの虚無の中におられるのかは、僕には分かりません。ただ分かるのは、僕の知っている歴史だとこのままだと遠からずあなたも小夜も戦の中で死ぬと言う事だけです。あなたは自分の命などもうどうでもいいと思っておられるのかもしれませんが、どうせ捨てたつもりの命なら、小夜のために使ってほしい。そう思ってここに来ました」


 一気に言って、息を吐いた。正成が碁石を掴んだ手を一瞬止め、考え込むような顔をする。目は、碁盤に向いたままだった。

 自然と、勇人は自分の事を僕、と言っていた。正成を相手に語るのに、自分を飾るのは無意味だろう、と分かっていた。

 正成はそのまま沈黙を続ける。堪え切れずまた勇人が口を開こうとした時、正成は止めていた手を動かし、碁石を打った。静寂の中にその音だけが響き、そしてそれが消えて再び静寂が訪れた後、正成は口を開いた。


「まず、この正成にそれほどの価値があると本気で思われているのですか?」


「あなたが楠木正成だと言うただそれだけで」


「陸奥守様とも顕家様とも言わず小夜と言う名を使われた。つまり志も身分も関係無く女一人を救うためだけに力を貸してほしい。そう言われているのですな」


「はい」


「確かに当に捨てたような命ではございますが、それを他人のために使え、と、いきなり言われても承服は致しかねますな」


「それは、当然です」


「あの方の何がそこまで建速殿を動かすのか、お聞きしても?」


 語りながら、互いに碁を打つ腕は止めていなかった。言葉の合間に、時折碁の音が響く。


「色々あります。ここに至るまでの僕の人生や、彼女の人柄や、能力、志、この時代の事。それこそ語り尽くせないほど、色々。ただそれら全てただ言葉を飾っているだけだと思って一言で言えば、惚れたが悪いか、としか」


 はっきりそう口に出すのは初めてだったが、意外と抵抗も照れも無くその言葉は出た。

 嗤われるかと思ったが、正成は小さく頷いただけだった。

 とても身勝手な事を喋っているが、それでも正成は真剣に自分の話を聞いてくれている、と言うのは分かった。こんな言葉で正成の心を動かせているのか、分からない。

 ただ少しだけ、目の中に光が見える。そう思えた。


「二つだけ、お伺いしたい事がございます」


 互いに三手ずつを沈黙の中で打ってから、正成はまた口を開いた。


「何でしょうか?」


「およそ六百年先のこの国から来られた。そこに嘘偽りはございませぬな」


「はい」


「その六百年先では()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」


「え、ええ」


 正成はどうしてだか、突然そんな事を尋ねて来た。質問の脈絡の無さに戸惑いながらも、勇人は頷いた。


「そうでございますか」


 正成が目を伏し、ほんのしばらくの間考え込み、そしていつものように小さく頷くと、目を開いた。

 その時には、一瞬、目の中に見えたと思えた光は、消えていた。


「申し訳ありませぬが、買いかぶりでございますよ。それがしが陸奥守様のために出来る事は、ございませぬ」


「そんな事はないはずです。正成殿であれば」


「いえ、それがしはやはり、このまま主上の一臣下に徹する事に致します」


「このまま終わるのは、あまりに虚しいと思うのです。正成殿があの子と一緒に歩めば、それできっとこの国の歴史は」


 気付かない内に立ち上がり、踏み出していた。しかし、そこで勇人は言葉に詰まった。

 こちらを見上げる正成の目は、光が消えているだけでなく、いつのまにか先ほどまでよりもずっと深い悲しみと諦めに満ちていた。そこには勇人に対する憐れみと優しさも入り混じっている。

 それを見ると、もうそれ以上言葉を出す事も、踏み出す事も出来なかった。

 自分は何か、とんでもない間違いをしてしまったのではないか。


「この国が六百年先も続き、その時代は今よりは平和で豊かである。そしてその時代も帝の血と地位は途絶える事無く続いている。建速殿を通してそれが知れただけで正成にはもうそれ以上望む物はございませぬよ」


「だけど、このままじゃ小夜、は」


 それだけをどうにか勇人は口から絞り出した。


「安心めされよ」


 正成が横に小さく首を振った。


「陸奥守様をお救いするのに、それがしの力などは不要でございます。建速殿が、救われる事でしょう。それは、この正成が保証いたします」


「何故、そんな事が分かるのです」


「大丈夫です。大丈夫」


 正成の言葉と目は、どこまでも優しかった。やはり、勇人はそれ以上の言葉に詰まった。そして、碁石の音だけが、また響く。

 何かを、決定的に閉ざしてしまった。そんな気がした。

長かった第一回征西編も次回でおしまいの予定。

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