10-13 建速勇人(5)
河内赤坂村。
そこの山中にある寺だった。
小さく、しかし最近建てられた物であるのが分かる。
楠木正成は倒幕の戦が終わってから湊川で死ぬまでの間、大小様々な寺を建てていた。
そんな寺の中の一つだと言う。
奥州軍は河内の楠木領に入っていた。
小夜が河内に軍を移動させた理由はいくつもあるだろう。
その全てを理解しよう、とは勇人は思っていなかった。
ただ、理由の中に、後醍醐帝の身柄を一番安全に確保できる土地だ、と言う事があるのは恐らく間違いがなかった。
何しろ、相手が帝だった。奥州軍は建前としては官軍である。例え普通は裏切る事など無さそうな人間でも、帝が自ら囁けば、心が動かされる事はあり得る。
親房が治めている伊勢ですら、後醍醐帝の身を抑えておくには不安なのかもしれない。
寺は、一見すると静かだか、しかし周囲に異常な警戒が張られているのは、少し近付けば分かった。
外から姿が見えるのは、境内で掃き掃除をしている老僧一人だ。
その老僧は勇人に気付くと、一礼し、何も言わず勇人を寺の中に案内した。
勇人が腰に佩いている太刀を、見咎める事もしない。
中では、一人の男が筆を執っていた。
描いているのは、何か仏画のようだった。具体的に何の絵を描いているのかは、勇人には分からない。
「いずれ誰かは来るであろうと思っていたが、お主か」
後醍醐帝は筆を動かす手を止めず、こちらも振り向かないままそう言った。
しかし背後にいるのが誰かは、分かっているようだ。
「あの時は名乗る事もしませんでしたね。建速勇人と言います」
「良いな、お主は。実に良い」
「何がでしょうか?」
「朕の事を、畏れておらぬ。一応の礼儀は守っておるが、朕を本当は醒めた目で見ておる。ばさらともまた違うな。ばさらは実際の所朝廷の権威を恐れるが故に反発するが、お主は初めから朝廷の権威を何とも思っておらぬ」
「それを、否定はしません。だからこそ、ここに来たとも言えます」
「面白いな。誰も、朕を言葉では止められなかった。護良も、正成も、親房も、顕家もだ。そしてやって来たのが、お主か」
「止められる、とも思っていませんが」
勇人は後醍醐帝の後ろに胡坐を掻いた。
「では何を話しに来た?」
「さて。ただの恨み節かもしれません。あなたのおかげで、多くの人間が死に、色々な物が潰えた事への」
「多くの人間が死にはした。だが、まだ何も潰えてはおるまい。人が死に、新しい者が出て来る。それが世の常であろう」
「楠木正成殿や斯波家長殿の代わりになる人物は、そうそう生まれはしません」
「朕もかつてはそう思っていた。しかし本当は、もう生まれておるのではないか?」
「どう言う意味です?」
「楠木正成ほどの才を持つ者は朝廷にも幕府にもいなかった。しかし、千早城赤坂城の合戦の前に、誰が楠木正成の名前を知っていたのだ」
「同じように埋もれている者が、まだいると?」
「楠木正成すら、決して最初から何の力も持っていなかった訳ではない。低いながらも武士の身分であり、ここ河内の悪党として、自分の土地と兵を持っていたからこそ、世に出る事が出来たのだ。もし正成がもう少し低い身分であったなら、ただ一生田畑を耕して生を終えていたかもしれぬ。逆に、今その辺りで生まれの卑しさ故に、田畑を耕したり、魚を取ったり、辰砂を掘ったりして口を糊している者達の中に、正成以上の者がおらぬと、何故言い切れる」
後醍醐帝の口調には熱は無く、ただ淡々としていた。むしろ何か諦念のような物が、そこには込められている。
「北畠親房、具行、顕家、足利尊氏、直義、斯波家長、楠木正成、我が息子護良。天下を担うべし、と思った才を持つ者達は何人もいた。しかし本当はその者達と同じ程の才を持った者は、数えきれないほどこの国に生まれていたのではないか」
「そう言った者達を世に出すための戦であった、と?」
「最後にはそれが理想であった。血による支配も、土地による支配も、この国にいらぬ。高貴とされている生まれの者が本当に優れているなら、政がこれほど乱れ、腐るはずがないではないか。尊き血、等と言う物は幻想でしかないのだ。朕の血であろうと、その辺りにいる民草の血であろうと、血はただ等しく赤い。古から続いていると言う理由だけでこの国を縛る旧弊など、国を廃れさせるだけだ」
「それで全ての武士や公家をこの国から無くした後、どうなると?」
「真に才ある者がこの国を支配する時が来る。民の全てが高貴さなど本当は幻想だと気付いた時、そうなるはずだ」
「失礼ながら、主上は民と言う物に夢を見過ぎておいでです。例え武士や公家と言う物がいなくなっても、新たに政を行うようになる人間はまた権益に群がり、徒党を組み、階級を作り、すぐに腐り始めるでしょう。それが、人のさがです」
「そうかも知れぬな。政には必ず力が宿る。そして力は必ず腐敗する。だから朕も決して腐敗せぬ国など作れるとは思っておらぬ。だがそれでも、武士と公家と言う血筋だけで人の上に立つ者達を除ければ、この国は今よりはましになるはずなのだ。それは、例えどれほど痛みを伴う事であろうと、やらねばならぬ事だと思っておる。次に蒙古の如き物が襲来するまでに、な」
「この国には、この先少なくとも五百年は外国からの侵略はありません。そして武士と公家のいない世も、いずれ実現します」
「ほう?」
言い切った勇人に、後醍醐帝は初めて表情にわずかな戸惑いの色を混ぜた。
「何故、そうまではっきり言い切れる?」
「僕が、七百年先のこの国の人間だからです」
「朕がこの乱を始めてから、自分は未来を見る事が出来る、と言う怪しげな者達はそれこそ数え切れぬほど近付いてきたが、未来から来た、と言う者は初めてだな」
そう言う帝の言葉には、あざけりの響きは無かった。
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