9.承章の3
約束の日曜日。
天気は文人の意を汲んだかのように快晴だ。すこし雲が空を漂っているが、悪さが出来るほど大きくはない。風も穏やかなので、天気の急変を恐れる心配も無かった。
文人は意気揚々と詩舞姫の池を訪れた。詩舞姫はそれなりに期待していてくれたらしい。文人がいつも来る獣道を正面に構えて、組んだ腕に顎を乗せて待っていた。
「どしたの? そのカッコ」
詩舞姫は文人の姿恰好を見ると、眉根を寄せた。文人は普段着の上に、袖のないマントの様な丸合羽を着ているのだ。確か購買で、銀一枚で売っているものだ。文人は問いに答えず、ただ含み笑いを浮かべる。そして詩舞姫の前に屈みこんだ。
「よし。じゃ行こうか。タライを出してくれ」
「行くってどこに?」
「あの山の天辺だよ。一昨日、行くのが夢って言っただろ? せっかくの休みだし遊びに行こうぜ」
文人は一昨日、詩舞姫が示した山の方を指さした。詩舞姫は悲鳴を上げた。
「はァ! アンタアタシの足見たでしょ! 無理よ無理無理! ていうかアタシ嫌だよ! 下手したら死んじゃうじゃん!」
詩舞姫は激しく首を横に振る。だが文人は余裕を保ったまま、合羽の中から一冊の本を取り出した。
「まぁこれを見てくれ」
「アンタ! エロ本アタシに見せて何しようってんの! ハ! もしや付きあえとはそういう意味で! アンタそんな目でアタシのこと見てたの!? 人気のないところ連れ込んで何しようってんのこの馬鹿!」
詩舞姫は水を蹴って、急いで反対側の縁へと逃げる。
「ちげーよ! エロ本じゃねぇよ! とにかくあの本の事は忘れろ! お願いしますから! いいからまずは、これを見ろって!」
文人は顔を赤くして喚く。そして本の表紙がよく見えるように、詩舞姫に突き付けた。詩舞姫は恐る恐ると言った様子で、その本を見た。それは「堺島ニテ」と題された、古びた本だった。文人は彼女が見たのを確認すると、手に取ってページをめくり始めた。
「いや便利なものが部屋にあってさ、この本は境島の名所をまとめた、観光案内みたいなものなんだ。あの山についても色々書かれていて、詳しい登山道や見どころなんかが、詳しく紹介してあるんだよ。天辺ついでにいろいろ見て回れそうだぞ」
文人は期待に表情を綻ばせる。だが詩舞姫には、それが能天気な笑みに見えた。何も分かっていない。詩舞姫は心の中で毒づく。彼女は不機嫌そうに鼻を鳴らし、腕を組んで拒絶の姿勢をとった。
「歩けねっつーの」
「俺に運ばせてくれ。濡れないために合羽着て来たから」
「ンな事したら干からびちゃうでしょ」
「昨日要所要所に、水を張ったタライを設置した」
「嘘つき。そんなお金ないでしょ」
「いやそれがさ、タライを探しに購買に行ったんだよ。したら盛男が発注量間違えたとかで、捨てるのをくれた。すごい偶然だよな。それ以前にどこに発注してんだか。聴いても教えてくれないから、甘えさせてもらった」
文人はそこで忍び笑いを漏らす。しかし詩舞姫の表情は依然厳しいままだった。
「じゃあ何? アンタに負ぶされっていうの? そんなにアタシとふわふ和風ゥ~したいの?」
「お願いもう虐めないで。なぁ、変な事はしないし、危ないと思ったり、水川が嫌だと思ったらすぐに引き返すからさ。頼むよ。付きあってくれよ」
文人は目の前で手を合わせつつ頭を下げて、必死に詩舞姫に頼み込んだ。詩舞姫は口をへの字に曲げて、じっと品定めをするように文人を見つめる。少なくとも文人は詩舞姫を、憂さ晴らしに使おうとしている訳ではなさそうだ。ファウストのように自分が楽しむため、他人を道具にしようとしているのではない。純粋に休日を、一緒に楽しもうとしている。
(醒める夢を見た所で……ねぇ……)
詩舞姫は胸の中で呟く。誰もこの島から、その宿命から逃げられないのだ。なのに夢を見た所で、惨めさが増すだけだ。(まぁいいや。付きあってあげよ)詩舞姫は我儘な子供をあやす感覚でそう思った。文人も一度火傷すれば、分かってくれるだろう。
「もしもふわふ和風ゥ~したら、ここでの余生を台無しにしてやるからね」
文人の顔が引きつる。
「あれぇ~……ひょっとして水川って、俺のこと嫌いのなの?」
「行くんならさっさと行くわよ」
詩舞姫は池の縁にあるタライに、水を張り始めた。
それから十数分後。文人と詩舞姫は、登山道の入り口に辿り着いた。場所は学校とは正反対の島の北側で、森を取り囲む道路に面していた。人の往来が滅多にないのか、登山道への入り口は、生い茂る緑に埋もれてしまっている。付近に立つ、『登山口』の看板が無ければ、誰もその存在に気付けない程だ。登山口周辺には、砂利で申し訳程度の駐車スペースが作られている。しかし雑草に覆われていて、全く意味を為さなくなっていた。
詩舞姫は絶句して、深い闇を蓄えこむ登山口を見つめている。文人は安心させるように彼女の肩を叩いてから、タライを雑草茂る駐車場の中へ進ませた。砂利を踏んでタライが揺れる。詩舞姫はその衝撃で我に返り、文人を振り返った。
「アタシ嫌になったんだけど……」
「入り口は草で覆われているけど、中はそれほどでもなかったから。一度見てから決めてくれ。頼むよ」
文人は入り口の前でタライを止めた。そして負ぶされと言わんばかりに、詩舞姫に背を向けて屈みこむ。詩舞姫は躊躇いに一拍おいてから、文人の背中に負ぶさった。文人は彼女の尻にあたる尾の腹の部分を、手で作った椅子に乗せて立ち上がった。
問題が二つ判明した。まず、詩舞姫の胸が文人の背中に当たっている。健全な男児なら、悦びに打ち震える事だろう。しかし詩舞姫は硬い貝殻のブラジャーをしている。
「貝のブラが痛い……それ取れねぇか……」
「ハイ一ふわふ和風ゥ~。後二回でアウト。和風に打ち首よ」
詩舞姫は文人の後頭部に優しくチョップした。もう一つの問題は、詩舞姫の尾が、手で支えにくい事だ。人間は足を腕で抱えるようにしておんぶする。しかし詩舞姫は尾なので、文人がしているように、手で作った椅子に乗せる事しか出来ない。これは疲れるし、股の間に詩舞姫の尾が入って歩く妨げになる。
「あと尾が持ちにくいです。紐で縛っちゃダメ?」
「アンタいい度胸ね。二ふわふ和風ゥ~。リーチよ。何が悲しくて干物みたいに、括られなきゃいけないのよ。ホラ無理でしょ。分かったら帰ろ」
詩舞姫は文人にしがみ付く手の力を緩めた。だが文人は歯を食いしばり、詩舞姫を持つ手に力を込めた。
「死ぬ気で頑張らさせて頂きます」
文人が前に進み始める。その足取りはしっかりしているし、腕も限界以上の力を出して、震えている訳でもない。無理をしている訳ではないのだろう。詩舞姫はやれやれと言った様子で、文人の注意をひくために尾をばたつかせた。
「仕方ないわね――抱っこしてもいいわよ」
「いいのか? その……俺なんかがやって。俺は全然平気だぞ」
文人は遠慮がちに聞く。そして自信を裏付けるように、詩舞姫を乗せる手の椅子を、何度か揺らして見せた。
「アタシは平気じゃないの。途中で落っことされるかと思うと、安心してられないわよ。つまんない意地張るならアタシ帰るわよ」
文人は頷くと、一度タライに戻り詩舞姫を水に戻した。そして詩舞姫の背中と、尾の膝下に当たる部分を抱え上げた。
今度の問題点はない。ブラジャーの紐である真珠が背中にあるが、避けることは出来る。尾もしっかり抱える事が出来るので安定する。欲を言えば、詩舞姫には腕を組まず、身体にしがみ付いて欲しい。だがそれは失礼だろう。
文人は思った。詩舞姫は信じてくれたから、ここまでしてくれたのだ。後は自分がしっかりするべきなのだ。
「おお! これはもちやすい! ナイス水川」
「へいへい。恥ずかしいから余りアタシの方を向かないで」
詩舞姫ははしゃぐ文人を余所に、若干顔を赤らめながらそっぽを向いた。彼女は両手の塞がっている文人に代わり、入り口を軽く塞ぐ枝を押し退ける。文人は出来た隙間に身体を捻じ込んで、登山道に足を踏み入れた。
文人の言った通り、登山道自体はさほど荒れてはいなかった。道自体は、子供二人が並んで歩けるほどの幅があり、地面は茶色の土が剥き出しになっている。両側は鬱蒼と生い茂る植物に挟まれており、ちょっとした圧迫感があった。そんな道が、曲がり角で見えなくなくる先まで、延々と続いている。
詩舞姫は不安を覚えたのか、無意識に文人の胸元を握りしめた。文人は詩舞姫が嫌だと言えるよう、少しだけその場で待っていた。だが彼女が何も言わないでいると、ゆっくりと登山を開始した。
登山道は木々の中を、縫うように続いている。日の光は葉に遮られて、僅かな木漏れ日が道を照らすだけで、全体的に薄暗い。それに両脇の森の奥から、鳥獣の鳴き声や、何かが草を揺らす音が、絶え間なく響いて来る。詩舞姫はそれを池の周りで聞きなれているはずだったが、ここのはどこか薄気味悪く感じた。詩舞姫は怯えを気取られぬよう、陽気に文人に話かけた。
「文人ってさ。外の世界で何してたの? やっぱ他の英雄みたいに、いつ因子が出て来てもいいように、準備してたの?」
文人は余り思い出したくないことを聞かれ、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「いや。何か突然刺青が浮き出して、英雄になっちまった。大変だったんだぜ。本当は別の学校に通うはずだったんだ。そこに行くために頑張って勉強して、なんとか合格したんだけど、登校初日にいきなり捕まった。何の説明もないままここに連れて来られた」
詩舞姫は言葉を失う。彼女は文人が挫折したことは無いと、勝手に決めつけていた。何も失ったことが無いと、馬鹿にしていた。そうでなければ、ここまで能天気に明るく振る舞えないと思ったからだ。詩舞姫は文人が分からなくなった。全てを失ってここに来た。そしてここでは何も望めない。なのに何故、どうして、何を頑張ろうとしているのか分からなかった。
ふと詩舞姫の脳裏に、初めて会った時に見せられた刺青がよぎる。因子が関係しているのかもしれない。詩舞姫の視線は、自分を抱き上げる文人の腕に注がれた。
「そう言えば、何の因子か分かった?」
今度は文人が言葉を失う番だった。冷や汗が噴き出し、咽喉を生唾が滑る。気取られてはいけない、唯一の秘密だった。一瞬文人は、詩舞姫には打ち明けようかと思った。詩舞姫には刺青を見せてしまった。口止めを含めて、本当の事を話してしまった方がいいかもしれない。
文人は詩舞姫を見る。彼女も文人を見つめていた。その表情には、文人の望む物の片鱗があった。文人を信じ、身体を預け、安堵に安らぐ顔。眼は微かな期待に、それまでにはない輝きすら窺える。もしも彼女が本当のことを知ったら、この顔はどうなるだろう。自らの人生を奪った悪魔に、瞳は濁り、顔は歪み、口からは悪罵が飛び出るのではないだろうか。
友達。文人は失うのが怖かった。
「それがさ、新しい因子みたいで、丸っきり分からないって。不安を煽るから誰にも言うなって言われた。詩舞姫も頼むよ」
声は友人を裏切るのに、少し震えた。だが詩舞姫は、それが何も分からなことからくる、恐怖によるものと捉えた。
「そう……分かったわ……伝承者がまた新しく作ったのかもね……」
詩舞姫は気まずそうに消沈して、もう何も言わなくなった。
一つ目のタライに辿り着いた。その場所は山の三合目辺りで、タライは森から突き出た小高い丘の上に乗っていた。文人はゴミ除けのタライのカバーを外す。タライには昨日汲んだ、清涼な水が張られている。文人は異常が無いのを確認してから、中に優しく詩舞姫を降ろした。詩舞姫は、タライの水をすくって行水を始める。少し乾き、色が薄くなっていた彼女の鱗は、すぐに元の鮮やかさを取り戻した。詩舞姫は行水する内に、タライの底にペットボトルを見つけて、それを持ち上げた。飲料水の様だ。まだ新しく口も切ってない。
「水が汚れていた時の非常用。それ綺麗だから、飲めるよ。どうぞ」
文人は音だけで察したのだろう。タライの横で「堺島ニテ」を読みながら、詩舞姫に言った。
「アリガト……」
詩舞姫はペットボトルの封を切って口をつける。しばらく水の外に出ていたので、喉がからからに乾いていた。詩舞姫は丘の上の眺めを楽しみながら、喉を潤した。
山はそれ自体があまり高くないので、三合目と言ってもそんなに上ってはいない。眼下に文人たちが入った、登山道の入り口が見えるほどだ。だが詩舞姫にとっては、新鮮な光景だった。何時も見下ろしているはずの港町や海が、ほんの少し視点が高くなっただけで別物に見える。それに空気も違う。森の湿り気を含んだ風ではなく、軽く乾いた風だ。詩舞姫は胸いっぱいにそれを吸い込んだ。陰惨としたものが抜け落ちて、胸が空いていく。久々に気分が高揚した。もっと高く昇ったら、どうなるのだろう。詩舞姫は熱心に本を読む文人を振り返った。
「アタシは準備オッケーだよ。文人が休み終えたらいつでも声かけて」
文人は「よし」と本を閉じる。そして詩舞姫に跪くと、彼女の身体を抱え上げた。自然と詩舞姫の手は、抱き付くように、文人の首の後ろに回った。
登山を再開してしばらく、今度は文人が詩舞姫に聞いた。
「水川は何でココに? 人魚姫って、その……恋をしなきゃダメなんだろ? してここに来たのか?」
詩舞姫は首を振った。
「アタシの因子はちょっと変わってるの。昔々ね、アンデルセンって根暗野郎が、人魚と恋に落ちたんだけど、悲恋に終わっちゃったのよ。それが余程ショックだったみたいで、神の文字を操って、人魚と人間が必ず悲恋を迎えるように因子で縛ったの。つまりアタシだけの問題じゃないの。人魚と人間の恋が問題なの。アタシは恋してないから大丈夫。死ぬまでここから出れないけどね」
「じゃあなんでここに? それに因子持ちって……」
「そのためにここにいるからよ。因子が発現すれば、何か分かるかもって、モルモットとして送り込まれたの。何時までも一族が昔話で縛られちゃ大変でしょ。眷属であるセイレーンとかも、男を誘惑できなくなって困ってるし。まぁ連中は誘惑したところで、最終的に殺しちゃうから、別にそれはそれでいいかもしれないどね」
意外な答えに文人の眼が泳いだ。文人も勝手に彼女が、因子に縛られていると思い込んでいたのだ。だが詩舞姫は、その暗い空気を笑い飛ばした。
「さっきアタシも地雷踏んだじゃん。これでおあいこ。それにこんな所にゃ、アタシに見合う男なんていないから、気でも触れない限り死なないわよ。辛気臭いのは終わりにしましょ。んで見どころあるんでしょ。どこよ」
詩舞姫は手の平でひさしを作り、辺りに視線を巡らせる。文人は昨日の下見で確認した、この登山道の見所を一つ一つ紹介していった。
登山道のある坂でおにぎりを転がすと、少し転がってから幻のように消え失せた。そして地面の下から、「おむすびころりん」と歌声が聞こえて来た。本によると、あのおとぎ話の末裔が、ここに越してきているらしい。
またある樹には、パンが実っていた。それは木にぶら下がっている時は、焼ける前の冷たいものだった。だがもいだ瞬間膨れ上がり、熱を帯びて、ふかふかの焼き立てになった。木の根元には、案内板が刺さっており、『語部文人へ。寄贈。バーバヤーガ』と記されてあった。どうやら文人のご先祖ゆかりの樹らしい。校長の言った通り、名前が自分に書き換わっている。詩舞姫はパンを頬張って喜んでいたが、その案内板を読もうと樹に目を向けた。そして間の抜けた顔になった。文人の焦りを察したかのように、樹は忽然と消え失せたのだ。
少し進んだ登山道の脇には、切り株でできたテーブルがあった。そこでは樵の小人が談笑を楽しんでいる。文人が気さくに手を振ると、小人たちは嫌そうな顔をせずに、応えてくれた。文人は少しそこで立ち止まって、話を聞かせてもらった。彼らはこの島で森番の役を果たしているそうだ。元々神界の住人だったらしいが、人間の信仰を失うことで、神と人のつながりも消えて帰れなくなった。小人の話によると、そんな仲間が、大勢この島で暮らしているそうだ。
文人は樵の一人に、白雪姫に奉公している、仲間のことを聞かれた。文人はすぐ、小人をお使いにやる女生徒を思い出した。その時の歪んだ表情も。主観的に見れば、あまり良好な関係ではなさそうだ。だが文人は、彼女と小人と因子を良く知らない。混乱させるようなことを言わない方がいいと思った。文人は分からないと首を振る。詩舞姫も同じ思いなのか、黙っていた。小人は少し残念そうに俯くと、仕事を再開するためにテーブルを離れた。