10-2 建速勇人
奥州軍は伊勢へと転身したが、そこに留まる事はせず、伊賀へと移動した。
親房は伊勢で無理に大軍を集める事はせず、むしろ兵糧を始めとして軍勢を迎える準備をする事を主にしていたようで、伊勢は奥州軍の後方拠点として今の所十分に機能していた。
小夜がそのまま伊勢に軍を落ち着けなかったのは、伊勢を戦場にして乱さないためだろう。拠点として整っていると言う以外にも、六の宮がいると言う理由もある。
小夜は伊賀に入った後、消耗の激しい者や近隣の者達を一旦領地に返し、奥州軍を全軍で五万ほどの規模までにすると、その軍勢を細かく分けて伊賀を大きく動かないまま、小さな戦を二十日間ほど、伊賀や奈良で繰り返した。
まるで牽制のように、足利勢は京から伊勢、伊賀に向けて繰り返し小規模な軍勢を出し続けて来ている。
勇人自身も何度か他の武将に従って出陣したが、小夜はその無数の合戦の中で何かを見極めようとしているようだった。忍び達も裏で活発に動いていている。
小夜は忍びの動きに合わせて表の合戦を指揮している節もあり、何故そこを攻めるのか分からない所を何度か攻める事もした。
そんな時も、何故そこを攻めるのか、と敢えて尋ねる事はしなかった。説明されない事は、現時点で敢えて自分が知る必要が無い事だ、と勇人は割り切っている。
ただ、主上と五辻宮を探している、とだけは勇人にも小夜は伝えて来ていた。他の主だった武将達にも同じ事は伝えているようだ。
他には何も言わず、小夜はただ冷徹に戦場を見詰めている。
戦から戻った後、朝雲の毛づくろいをしていると、親房がやって来た。
勇人が戦に出ている間に、少数の兵を率いて伊勢から出て来たらしい。
「久しいな、勇人」
直接顔を合わせるのは、ほぼ二年ぶりである。
「はい。親房殿もご壮健のようで」
実際親房は、京で別れた時よりも元気そうに見えた。表には出していなくても、寒い陸奥での生活は、堪えていたのかも知れない。
ただ、瞳の奥に見える深い憂慮の色は、以前にあった時よりも増している。
「見違えたな。京での戦の時も最初に比べれば別人のようになったと思っていたが、今はまさに別人その物だ」
「そんな風に言われるのも、久し振りですね」
「ほう」
「皆は、僕が強くなるのに慣れてしまったようで」
「言うようになったものだて」
親房は磊落そうに笑うと、近くの石段に腰を下ろした。勇人も朝雲を世話する手を止め、それに倣う。
「小夜とは、話されましたか?」
「多少は、な。まあ、当たり障りの無い話ばかりだ。この先の事については、夜にまた影太郎なども交えて、だな」
「そのためにこちらに来られたのですか」
「本当なら小夜が伊勢に入って来るのを待つつもりだったのだがな。あやつは自分から伊勢に来る気はなさそうだ。せっかく準備を整えていたと言うのに、全く」
小夜が敢えて伊勢に入らないのはむしろそのせいもあるかもしれない、と勇人は思った。
親房が治める伊勢に入ってわずかでも休息を取れば、そこから再び軍勢を死地に赴かせる命令を下す事に躊躇いが出てしまう、と言う事が分かっているのだろう。
「戦は、直に仕上げの段階だな。ひとまずの、仕上げだが」
青野ヶ原で、奥州軍は二十五万の軍勢を打ち破った。
師行の旗本にすらかなりの犠牲が出たほどの激戦だった。その勝利に、大きな意味があったらしい事は、勇人にも分かっていた。
楠木正成も新田義貞もいなくとも、奥州軍単独で京の足利軍を駆逐する事は、決して不可能ではない。その認識を、足利の武士達にも、朝廷にも持たせる事が出来たのだ。
今奥州軍は伊賀に留まっているが、軍勢を休ませれば再び京に向かって攻め上り、今度こそ京を奪還して天下の趨勢を決するかもしれない。その危惧を本気で後醍醐帝と五辻宮は抱いているだろう。
だから、それより前にあちらは動くはずだった。
どう動くのか。はっきりとではないが、それも勇人には見える気がした。
密かに吉野を抜け出し、北陸の新田義貞と合流して帝は北陸にあり、と布告する。
それと同時に、奥州軍に北上して斯波高経の背後を衝き、自分達を救援するよう命ずる。
後醍醐帝自ら救いを求めているとあっては、どうあっても小夜は応じざるを得ない。それで動かなければ、奥州軍自体が瓦解する。
過去には何度か密かに幽閉先から脱出し、天下を驚かせた帝である。自分に同調している武士達の軍勢に紛れ、北陸にまで達する事は、邪魔をする者がいなければ難しくないだろう。
そう考えれば、今の足利勢の動きは、その後醍醐帝の動きを奥州軍の眼から隠そうとしているのだ、と言う所までは勇人にも予想が付いた。
「足利尊氏は、完全に主上の意に従って動いているのでしょうか?」
「どうであろう、な。影太郎達が必死に探っておるが、五辻宮の配下達は他の足利の有力な武士には働きかけておっても、尊氏と直義の周囲にだけは不思議とその気配は全く無いようだ」
「奥州軍の内部にも、これまでの所不思議なほど働き掛けは見えて来ていませんね」
「あの方は、結局この国を担うのは小夜かあるいは足利兄弟、と思っておられるのだろうな。小夜や足利兄弟を自分の望み通りに動く配下とする事は、望んでおられぬ。だから、尊氏も主上に取り込まれておると言うよりは、暗黙の内の同盟のような物なのだろう」
公家も武士も、本来は帝に従うべき物のはずだった。帝は、その古来からのこの国の権威を利用しながら、同時にそんな枠組みを破壊する事を望んでいる。
どこまでも奇妙な戦だった。
「ところで、わしがおらぬ間に小夜の事は抱いたのか?」
親房はいきなり話を変えてそんな事を聞いて来た。
座った姿勢だったと言うのに、それでも思わず上半身がぐらつき掛けてしまい、どうにか支え直す。
親房が楽しそうに笑う。
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