7.承章の1
この学校には四つのクラスがある。幼稚園以下が通う幼年部、小学生が通う小等部、中学生が通う中等部、高校生が通う高等部である。大学に相当するクラスはない。クラス辺り大体二十人の生徒を擁し、授業はクラス単位で行われる。当然クラスには学年と学力の差があるが、それは基礎と応用、発展を教え分ける事で対応しているそうだ。
文人は高等部の教室の前で、呼ばれるのをじっと待っていた。教室内から、司馬懿の熱弁が聞こえてくる。司馬懿は冷静な態度と裏腹に、熱い情を滾らせる教師のようだ。先ほどから「諦めず」「新しい人生」「夢を追いかける」などの単語が、教室の安そうな擦りガラスを揺らしている。だが教室内は司馬懿の熱を吸ってなお、冷たく凍えたままだった。やがて教室のドアが開いて、司馬懿が文人を手招きする。司馬懿はこめかみから一筋の汗を垂らし、お手上げのように額に手を当てていた。
「皆。昨日この島に越して来た、語部文人だ。仲良くしてやってくれ」
文人は教室に入り、黒板に自分の名を描く。そして生徒たちが座る背後を振り返った。
圧巻だった。和風洋風問わず、世界各国の民族衣装を纏った少年少女が、席に座っている。ぱっと見で分かるだけで、桃太郎、鬼の娘、お姫様、一寸法師そして狩人がいる。ある席には人の代わりに、巨大な鉄の棺が置かれている。吸血鬼かミイラが入っているのだろうか。教室の最後列では、輝夜と、水の張られたタライに座る詩舞姫がいた。輝夜は文人を無視したが、詩舞姫は手の平を文人に向けて、軽く挨拶した。
文人はその挨拶に勇気づけられた。校長の言う通り、何もかもが駄目になった訳ではない。眼が腐り、耳が潰れ、四肢が千切れ、舌をもがれた訳ではないのだ。自分には懸命に生きる力がまだ残されている。伝承者の因子だって、せっかく隠してくれたのだ。
精一杯生きよう。文人は腹から声を出した。
「今日からここに通うことになった、語部文人です。趣味はスポーツと読書です。皆さんと楽しんで生きていけたらなと思っています。よろしくお願いします」
司馬懿がすかさず拍手で花を添える。いい先生だ。だが生徒たちは白けた眼で文人を見た。中には露骨に睨む者もいる。詩舞姫はやらかした子供を見るように、顔を手で覆って指の隙間から文人を見ていた。
駄目か。文人の笑顔が軽く歪む。これ以上ろくな反応が無いと見たのか、司馬懿は教室の空いた席を示した。
「文人。空いてる席にどうぞ。では今日の授業を始める」
文人はおずおずと並んだ席の間を通り、空いた席である最後列から二番目へと歩いた。針のような眼でめった刺しにされる事を覚悟したが、その頃にはクラスメイトの文人への興味は失せていたらしい。全員が司馬懿と、その黒板に注視していた。
文人は自分の席に腰を下ろすと、隣に座る英雄をちらりと見た。先日男子寮の壁で、虚空を見つめていたあの狩装束だ。
「あ、これからよろしく」
文人の言葉に、狩人はうっとおしそうに、唯一見える目を細める。だがマフラーに埋もれた口元を、もごもごと動かして、軽い返事をくれた。
「ん。俺。照。ウィリアム・照。よろしく」
文人はこれ幸いにと、強引に話題を捻じ込もうとした。
「では教科書一二ページを開け。今日の歴史は、神と人間と神話の関係についてだ」
しかし司馬懿の声により、それ以上を遮られてしまう。照も授業に集中し、文人から注意を外した。これ以上は無理だ。文人も昨日渡された教科書を取り出して、指定のページまでめくった。
授業は私語も、よそ見も、妨害も無く、つつがなく進んだ。挙手も、質問も無かった。司馬懿が一度、何かを期待するように文人を見たが、そんな気にはなれなかった。
*
午前中の四限が終了した。昼休みだ。国語を受け持つケンタウロスが、蹄を鳴らしながら教室を出ると、英雄たちもぞろぞろと席を立ち始めた。文人は国語の教科書を机にしまうと、隣の照に声をかけた。
「なァ照。一緒に飯を食わないか? あれ?」
先程まで教科書をしまっていた、照の姿が何処にも見当たらない。ぐるりと教室中見渡しても、あの緑の狩装束はどこにもなかった。文人が照の姿を探している間にも、生徒たちの歩みは止まらない。みんな新入生に眼もくれず、そそくさと教室を出ていく。残された文人は、どうしていいか分からず、助けを求めて教室に視線を彷徨わせる。
すると照の更に隣の席の、女生徒が目に入った。彼女は肩の丸い、質素ながらも美しいドレスを身にまとうお姫様だ。黒檀のような黒い長髪、雪のように白い肌、そして林檎のように赤い頬。見た目で判断するなら白雪姫だろう。机に突っ伏して、気だるそうにしている。彼女はドレスの裾を摘み上げて、ヒールで床を蹴って鳴らした。するとスカートの中から小人が飛び出して、女生徒に深々とお辞儀した。小人は小柄な割にがっしりとした体躯を持ち、垂れた大きい鼻を持っている。背中にはツルハシを背負っており、嫌に小奇麗な作業着を身に着けていた。
「白雪姫。お呼びで?」
「呼んだから出たんでしょ。焼きそばパンよ。お願い」
白雪姫と呼ばれた女生徒は、財布から小銭を取り出すと、床に投げ捨てた。小人はそれを拾いつつ、白雪姫を見上げた。
「でも焼きそばパンが無かったら、どうするんでさ」
「食えりゃなんだっていいわよ。いいから行って。うっとおしい」
「合点でさ」
小人は小銭を抱えて、教室から飛び出していく。白雪姫は不愉快そうに小人の走る様を見つめていたが、そこで文人に見られていることに気付いた。口をへの字に曲げて、文人に向き直った。
「何見てんのよ」
「ごめん。初めて見たからつい……」
文人は慌てて眼を反らした。そして教室の端で、タライを漕ぐ詩舞姫に気付く。文人は逃げるように彼女の元に走っていた。
「詩舞姫。一緒に昼飯食おう」
「え!? 何でアタシが! 男子を誘いなよ!」
詩舞姫が素っ頓狂な声を上げる。文人は食い下がる。詩舞姫の背後に回り、有無を言わせずタライの縁を掴んで、廊下へと押し進めた。
「隣の照はどっかいっちまったよ。頼むよ。心細いんだ。タライでの移動は俺がするからさ。それに今日の飯代は俺が出すから勘弁してくれ」
詩舞姫は呆れたように口をあんぐりと開けて、文人を見つめていた。だが仕方なしというように相好を崩すと、それ以上何も言わずタライに身を預けた。
「しばらくだけだよ。それと食堂はこっち!」
詩舞姫は教室を出て右折した文人に、真後ろを指さした。文人は急いでUターンする。タライの中で詩舞姫が揺られ、軽い悲鳴を上げる。彼女は乱暴な文人の運搬に、罵声を上げた。
食堂は校舎玄関の対面にある、大部屋に位置していた。最奥部にカウンターと調理室があり、そこから炊事の音が聞こえ、腹に染み込む食べ物の匂いが漂って来る。食堂には長い机が八脚置かれ、机一つに付き椅子が六脚供えられていた。食堂は校舎から多くの人が集まり、雑踏が耳に心地よい。だが話し声はまばらで、その内容も雑談と程遠い、教師たちの業務によるものがほとんどだった。
文人は食堂に入ると、詩舞姫を近くの長机につかせた。そして戸惑う彼女の顔を覗き込む。
「取って来るから待っててくれ。何が食いたい?」
「え~っと。梅定食」
詩舞姫は聞かれて、咄嗟にいつも食している物を言う。それは学食の定番定食で、松竹梅あるうちの最低ランクだった。詩舞姫はタライで移動しているので、普通の人より場所を取るし、動きも鈍い。だから注文の列に並ぶことを自重して、残った梅の定食しか食べることが出来なかったのだ。そのようなことを知らない文人は、詩舞姫の注文に首を振った。
「俺が奢るんだから遠慮すんなよ。松取るぞ。ちょっと待っててくれ」
文人は机に詩舞姫を残して、列に並んだ。
この島で流通しているのは、宝玉石と、金貨、銀貨、そして銅貨である。理由は簡単。神の世界の住人の通貨もそれで、彼等と関わりを持つ境島も、それに準拠した次第である。文人はまだここの金銭感覚に慣れていないが、購買では五百円くらいのルーズリーフのバインダーが、銀貨一枚で売られていた。松定食は四半銀貨一分銀(半銀貨は銀貨を半分に割ったもの。それが四枚で四半銀貨。一分銀は半銀貨をさらに半分に割ったものを指す。銀貨一枚と半銀貨二枚では価値が異なる)である。半銀貨は五枚で銀貨一枚と両替してもらえるので、日本円に換算すると、大体四百五十円くらいだ。学生は月に一回、学校から金貨一枚を学費として渡されるそうだ。金貨一枚で銀貨二十枚と両替できるのだから、この奢りもちょっとした贅沢ぐらいですむだろう。
文人の番が来た。文人はカウンターで注文を取る、割烹着のおばさんに言った。
「松二つ」
きっとそんな注文をされたのは、初めてだったのだろう。おばさんは言葉に詰まった後、申し訳なさそうに言った。
「ごめんな。定食は一人一膳までなんだ」
「駄目かな?」
文人は親指で背後に並ぶ机の一つを――詩舞姫が待つ場所を指した。おばさんは詩舞姫が心配そうに文人を見つめているのに気付くと、納得したように二人分の代金を受け取ってくれた。
「待ってな。お嬢の分の御膳、持ってってやるからよ」
おばさんは松二つの注文を調理場に通すと、別のおばさんと入れ替わりに中に引っ込んでいった。文人は列の流れに従い、食事の受け取り口に歩を進める。しばらくして文人の分の松が出される。流石松だけあって、豪勢な膳だった。盆の上には、ご飯と吸い物、つけ物の小皿が少々。大皿には刺身と牛ステーキ、サラダが盛られていた。間を置かず受け取り口の隣にある扉が開き、そこから松の膳を持ったおばさんが出て来る。おばさんは真っ直ぐ詩舞姫の待つ机へと歩いていったので、文人もその後ろに続いた。
おばさんは詩舞姫のタライの上に御膳を乗せると、含みのある笑みを浮かべる。
「いっつも梅ばっかりだったから心配してたんだ。これからは彼氏に頼みな」
詩舞姫は真っ赤になった。タライから身を乗り出して、さっさと立ち去るおばさんの背に向かって叫ぶ。
「別にお金が無いから梅ばっかり食べてる訳じゃ無いのよ! ていうか彼氏じゃないし! おばさん聞いてるの! ねぇちょっと! 文人も何かいってよ!」
「ただからかわれているだけだろ。外じゃあんなの当たり前だよ」
詩舞姫は何か言いたげに尾で水面を打つが、そこで周囲に奇異の眼で見られていることに気付く。結局納得のいかない、唸りだけを上げるだけに留めた。
文人は箸を手に取って合掌する。詩舞姫もそれに倣った。二人は膳に手を付け始めた。
「どう? このガッコ」
詩舞姫は牛ステーキを頬張りながら、文人に聞く。
「友情が無い。努力も無い。従って勝利も無い。腐っちまいそうだよ」
「そういうもんよ。慣れないとね」
文人は神妙な顔つきで、刺身を箸で突いた。
「なぁ。本当にそういうものなのか? 慣れないといけないものか? 最後が来るまで楽しんだっていいじゃないか」
詩舞姫は諦めきれない文人の様子に、同情しながらも首を振る。
「楽しめば楽しむ程、失うのが怖くなるものよ。もっと、ずっと、これからもって、どうしても思っちゃう。アタシらは英雄が泣き叫びながら、彼の者に連れてかれるのを何人か見てるから、なおさらなんだわ。ちなみに文人の言う最後まで楽しもうって、そういう奴もいるよ。ごんのクソガキとか、ファウストとか、あと響子とかね。だけどあれは楽しんでいるっているより、やけくそになっているだけかな。嫌われてるよ。好き勝手やって、余所に迷惑かけるから」
「何? 私の名前呼んだぁ?」
遠くから、人懐っこい声がする。詩舞姫はしまったと口元に手を当てて、瞳孔を小さくした。
教室で見た鬼の娘が、文人たちの方に歩んでくる。彼女は褐色に灼けた肌に、布地の少ない虎柄のパンツとチューブトップを纏っている。何に使うのかは知らないが、パンツには直接太鼓のバチを挟んでいた。髪の毛は赤と黒が混じったツートンカラーで、静電気を帯びているように逆立っていた。しかし短髪ゆえに髪に埋もれることなく、彼女の頭から突き出る短い角が遠目にも見えた。顔はまるで猫のように、眼と口角の端を吊っている。そして奇妙さを感じさせるほど、異様に明るい表情をしていた。
「鬼ヶ崎響子……」
詩舞姫が声を震わせて、彼女の名を呼ぶ。一方の響子は、詩舞姫の隣に盆を置くと、どっかりと遠慮なしに腰かけた。
「新入生君に何を吹き込んでいるのかな」
「あんたこそ教室でスルーしたじゃない。いまさら何の用よ」
「ちょ~っと様子見していただけよ。英雄のくせに普段着来てるし、おかしいなぁって思ってスルーしたのよ。でもあんたがつるでいるなら、大丈夫だぁと思ってさ」
響子と呼ばれた鬼の娘は、盆の上の牛丼ぶりを掴むと、豪快にかきこみはじめた。彼女が飯をかきこむたびに、胸が揺れるわ、尻の肉が椅子に擦れるわで、文人は目のやり場に困る。詩舞姫が軽蔑に目を細め出す頃、文人は前々からの疑問を口にした。
「思ったんだけど、何で民族衣装を着ているの?」
響子は丼をかきこむのを止めて、パンツの端を引っ張って離す。パンツはゴムのように弾力があり、彼女の尻を張って音を立てた。
「そりゃアンタ、落ち着くから。それに何時彼の者がきても役割を果たせるように、準備だけはしとかないとね。ほら、連中来てから大変だって焦っても、待ってくれないからね」
「彼の者ってぇと……」
詩舞姫と輝夜があった時に聞いた言葉だ。文人は記憶を掘り起こそうとするが、その前に響子が文人の言葉を継いだ。
「因子に関係する神界の住人だよ。ほら。アタシは『大江山』の因子持ちだから、いつか天上界の侍が、殺しに来るわけ。ヤでしょ。これから死ぬッつーのに『あっちょっと待ってねー、死ぬ前にオメカシするから』なんて言うの。だから私はハッチャけるの!」
響子は素晴らしい笑顔を浮かべる。そしてパンツの両端を思いっきり引っ張って、尻に叩き付けた。なるほど。やけくそタイプだ。だがおかしい。そもそも昔話は、人間を英雄にするものだ。英雄とは名声や、富や権力に付与される称号で、おおよそ殺されるために存在する彼女には似つかわしくない。こういうことを普通の英雄に聞いたら殴られるが、彼女なら気楽に話してくれそうだ。あまり深入りするのは不躾だが、文人は彼女のやけくそに甘える事にした。
「因子で鬼になったの?」
詩舞姫が「何で聞くかな」と、文人に聞こえるように愚痴をこぼした。
「違うよぉ、もともと鬼だよぉ。日本の山地って意外とゆるゆるで、神界と繋がっている場所多いのよね。とにかく私そこに住んでたんだけどぉ、人間の里に興味があって、出かけたわけぇ。そこでちょっと暴れたらこれだよ!」
響子が椅子を蹴って立ち上がる。そしておもむろに文人に尻を向けて、パンツをずり下げよとした。あの少ない布の何処に隠れているのかは分からないが、きっとそこに刺青があるのだろう。詩舞姫は箸を放り出して響子の下半身に飛びつき、彼女を押し倒すことで最悪の事態を回避した。そして響子の代わりに絶叫で文人に答えた。
「弱体化因子! 神界の住人に付与される奴で、現世で悪さをすると、付与される仕組みになってんの! 人間の手に負えない神界の住人を、神界の住人が討伐したり、その命運を定めたりするマーキング。ごんと一緒! 響子、説明終ったでしょ! 何でまだ脱ごうとしてんのよ!」
「見せたいんだよぉ~! どうせ侍どもは見もしないんだぁ~! だから見せてやるぅ~!」
「文人、先生呼んでェー!」
机の下から、二人がもみ合う物音がする。放っておきたくはないが、かといって下手に手を出すこともできない。教師の姿を探して食堂を見渡す。しかし先程業務について話し合っていた教師は、既に食堂を出ていったらしく見当たらない。代わりに生徒たちが、白々しい視線で文人たちを見ていることに気付いた。まるで図書館で騒ぐ悪童を責めるような眼つきに、文人は一瞬怯む。だが文人は気を持ち直した。郷に入っては、郷に従えという。しかしこんな美意識に欠ける習俗に、文人は従いたくなかった。
(ここは食堂だ。それに目の前に友達がいる。楽しく飯を食って何が悪い)
文人は席を立って、友人を仲裁しようとする。しかし突然目の前に、ティーカップが置かれた。文人の足から力が抜けて、一瞬浮いた尻は、再び椅子へとへばり付いた。
「悲しい事です。古の昔、『酒呑童子』を打倒すべく神々より頂いた因子が、返せぬままでいるのです。鬼という存在の本質が変わったというのに、倒すという形式だけが残り、ああ何ということでしょう。このような不幸が生まれたのです」
凛とした声が耳に届く。隣を見ると、いつの間にか燕尾服の男が立っていた。背が高くて気付かなかったが、よくよく見ると歳は文人と同じほど。細く繊細な顔立ちに、柔和な表情を浮かべている。しかし明暗のない顔色は、腹の内を読ませず、異質な雰囲気を放っていた。
彼は腕に、給仕のアームタオルをかけていて、その上にティーポットを乗せている。それを洗練された動作で指に掛けると、文人の前に置かれたカップに茶を注ぎ始めた。
「私、『ファウスト』により縛られた悪魔に御座います。どうぞファウストとお呼びください。以後お見知りおきを」
男――ファウストが文人に恭しく首を垂れた。文人は戸惑いつつも、お辞儀で返礼し、じっとカップを見つめる。そこには薄緑の液体が、静かに湛えられている。紅茶らしくない。文人は水面から立つ湯気を、手で扇いで嗅いだ。
「あれ……? 日本茶なんだけど?」
「はい。和食ですので」
「いや、ティーポットに日本茶淹れたらおかしいだろ。カップもさ」
「では紅茶が御飲みになりたいと?」
ファウストは困ったように、小首を傾げる。文人も困って、つられて小首を傾げた。
「いやそうじゃなくて……」
文人の異変に気付いたのか、テーブルの下からファウストの足が見えたのか、はたまた響子との決着をつけたのか。詩舞姫が床から身体を起こして、テーブルの上に顔を出す。そしてファウストの姿を視界に入れると、顔を真っ青にした。
「ファウスト! アンタはあっち行って! こっち来ないでよ!」
「そう拗ねないで下さい。今あなたの分も注ぎますから」
ファウストは詩舞姫の剣幕に怯まず、笑みを浮かべながら指を鳴らした。すると詩舞姫のタライが、まるで爆発したかのように煙を噴き上げた。詩舞姫は慌ててタライにしがみ付き、中を覗き込む。そして絶叫した。
「何してんだバカヤロォォォ!」
「何って……お茶ですよ。玉露ですよ。玉露」
「玉露も番茶も糞もあるかぁ! 今アタシストリッパーと戦って、カラッカラになりかけてんのに何してくれてんのよ!」
詩舞姫の後ろでは、頭を押さえながら、響子がようやく身を起こした。床での争いで何らかの決着がついたのだろう。彼女はこれ以上脱ごうとはせずに、「そんなに怒る事かぁ~?」と愚痴をこぼしながら、どんぶりを再び持った。
しかし詩舞姫とファウストの争いは続く。
「一仕事の後です。ですから一服していただければと」
「脳にウジでも沸いてんのか!? こんなのに浸かったら出汁が取れちゃうでしょーが!」
ファウストは切れ目を丸くして驚いた。
「変わっておられますね。飲むのではなく浸かるのですか?」
詩舞姫の顔が引きつった。彼女は盆に付けられたコップで、タライのお茶を汲むと、ファウストに向けてかけた。流石水の精霊人魚と言ったところか。お茶は綺麗な弧を描いて、真っ直ぐファウストに振りかかっていく。しかし詩舞姫が軽くまばたきをしたその一瞬に、いつの間にかファウストと文人の位置がすり替わっていた。お茶は寸分も違わず、文人の顔に直撃した。
「熱ェ!」と悲鳴を上げて、文人が仰け反る。そして椅子ごと背中から倒れ、後頭部を強打した。文人は苦痛に悶絶し、のたうち回った。
ファウストは素早く文人に近寄ると、アームタオルで文人の顔を綺麗に拭く。そして咎めるような眼で詩舞姫を睨んだ。
「詩舞姫。文人さんに何かご不満でもあるのですか?」
詩舞姫は真っ青な表情を、更に青くする。だがすぐに怒りで赤くなると、文人に這い寄りながら吠えた。
「文人! ごめん! 後テメェコラ! アタシを名前で、しかも呼び捨てで呼ぶんじゃないわよ! 虫唾が走るわ! 不満なら山盛り沢山あるわよアンタに対してェ!」
詩舞姫はファウストの手を払いのけて、文人の上半身を助け起こした。
「文人!? 大丈夫? 火傷してない?」
「ああ……大丈夫……平気だ」
文人は顔を撫でながら頷く。詩舞姫はほっと胸を撫で下ろすが、安堵は束の間しか持たなかった。下半身の渇きと共に、眩暈が彼女を襲った。詩舞姫はまるでメトロノームのように、頭を左右に揺らした。
「あ……ちょっとアタシ……やばいかも……」
詩舞姫は文人の上に倒れ込む。今度は文人が詩舞姫を助け起こす番だった。にわかに食堂は騒がしくなり、水を求める声がこだまする。
事の元凶であるファウストはと言うと、いつの間にか煙のように消え失せていた。