10-9 南部師行
般若坂周辺の敵が、気に障っていた。
何が、と言う訳ではない。目立った大将はおらず、動きもごく平凡な寄せ集めの軍勢だ。
それでも総勢で五万近くいるので、こちらから何も考えずにぶつかりに行く、と言う訳にもいかなかった。
この程度の敵とぶつかった所でさほどの犠牲を出す気も師行は無かったが、それでもぶつかり合いに入れば、他で何か起きた時の反応が遅れる。
陸奥守は、主上は奈良坂周辺にいると見当を付けたらしく、全軍に奈良坂に集結してそこでの決戦に備える様にと言う命令が師行にも届いていた。
それも、やはり何かが引っ掛かった。陸奥守からの命令に違和感を覚えるのは、あまり無い事だ。
「僕が般若坂の敵の中を駆け回って見る、と言うのはどうでしょうか」
勇人も何かが気に掛かっているのか、そう進言してきた。
「五万を相手に二百で駆け回った所で、何が見えて来る物でもあるまい。何があってもすぐに動けるようにだけしておけ」
師行の旗本もここまでの戦でかなりの犠牲を出して、今は四百騎ほどになっていた。いずれは麾下の騎馬隊の中から優れた者を選んで補充する事になるだろうが、今は二百騎ずつを師行と勇人で率いている。
他に麾下として二千もいるが、それを今動かす気は師行には無かった。何もかもが、曖昧過ぎる。
「ですが、このまま外から見ているだけでは、どうにもなりません。いずれは奈良坂へと移動しなくては行けませんし」
「楓がいる」
師行は短くそう答えた。
「連絡がありません。あれだけの軍勢の中では、さすがに動きは取れないのでは」
戦場での自分の指示に勇人が言葉を返して来る事は珍しかった。大抵は自分で意味は考える。それだけ、今の状況に居心地の悪さを感じているのだろう。
「何か俺に伝えなくてはならない事があるなら、あいつは必ず伝えて来る」
それに対して、自分がさらに言葉を重ねる事も珍しい。
「分かりました。大人しく待ちましょう」
師行の返答に勇人は少しだけ相貌を崩し、頷いた。それから、北の方に視線をやる。
まばらに並ぶ敵陣が見えていた。
「桃井直常は、仕掛けて来ませんね」
青野ヶ原で激しく戦った二つの騎馬隊の内、片方の指揮官である。もう片方の指揮官であった土岐頼遠は師行が槍で貫いていた。
土岐頼遠はそれで死んだと言う噂も流れていたが、討ち取ったと言う感触は師行には無かった。ぎりぎりの所で体を捻り、胸を貫かれる事だけは避けていたのだ。
桃井直常はまた一千程の騎馬隊を率いて般若坂に出て来ていたが、今の所こちらに向かってくる気配はない。
「気にするな」
桃井直常が向かって来ないのは隙を伺っていると言うよりも、こちらが兵を減らすのを待っているのだろう、と師行は感じていた。
つまり見得のような物で出て来ているだけで、まともにこちらと戦う自信を失っている。
そんな相手に意識を割く気は師行には無かった。
「ところで」
師行の返答で桃井直常に関する興味を失ったのか、それとも元から話題を変える気だったのか、勇人はまた深刻な表情を作った。
「陸奥守様は、何か間違っておられるのでしょうか?」
「そんな事がここにいて分かる物か。陸奥守は陸奥守なりの根拠があって、奈良坂で決戦、と判断したのだろうからな」
陸奥守がどんな情報を得てそう判断したのか分からないのだから、それが間違っているのか正しいのか、などと言う無駄な憶測は、師行はしなかった。
ただ、何かが引っ掛かる。引っ掛かっている物が何なのか、勇人と話している内に師行は分かった気がした。
伊賀と奈良の境で主上を探すための戦を始めて以来、陸奥守は一度も自ら戦場に出てきてはいない。自ら戦場を見る事も、その空気を感じる事も無く、ただ部下達からの報告を聞くだけで、全てを判断している。
それが戦の大将として必ずしも常に悪い訳では無かった。自ら戦場に立たない方が、より広く冷静に物を見られる、と言う事はあるし、そう言った戦のやり方であれば、陸奥守は自分などよりもはるかに優れている。
しかし、自分が知る陸奥守は、ここぞと言う時は必ず自分で戦場に立つ大将だった。そして今は、この征西の中で最も重要な局面のはずなのだ。
自分が間違っていると感じているとしたら、それは陸奥守の判断ではなく、戦のやり方の方なのだろう。だから、陸奥守が目を配っていない般若坂の軍勢が、逆に気に掛かってしまう。
もし陸奥守が自ら奈良坂まで出陣し、その結果そこに主上と五辻宮がいると見極めたのであれば、自分はその判断に何の疑問も抱かなかったはずだ。
「戦場に出るのを、どこか厭うようになったか、陸奥守は」
ぽつりと口に出した。
「あれほどの方でも、戦に倦む事が?」
「恐らく本人も気付いていない、無意識の忌避だろうがな。狂う事も壊れる事も無く、殺し続けられる人間は、そうはいない」
勇人も、それで何が引っ掛かっていたのか悟ったようだった。元々、師行よりも陸奥守とは近しい人間である。
どんな武人でも、ある日戦場で人を殺す事に疲れ切る事はあり得る。そうなっても戦い続けられるのは、狂うか、壊れるかした、あるいは最初から狂い、壊れている人間だ。
陸奥守は、そのどちらでもなかった。
「何としてでも伊勢にお留めして、一度戦を止めるべきだったのでしょうか」
「戦に倦んだ心は、多少休んだ所で癒えんよ」
一人の兵であれば、自ら殺した人間の死を背負うだけでいい。それでも、本来は人を殺すと言うのは大変な事のはずで、それを戦であれば普通の人間でも出来るのは、それが一種の対等な殺し合いだからだ。
陸奥守は大将として、ここ数年、あまりに大勢の敵を、鮮やかに、時には一方的に殺し過ぎた。それで陸奥守が背負った物は、自分にも想像は出来ない。
何もかも陸奥守一人に背負わせ過ぎたのだろう。
それは、誰が悪い、と言う訳でも無かった。陸奥守が一人で様々な物を背負って戦える人間でなければ、そもそも奥州軍はここまで戦い切れなかったはずだ。
そして人を殺す事に何も感じないような人間であったなら、これほど多くの人間が陸奥守に命懸けで付いてくる事も無かった。
結局は、陸奥守と言う一人の人間が自分の器で天下と向かい合って来たのだ。
途中からそれを誰かが共に背負おうとしても、恐らく無理だっただろう。
自分がもっと大きな所で陸奥守に積極的に意見し、その役目を一部でも担おうとしていれば今より上手くいったか、と考えてみても、やはり無理だったと思わざるを得なかった。
戦に関しては、陸奥守以上の判断が出来た局面もあったかもしれない。しかし、もっと大きな所では、恐らく自分は滅びに向かおうとする人間だった。
例え潰えようとも、雄々しく戦う事さえ出来ていれば最後はそれでいい、と言う一面がどこまでも自分にはあった。それは実戦の大将としては良くても、それ以上の上に立つ人間としては危険な考えだ。
陸奥守とあまり戦以上の事を語ろうとしなかったのは、陸奥守にも戦人としてそんな素質はあり、そして自分が多くの考えを語る事で陸奥守のそんな面をさらに引き出してしまうのではないか、と言う憂慮もあったからだった。
ただ一人、陸奥守が背負っていた物を共に背負い、天下に向き合う事が出来たかもしれなかったのが、死んだ斯波家長だった。それも、今更考えても仕方が無い事だ。
陸奥守の今の状態がどうであろうと、自分がやる事は変わらなかった。
戦の目的を理解した上で、現場の状況に合わせて動く。それだけだ。まだ何が潰えた訳でもなく、自分達の動きで補える物も、ある。
勇人はまだ何かを言いたそうな顔をしていたが、それでもそれ以上は黙っていた。
半日、陸奥守からの集合命令を無視する形で般若坂に臨戦態勢で待機した。
一人、忍びがやって来た。名前は知らないが、楓の配下だ。かなりの傷を負っている。
般若坂から十里ほど北上している軍勢の中に、主上がいるのを確認したらしい。楓は軍勢の中に潜入中で、監視が厳しくこれ以上の伝令は出せないが、味方の軍勢が来たのを確認すれば合図を出す。
その忍びはそれだけ伝えると、血を吐いて死んだ。
それとほぼ同時に、陸奥守から新たな命令が届いていた。どうやら陸奥守も、般若坂に何かを感じたらしい。しかし、やや遅い。
楓の配下が命を賭して伝令に来た事を考えると、かなり状況は切迫していると考えるべきだろう。
「出陣」
短く、命じた。旗本の四百騎と、麾下の二千が動き出す。旗本は、最初から疾駆させた。麾下を見る見る引き離す。
先頭に、勇人が並んで来た。何も言わず、朝雲を駆けさせている。
やはり勇人も、状況は一刻を争うと感じているのだろう。
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