3-7 建速勇人(3)
「数は分かるか、楓」
師行が静かな声で言った。
「二十人ぐらい?」
「その後ろに気配を隠しているのが三十はいる。前の二十は前衛だな」
「何でそこまで分かるのかねえ、師行さんは」
「数の割に上手く潜んでいる。しかし忍びではないな。相当に鍛えられた武士だ」
「この辺りにそんな気になる武士の集団はいなかったはずだけど、ね」
「あの、何が?」
そんなやり取りをしている二人の会話に割り込んだ。師行はわずかに勇人の方を見ただけでまた斜面の下へと視線を戻した。
「いつの間にか正体のわからない五十人ぐらい、しかもかなり質が良さそうなのに囲まれてるって話」
楓が肩を竦めながら答えた。
「それはそれは」
そう答えながら勇人はどこかで醒めて行っていた。一度の斬り合いで度胸が付いたのか、それとも五十人と言う数相手に開き直っているのか。
「それで、どうするんだい?」
「今考えてる所」
「囮として一人走ろう、などと考えるなよ、楓」
師行が視線を動かさないまま言った。
「五十人だが細かく斥候を出している。こちらの位置や人数は完全につかんでいるぞ、奴らは」
「案内を引き受けた以上私にも三人を無事に帰す責任があるからさあ」
「貴様一人でどうにか出来る相手では無い」
「師行さんがそこまで言うとはねえ」
余裕を取り戻しているのか、また楓は笑いを浮かべた。
「何か僕に出来る事は?」
「無い。何もするな」
師行の勇人への返答は予想通りだった。むしろ返事があっただけ、まだ相手にされていると思うべきか。
「降りるぞ」
師行は驚くほど無造作に斜面を降りはじめた。しかし、張り詰めている。息が詰まる程に、この場の空気は張り詰めている。師行の動きに対して、目には見えない周囲の兵が反応して動いている、と言うのが勇人にも分かる程に、張り詰めているのだ。
勇人も五郎も咄嗟に動けず、楓すらも虚を突かれたのか師行に続くのが一瞬遅れるほどに張り詰めた空気の中、それでも師行は平然と斜面を下って行く。
どうにか五郎を促し、勇人は二人に続いて斜面に降りて行った。頭は醒めているが、息苦しく、口の中はからからになっている。
「楓」
「ほい」
「ぎりぎりだと思った所で口を開け」
それ以上は師行は何も言わなかった。楓も小さく頷いただけだ。
斜面を降りた先には、十人ほどの武士が固まっていた。
先ほど斬り合った武士達よりも、遥かに質がいい。それは、勇人にも一目で分かった。具足は簡素だが武器は揃っていて、無駄な動き一つせず、こちらに向き合っている。そして正面に固まる武士達以外からの気配も、僅かに感じる。
中央にいるのは、まだ若い武士だった。勇人より二つか三つ年上、と言う所だろう。髭も無く、涼しげな顔をした男だ。そして武士達の中で一際華美な具足を付けている。その武士の具足を見て楓が小さく舌打ちをした。何だろう、と思い勇人も見返してみれば、具足に正三角形を三つ組み合わせた家紋が入っている。
三つ鱗。北条家の家紋のはずだった。戦国時代の後北条家も使っているもので、勇人にも見覚えがある。
「何者だ、お前達は?」
その中央の若い武士が口を開いた。落ち着いた声だ。
「俺は、南部師行だ」
師行は短く返答した。
「何、あの」
若い武士がわずかに息を呑んで呟く。周りの武士達も緊張して武器を構える。しかし、浮足立ってはいない。師行も先ほどと違い、無造作に踏み込んだりはしなかった。
師行でもこの十人を一人では相手に出来ないと言う事か、それとも全員を倒す前に残りの四十人が動き出すと言う事か。
「北条の武士が、ここで何をしている」
「この辺りに、我らと同じく関東から流れて来た武士達がいると聞いた。手勢に加えられないかと思ってな」
「その連中はたった今、斬って来た所だ」
「そのようだな。斥候から報告は受けている」
「ならば敵と言う事になるな。戦うか?」
「たった四人、それに女子どももいるではないか。戦いになるとは思わぬ」
「試してみるか?」
「やめられよ、南部殿。無駄に死ぬだけだ。大人しく、降られよ。兵はまだ伏せている。一人で五十人と戦える訳でもあるまい」
「だから、それを試してみるか、と言っている」
「話に聞く通りの凄まじい武者である、と言う事は分かる。この十人全員が瞬く間に斬られるのではないか、と思えるほどに。だが、半数を斬った所で周りの伏せている兵達があなたの首を取る」
会話をしながら、師行は少しずつ気を込めて行っていた。それが分かるのか、相手の武士達も緊張の度合いを強めて行っている。しかし、隙は無い。
師行がごく自然な動作で剣を抜いた。その剣先に気を集中させるのが勇人にも分かった。周りの空気が歪んでいる、と錯覚するほど何かが、その剣と師行からは滲み出ていた。夏の暑さの中にいると言うのに、冷や汗がしたたり落ちて来る。五郎が尻もちをついた。勇人も思わず態勢を崩しかけていた。若い武士がさすがに顔色を変え、片手を上げると何か指図しようとする。
「あの」
その極限まで緊張した空気を断ち切るように楓が口を開いた。軽い口調だが、この空気の中で声を出すのは彼女に取っても尋常な事では無かったのか、一度大きく息を吐いてから言葉を続ける。
「上で死んでる人達、全然大した事無かったよ?正直、仲間に加えた所で、足を引っ張る事にしかならないぐらい、あなた達とは質に差があった。その人達のために、わざわざここで犠牲が出る戦いする事は、無いと思うんだけど。偶然ぶつかっただけみたいだし」
突然割り込んで来た楓の言葉に、若い武士は毒気を抜かれたような言葉をし、それからわずかに噴き出した。
「そうか、全然、大した事は無かったか」
「うん」
若い武士もやはり冷や汗を流しており、どこかほっとしたような顔で首を振る。張り詰めていた空気が、それで切れた。
「分かりました。ここは我らが道を開けましょう。敵同士ではあるかもしれないが、確かにここでぶつかってしまったのはただの偶然なのだ。こんな所で貴重な郎党の命を失いたくは無いし、仮にここであなたの首を取った所で互いに名を落とすだけでしょう」
表向きな動揺は見られなかったが、仮に、と付け加えた所に、師行に気圧されていた相手の心が滲み出ていた。そのまま手で指図すると、周囲の武士達が戸惑った顔のまま、しかし一瞬の逡巡も無く武器を降ろし、道を開ける。本当によく鍛えられた兵達だった。それを見て師行も剣を下げ、堂々とその武士達の間を通って行く。しかし勇人と五郎は動けなかった。楓は、尻もちを付いたままの五郎を立ち上がらせようとする。
「貴様、名は?」
途中で師行が振り向き口を開いた。楓が意外そうな顔をする。
「北条時家」
「北条の一門か」
「北条泰家の子です。庶子ですが」
時家、と言うのは勇人には覚えの無い名前だった。自分が知らないだけか、それとも歴史に名すら残さなかった武士なのか。
「次は戦場で、互いに軍を率いて」
時家はそう言ったが、師行は不機嫌そうに正面に向き直っただけだった。時家が鼻白んだような顔をする。
「何故、戦うのですか?」
気が付けば勇人はそう声に出していた。この場に自分が割り込んでいいのか、と言う躊躇は無かった。一瞬前まではここで自分が口を開く事を考えてすらいなかったはずなのに、今はこの時家と言う男と話さなくてはならない、と言う思いが抗いがたく湧き出している。
時家がまた虚を突かれたような顔をし、勇人の方に向き直った。
「そこもとは?」
「建速勇人と言います。陸奥守様にお仕えしています」
小夜の元に付いている武士達以外にこう名乗るのは、思えば初めてだった。
「建速、か。何故戦うかとは妙な事を聞くな。我ら北条の一門を朝敵に定めたのは今の帝の勅命では無いか。であるならば陸奥守殿に従うそこもとらとは敵同士になるのが道理であろう」
「今鎌倉では北条時行殿が兵を挙げておられます。北条一門にとっては乾坤一擲の挙兵だったはず。何故その時に東北の地におられるのです?」
「あの軍勢では鎌倉を取る事は出来てもそれを保つ事は出来ない。西園寺殿と組んだのが間違いであった。足利兄弟に利用されるのが関の山だろう。時行殿にもそう進言したが、あの若君の周りには戦の分からぬ者と未だに鎌倉幕府内部の権力争いの癖が抜けておらぬ者が多くてな」
「この先は足利と朝廷の戦いになる、と言う事を見通しておられるのですね」
「何が言いたいのだ?」
時家は真っ直ぐに勇人を見通して来た。その眼には庶子ではあっても北条執権と言う時の権力の中枢で育てられた事から来るであろう怜悧な知性と、武士としての荒々しい誇りが混じり合った光が宿っていた。
「すでに時勢は足利か朝廷かになっていて、北条もそのどちらかに付くしか無くなっている。そして時家殿はそれを分かっておられるのに、何故この東北の地で陸奥守様と争われようとするのか。そう言っているのです」
時家の周囲に控えている武士達の何人かが顔色を変えた。言い過ぎたか。そう思ったが、時家は静かに自分の部下達を制した。師行も楓も何も言わない。
「鎌倉幕府を滅ぼした朝廷に今更降れと?」
「そうは言いません。ですが寄って立つ旗も、仰ぐ大将もいないまま戦をしても、それはただの賊徒です。次に戦場で師行殿と出会っても、まともな戦にはならないでしょう」
「難しい事を言うな。時行殿の元で戦うだけでは足利に利用されるだけだとも思ったから、私は自分の戦が出来る場所を求めてここまでやってきた。それは認めよう。この先は朝廷と足利の天下争いになり、その戦いでは北条はどこまで行っても負け犬にしかなれない。それも認めざるを得ぬ。だが、朝廷の敵であり足利の敵でもある北条一族が、今更自分達の意地を見せる以外のどんな理由で戦が出来ると言うのだ?」
「意地を見せるだけであれば時行殿と共に鎌倉の地で踏み止まって何も考えず華々しく戦えばそれで十分だったはずです。失礼ながら時家殿はそのような戦で満足するにはいささか物が見え過ぎる方かと」
時家が腕を組んで唸った。
「貴様の郎党達は、貴様が北条の一族だから従っているのか。それとも、貴様自身に従っているのか」
それまでさほど関心も無さそうに黙っていた師行が口を挟んだ。
「北条である事を捨てろとでも?」
「そうは言わん。ただ、貴様の矜持が北条得宗の家と血以外の所にあるのならば、大将を選ぶ時に自分が北条である事に拘る事もあるまい」
それだけ言い、師行は今度は本当に時家から関心を失ったように、時家に背を向け歩き出した。時家は何かを言おうとしたが、結局黙ったまま腕を組んでいる。俯いているようにも見えた。
「差し出がましい事を申しました」
勇人はそう言うと、時家に頭を下げ、ようやく立ち上がった五郎を促し、師行に続く。
「五郎。今日は災難だったな」
五郎にそう声を掛けた勇人に、歩調を落とした楓が並んで来た。
「良く喋ったねえ、勇人さん。冷や冷やしたよ」
「言わなきゃいけないような事の気がした。自分が何を言いたかったのか最後は分からなくなったけど、代わりに師行さんが言ってくれたな」
自分が喋っていた事と、師行の心の中にあった事とは、それほど違いがなかった、と言う事だろう。
「あの人、勇人さんは知ってる人?」
「いや、名前を聞いた事も無いよ。もっとも、僕が知らないだけかも知れないけど」
「そう」
一度頷き、楓はちらと後ろを見る。勇人もそれにつられて振り返った。もう時家と配下の武士達は、姿を消している。
「師行さんは師行さんで初対面の人間にあんな事言うとはねえ。それだけ、何か響く部分があった、って事なんだろうけど」
「凄かったのかい、あの人。良く兵を動かすんだろうな、と言うのは、僕が見ていても何となく分かったけれど」
「多分、凄く戦は上手いと思うよ。師行さんや顕家様と比べられるかどうかまでは、私には分かんないけど」
「向こうが退いてくれなかったら、どうなってたかな」
「さあ?師行さんが槍だったら前に出てる十人とあの若大将ぐらいはどうにか出来たろうけど、剣だったし危ない所だったかもね。少なくとも私らは三人とも確実に死んでたんじゃないかな」
「槍だったらどうにか出来てたのか」
呂布か何かかよ、と勇人は口の中で呟いた。
「ただこけおどしじゃなく、向こうが退いてくれなかったらあの人は本気であのまま斬り合いに入るつもりだったと思うよ。相手もそれが分かったから私の言葉に乗って止まってくれた」
「早々いそうもない相手と、偶然ぶつかっちゃったんだな。無事に済んで良かった」
「本当にね」
そう言って、楓は足を止め、勇人の顔をじっと見詰めた。
「どうかした?」
若干たじろぎながら、勇人は訊ね返した。普段は軽薄さすら感じさせる笑顔が何よりも先に立つが、改めて見てみれば楓も十分美少女で通る顔立ちだ。
「今日ここに師行さんがいたのは、勇人さんを鍛えるため。もし勇人さんがいなければ師行さんとあの時家さんが今日ここで会う事は無かったし、多分あの人に朝廷に降るように説く事も無かった。そして勇人さんの知ってる歴史の限りでは、北条時家と言う名前は残ってない」
「なるほど。だからあの人を味方に付ければ、そこから歴史が変わるかも知れない、と?」
「さあ。太公望や張良じゃあるまいし、人一人にそこまで期待するのは間違いかもね。私には歴史がどう繋がって行くかなんて分からないし、勇人さんにだって分からないでしょう?」
「そうだね。それが分かるのなら、僕ももっとあの子に色々言ってる」
歴史って言うよりも人の命運かな、と、独り言のように楓が付け足す。
「本当なら、私みたいな下っ端の忍びが考えるような事じゃないんだけどね、こんな事。困った事に、私よりずっと頭がいいはずの当人が、いまいち真剣に勇人さんの意味を考えてくれてない」
「自分の命運なんてなるようにしかならない。どれだけ頭を使っても、最後の最後でそう考えちゃうんだろうな、あの子は。だから決断しなくちゃ行けない時に決断できる。だから戦争に強い」
君は数年後に合戦で死ぬ、と伝えても、それを平然と受け止めてしまうのだから厄介な物だった。もっともそれは師行や、あるいは目の前で会話している楓にしても同じかもしれないが。
「勇人さん自身は、自分がここにいる意味について考えてみた?自分が小夜の下でやるべき事について」
「あの子のために死ねればいい、と思ってるだけじゃ駄目だと言うのは分かり掛けて来たよ。ただ自分のいる意味、と言われると難しいな」
未来から来たのだった、自分は。ただの偶然なのかも知れないし、例えば神のような、何かしらの意思を持った存在が絡んでいる事なのかも知れない。ただ、今の所それを推察する材料はどこにも無かった。
「案外、悩む事は無いのかも知れないけどね。皆で必死にやる。それだけで、この先の事は勇人さんが知ってる歴史とは別の流れになったりするのかも知れない」
「君は、小夜のために死ぬ覚悟は出来てるのかい?」
必死と言う言葉は、彼女のような人間にとっては軽い物ではないだろう。
「私みたいなただのしがない忍びを、友達扱いしてくれてるからね、あの子は。勇人さんにはひょっとしたら分からないかも知れないけど、本当なら忍びをまともな家臣扱いする事すら、ああ言う身分の人間はやっちゃ行けない事なんだよ。いい悪いの問題じゃなくて、世の中がそうなってる。そんな中で、あの子は私達の方に自分から歩み寄って来てくれる」
「だから、それに応えるためにあの子のために死ぬ、と?」
「他に、あの子の気持ちに応える方法が何も思い付かないからね」
そこまで言って、楓はまた、いつものように笑った。
「ま、理屈を付ければそう言う事になるけど、突き詰めて見ればただ単に私は小夜が好きって事かな」
「哀しいな」
「ほほう、哀しいね。どの辺りが?」
「比喩でも何でもなく、好きな人間のために死ぬ、と言う言葉が当然のように出て来る君の生き方が、哀しい。君みたいな生き方をしてる人間が、ごく普通にいる今のこの国が、哀しい」
「勇人さんにそんな事言われるなんてね。初めて会った時とは、ずいぶん変わったじゃん?」
「初めて会った時の僕は、君には見てて辛くなるほど歪んで見えたんだっけ」
「自分がこの世で一番哀れだと思い込んでるようにも見えたよ」
「否定は出来ないなあ。今でも、そう思ってるかもしれない」
自分はこの時代に来た時と何も変わらず、哀れだろう。ただその哀れさは、人と比べるような物ではない、と思えるようにはなった。言葉にしてしまえば当然の事だが、そう思えるようになるまで、随分時間が掛かった物だった。
そしてまた時間が経てば、自分にとって自分の哀れさは今とはまた別の物になっていく。そうしている内にいつかは自分で自分の事を哀れだとすら思わなくなるようになるのかは、分からなかった。
会話をやめ、楓が歩調を速めた。気付くと師行は一人、随分先を歩いていた。しかしほんの少しの間に、楓もそこに並ぶ。
楓は、師行の側が心地いいらしい、と勇人は思った。