10-5 左近(2)
今までに陸奥守から暗殺の命令が出た事は一度も無かった。暗殺では天下を動かす事は出来ない、と言う確信のような物を陸奥守は抱いているらしい。
そして試みた所で、五辻宮は容易く暗殺出来る相手では無かっただろう。
影太郎は、諜報と暗闘を続けながら、ずっと機会を伺ってのかも知れない。
「陸奥守様から、暗殺の命令が?」
「いや。私の独断だ」
はっきりそう言い切った影太郎の口調に、今までこの男が表に出した事が無かったような強い覚悟を感じ、左近は息を呑んだ。
現場での状況に応じた判断、と言うのは今までもあったが、影太郎がここまで明確に陸奥守の指示を越えて動こうとするのは、初めての事だ。
「五辻宮一人を狙うと言うのは、陸奥守様のお考えとは合致していないのでは?」
何か危うい気配がある。そう思い、咄嗟にそう疑問を呈していた。
「そうだな。主上の企みを止めるためには、五辻宮一人を討つだけでなく、主上の手足となっている組織を殲滅する事が必要だ、と陸奥守様は考えておられるし、私もそれには同意している」
「では何故?」
影太郎の瞳に、昏い色が宿った。影太郎の瞳から感情が伺えるのは、いつ以来だろうか。すぐに思い出した。鎌倉で、一度は救い出した大塔宮を奪い返された時、だった。
あの時、影太郎の瞳は怒りと無念で燃えていた。
それが何故だったのか分かったのは、随分と後になってからだ。
鷹丸はずっと黙ったまま影太郎と左近のやり取りを聞いている。何か面白がっているような気配があった。
「世良親王の事は、知っているか?」
「ええ。主上の皇子の一人で、八年前に亡くなられたと」
直接会った事は無かった。左近が陸奥守に仕え始める前に死んだ人間である。
「親房様が心血を注いで次の帝たる人間として育て上げられていた皇子だった。あの方が生きておられ、そして親房様がその後見として力を振るわれていれば、朝廷の在り様は今とは全く別の物になっていただろう」
「その方が、何か?」
「流行り病で亡くなられた、と言う事になっている。流行り病だったのは確かだ。だが、ある所まで症状は軽く、快復されると周りの者は思っていた」
その言葉を聞いて、左近の背筋に冷たい物が流れた。
「まさか」
「本当は毒殺されたのだ、と私は思っている。皇子の死の直後、井戸に落ちて死んだ次女がいた。それが五辻宮と繋がっていた事が分かったのは随分と経ってからだったが。当時から五辻宮が暗躍している気配はあったが、親房様の敵と言う訳では無かったから、私は不審を感じつつも、事前に調べ切る事が出来なかった。迂闊に踏み込めば、主上をも敵に回す事になりかねなかったからな」
「それも、主上の御意思だったのですか?」
「違う、と思う。世良親王を自分の後継者から排除するのであれば、主上には他にいくらでもやりようはあっただろう。それにあの頃の親房様と主上は、表向きの動きは全く別でも、倒幕の後、朝廷が国を作り替える、と言う理想の元では一つであられたように思えた。今思えば、主上もまた世良親王であればあるいは全てを変えられるかも知れない、とお考えであったのであろう。それほどの、方だった。だから、世良親王を暗殺したのだとしたら、それは五辻宮の独断だ」
「何故、五辻宮は世良親王を?」
「邪魔だったのだろうな。主上にとって、ではなく、五辻宮にとって。主上が主体となって鎌倉幕府を倒し、それに伴って湧き上がる武士の不平不満や怨嗟を一手に引き受けられて退位なさる。その後、次の帝となられた世良親王が親房様と共に政で世を変えていく。それが理想の形だった。そしてそうなってしまえば、影で暗躍するだけだった五辻宮に出る幕は無い」
「五辻宮と言う人間は、何を企んでいるのです?主上の意に従い、影の組織を動かしているのではなかったのですか?いや、そもそも五辻宮と言うのは、本当の所は何者なのです?」
「亀山天皇の第五皇子である守良親王の子である事は恐らく間違いない。大覚寺統と持明院統の争い、そして幕府に翻弄されて所領を失い、流浪の身になった皇族だ。それが今のように、主上の影の力を取りまとめるようになった経緯は私にも分からぬ。ただ、何を考えているのかだけは、ずっと暗闘を繰り返す内に、見えて来た気がした」
「それは?」
「何もかも、滑稽だ。大覚寺統と持明院統の争いも、北条と足利の争いも、幕府と朝廷の争いも。そんな滑稽な物のために、自分は流浪の苦難を味わった。一言で言えば、冷え切った怨讐だ。世の全ての政に対する、冷淡で嘲弄じみた怨讐」
左近は、影太郎の語った言葉を、自分の記憶の中の五辻宮と重ね合わせた。
凄まじい剣技。妖気さえ漂っているようだった。しかし元は皇族と言う身分に生まれた人間だったのだ。
あの剣は、そこからはじき出された苦難の流浪生活の中で、その怨讐を糧に培った物なのか。
そしてその怨讐は、今どこに向いているのか。
「私は、忍びと言うものは主人の意思を乗り越えてはならない、と言う事をずっと昔から自戒にして来た。誰と戦うかを決めるのは主人に任せ、自分はどう戦うかだけ決めれば良い、と。その考えに基づいて五辻宮との戦いを避けたせいで、私は世良親王も大塔宮も死なせてしまった。それが、今のこの状況を招いてもいる」
「それは、気負い過ぎではありませんか。仮にそうだったとしても、それは大きな流れの中の、ごく一部の要素に過ぎないでしょう」
「実際には、そうなのだろうな。だが、それでもあるいは、と思ってしまう。私が自分の忍びとしての殻から踏み出せていれば、ここに至るまでに何かが大きく変わっていたのではないか、と」
「だから今、ここで踏み出す、と?」
「あの男だけは、始末出来る時に始末しておかなければ、状況はさらに悪くなる。私はそれに確信を持っているよ。それは朝廷とか幕府とかこの国の在り様などとは関係無い別の問題だ」
ここで五辻宮一人に的を絞って暗殺する事にどれだけの意味があるのか、左近はしばし考えた。
間違いなく、主上の闇の組織は混乱する。主上の身の安全の確保のために、新田勢との合流を一旦諦め、吉野に戻る事をするかもしれない。
五辻宮の次は主上自身の命が狙われるかもしれない、と向こうが考えても、おかしくはないのだ。
そこで膠着になれば、奥州軍ももう一度腰を据えて体制を整え直す事が出来る。
そして五辻宮さえ排除すれば、裏でもう一度、陸奥守や親房が直接主上と交渉して、どこかで折り合いを付ける事が出来るかも知れない。
そこまで求めるのは高望みではあった。しかし、確実に状況は奥州軍にとって好転するだろう。今は、疲弊しながらも戦いを続けざるを得ない、と言う状況なのだ。
「しかし、討てるのですか。あの男を、忍びだけで」
五辻宮をどう言った手段で排除するのか、と言う事について今まで検討がされなかった訳ではない。
討つのであれば戦場の中で討つしかない、と言うのは親房や影太郎が一度出した結論のはずだった。
「私が五辻宮の隙を突けるかどうか、と言う勝負なら、五分と五分になると思っている。つまり、賭けだな。失敗した所で些細な賭けだが、陸奥守様は許されまい」
「もし失敗すれば」
「私の後はお前が引き継げ、左近。陸奥守様の了承は得ている」
半ば予想通りの答えが返って来て、左近は息を吐いた。
左近と鷹丸、そして楓の三人はいつでも影太郎の後を継ぐだけの準備をしてはいた。ただ、実際に誰が引き継ぐのかは今まで決まっていなかった。
影太郎はそこまでの覚悟を決めている。そうであれば、もう左近には止める言葉は無かった。
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