5-11 足利直義(3)
「ご無事ですか、兄上」
直義は尊氏に馬を寄せた。尊氏は馬を御す事すらほとんどせず、呆然とした面持ちで前を見詰めている。どこかに傷でもおったのか。
「義貞は」
「は?」
「義貞はわしを討とうと思えば討てたのに、わざと太刀を緩めた」
尊氏が直義の方は見ないままにそう言った。
「馬鹿な」
「しかもあやつはこう言った。光厳上皇を擁して院宣を手に入れ、錦旗を上げよ、と」
そう語る尊氏の唇はほとんど動かず、ただ震えるように見えただけだった。しかし、声だけははっきり直義の耳まで届く。
「義貞がそう言ったのですか。それでは我らに今の帝に対抗してもう一人の帝を立てよと言っているような物ではありませんか」
自分で口に出しても何を言っているのか分からず、直義はまた、馬鹿な、と繰り返した。尊氏が錯乱して義貞の言葉を聞き違えたか、あるいは義貞の謀略か。
「聞き間違えではない。義貞の奴ははっきりとわしにそう言った。それも、鬼気迫る悲壮な表情で。そして例えどんな企みであっても、朝廷を利用した謀略を仕掛けるような男ではない、あやつは」
直義の心を読んだかのように尊氏が言った。いや、気付かない内に、口に出していたのかもしれない。それほどに直義も混乱していた。そして尊氏の方はやはりわずかな間に立ち直り、冷静そのものの表情になっている。
「では、誰かが義貞に入れ知恵を?」
「誰に命じられてもあのような事は言うまいよ。ただ一人を除けば、だが」
尊氏は敢えてそれ以上は口には出さなかった。直義も言葉に詰まる。
「しかし光厳上皇を担げ、か。とんでもない事を言う物だ」
光厳上皇は元弘の乱で一度後醍醐帝が失脚した際に鎌倉幕府によって立てられ、その後、建武の親政によって廃立された帝だ。元々、後醍醐帝の系統である大覚寺統と長年帝位を巡って争って来た持明院統の出で、両者の中は険悪である。
「一体、何の考えがあって?」
「分からん。だが言われてみれば上手い手ではある」
「何を言っておられるのです。まさか義貞が言った通り、我らで光厳上皇を擁立されるおつもりですか。どう考えてもあちらの謀略では無いですか」
「直義、わしらは負けたのだ。賊軍の地位に落ち、完膚なきまでに、負け、全てを失った。今いる所が最も悪い所であるなら、そこから這い上がるためにどんな事でもしようではないか。今より、悪い事にはなるまいよ」
尊氏は冷静を通り越し、すでに高揚しているかのような口調だった。
「しかし我らが光厳上皇を立てれば、朝廷が二つに割れるどころか、最後には本当に天下に帝が二人、と言う事になりかねません。いや、間違いなくそうなるでしょう。そうなればこの戦乱を収めるのが難しくなります」
帝が二人、と言うのがどういう事なのか、未だに半ば混乱する頭で考えながら直義は喋っていた。
今はまだ、形としては帝が自分の下に尊氏が幕府を開く事を認めるかどうか、と言う争いだった。なので例えば新田義貞を討ち取るなどして帝を追い込めば、今からでも和睦は出来るだろう。
だが、この戦乱の中で光厳上皇を擁立すれば、二人の帝の内のどちらが最後に立つか、と言う争いになる。そうなった時、あの帝が早々簡単に退位する事を肯ずるとは思えなかった。鎌倉幕府によって隠岐に流されても、そこから逃げ延びて再び立ち上がったような人物なのだ。
恐らく、どちらにとっても引き返す事の出来ない戦いになる。
「とことんまでやってみるのも、それはそれで悪くはないではないか。今の負けで、わしはそう思い始めている。朝敵になったのであれば、いつまでも義貞だけを敵とする建前を通すのも、逆に帝には非礼であったかもしれん」
「兄上、あるいはすでに同じ事を考えておられたのではありませんか?我らが負けたのは錦旗が無い賊軍であったからで、光厳上皇を擁すれば次は勝てる、と。しかし今の帝への遠慮から、口には出せなかった事を何故か向こうから言って来てくれたので、渡りに船だと」
「時折はわしの心も良く読むな、直義」
「からかわないで下さいますか」
そう言いながら直義はわずかに奇妙な虚脱感に襲われていた。虚脱感。いや、無力感かも知れない。
唐突に光厳上皇を擁立せよと勧めてくる新田義貞とその背後にいるであろう帝の真意も、それに敢えて乗ろうと言う尊氏の事も、自分にはまるで理解出来ない。
尊氏には計り知れない所がある、と思っていたのは以前からの事だが、今はそれを通り越して、尊氏と帝の二人だけが本当は自分達とは全く別の所で別の戦をしているかのように思えて来たのだ。
そこには不気味さ、と言ってもいい感覚も混ざっていた。遥か昔の子どもの頃に兄に感じて、ずっと忘れていたはずのその感覚がにわかに蘇っている。
「兄上」
「何だ?」
全ては武士達の、そしてその下にいる天下の民のための事と思って良いのですね。そう訊ねようとしたが、中々口からその言葉が出てこなかった。
この兄はどこかで壊れている。だからこそ自分には到底及びも付かない事が出来る。それは間違いない。
だがそうしてこの兄が最後に成し遂げる事は、本当に正しいのか。
「おう、見よ。迎えが来ているぞ」
直義が口ごもっていると、尊氏が先にそう言った。そう言われ、直義も進む方向を見やる。赤松円心の手勢が来ていた。あの敗戦の混乱の中で一早く戦線を離れ、後方に下がっていたのだろう。
赤松円心の領地は播磨にあり、京から西への地盤は目に見えない所で固い。
「さすがに早いな。やはり丹波の方で一度落ち着くか。次は西国まで落ち延びて兵を整える事を考えねばならんだろうが」
「丹波で我らが旗揚げした時よりも今は兵が減っていますな」
尊氏が呑気な口調で呟き、直義も冗談を交えた皮肉で応じた。尊氏が豪快な笑い声を上げる。
その兄の笑い声を聞き、自分はこの敗戦で動揺しているだけだ、と直義は思い直そうとした。
尊氏を自分が理解し切れないのはいつもの事だった。理解出来ないからと言って、間違っている訳ではなく、最後はこの兄の方が正しい。それも、いつもの事だ。自分は、大きな所ではずっとこの兄を疑わずに従っていればいい。そう自分に言い聞かせた。
「何、わしとお前さえいればこの先も兵はいくらでも集まろう」
笑い声を収め、尊氏が言った。ぼろぼろになった具足姿だったが、こちらに向けられている目だけは爛々とした輝きを取り戻していた。
何とか間に合いました。
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