6.起章の6
「一体……俺は何の英雄なんですか?」
盛男はスパッツの中に手を入れて、一枚の写真を取り出し、テーブルの上に置いた。
「これを見てくれ。彼らは第二次世界大戦後、国連の主導の下で、英雄戦犯の討伐を行った部隊だ。この部隊は世に闊歩する因子を収集し、封印することを旨に活動していた」
写真はカラーだが、普及して間もない稚拙な技術で撮られたのか、画像がとても荒かった。写っているのは九人の男女だ。誰もが仮想パーティを彷彿とさせるような、華やかな昔話の衣装を纏っている。桃太郎、ウィリアムテル、白雪姫、赤ずきん等、彼等は因子を宿した英雄らしい。その中でたった一人、旧日本軍の軍服を着た男がいた。その男は集団のリーダーのように、九人の中央に位置している。彼は腰に帯びた軍刀に手を預けながら、鋭い眼差しでカメラを睨んでいた。
文人だった。
「俺……?」
文人の声が震える。こんな写真を撮った覚えはない。それに周りにいる英雄たちも知らない。
盛男は写真の文人を指でさした。
「本来そこに写っていたのは、語部章人少佐だ。君の大叔父に当たる人物で、英雄だった。彼は神殺しに臨んだ枢軸国と、神の威光を受けた連合国との戦争である大戦を、真の意味で終わらせるために戦っていた。不思議だろう? 何故敗戦国である日本人が、この部隊を仕切っているのか。彼は特別な因子を持っていた」
いつの間にか鯖戸が文人の隣に立っていた。彼女は慣れた手つきで文人のジャージを捲り上げ、例の刺青を露出させた。盛男はそれを悲しげな雰囲気で見つめた。
「伝承者。英雄という存在を創りだし、その存在を保証する英雄だ。伝承者の能力は、神の言葉を神話の『原書』から剽窃し、自らに刻んで己を昔話の『原書』とする事だ。君は全ての英雄の起因であり、帰結である存在となった。伝承者の因子は、血族から血族へと、宿す物語と共に受け継がれる。業と責を伴ってね。写真に君が写っているのは、因子と共に、語部章人の歴史が継承されたからだ。探せばもっとあると思うよ。浮世絵から壁画に至るまでね」
鯖戸は文人の刺青にメイクを施していく。そしてあっという間に、肌色で刺青を覆い隠してしまった。文人はメイクの後を指でなぞる。鯖戸はかなりの腕前らしく、指先はメイクで汚れる事はなかった。
「どうしてここまでして隠す必要があるんですか? 俺ってただの原書なだけで、他の英雄と変わらないんですよね?」
盛男は即座に首を振った。
「さて、君に納得してもらえるように、歴史のお勉強をしよう。かつてこの世界と神の世界の境界が曖昧だったころ、神の世界から様々な異形が訪れた。鬼や吸血鬼、淫魔そして巨人。人間はそれに勝てないほど非力で、故に英雄を欲した。だが英雄も一歩間違えば、その化け物と変わりはないんだよ。英雄が化け物に堕落することもある。それに常に英雄が勝って、めでたしめでたしなんて、本の中じゃないからあり得ない。だから伝承者は因子をただ人に刻むだけではなく、物語として縛ったんだ」
文人が理解できないように首を傾げる。盛男は考えるように顎先を擦る、そして人差し指をぴんと立てた。
「君も昔話を知っているだろう? 悪い奴が来たら、颯爽と英雄が現れて打ち倒してくれる。鬼が攻めて来た。するとどこからともなく桃が流れて来る。そして鬼退治をする。そう言う法則と定まっているからね。桃太郎がやられた? なに心配することはない。また桃が流れて来るから。勝つまでそれが続く。延々と。昔話の原書は、ある法則に反応して、因子を付与し、彼らが約束された結末を迎える事を保証してるのだ」
文人はそこでようやく理解した。そして自分が受け継いだ業と責の深さに、冷や汗をかく。
「俺のせいで人が英雄になる……そしてこの島に連れて来られる……ちょっと待ってください! じゃあ約束された結末を迎えるって!」
盛男は反射的に、喋るまいと唇を噛んだ。しかしそれが、決していい結果を招かないと分かっていたので、すぐに口を開いた。
「ああ。稲荷ごんは、ごんぎつねの因子持ちだ。あれは本来悪戯の過ぎる化け狐を仕留めるものだが、因子の存在に気付いた狐が、命乞いをするうちに今の昔話の形になった。あの子はいつか、猟師に撃たれて死ぬ。輝夜はかぐや姫の因子持ち。富を欲した人間が、神界に流刑地を提供する代わりに、罪人の美貌が集める益にあやかった。契約は君の身体に刻まれて、未だ有効だ。たまに来るんだよ。そしていずれ輝夜はここを去る。我々の知らない何処かに連れていかれるんだ。だが文人君。君のせいではない。因子の――」
「別に外の世界に、英雄がいたっていいじゃないですか! それに俺はただの原書で、それ以外の奇跡は起こせないんでしょ! だったらいいじゃないですか! 俺は嫌だ! こんなところにいたくありません。帰ります! 帰らせてください!」
文人は全てを知って、認めたくないように盛男を遮った。文人は嫌だった。四面楚歌のこの島で生きるのは。この島に一人取り残されるのは。最早この島には何も望めない。文人はこの島では、陰鬱と生きる事しか出来ないのだ。だから喚いて駄々を捏ねた。そして少しでも事態が好転することに期待した。しかし盛男は、無情な現実を文人に突き付けた。
「もう社会には秩序ができてしまった。例え悪徳警官が実在しても、ウィリアム・テルに倒されたら、国家のメンツが丸潰れだからね。それに歴史が許さない。枢軸国は因子を拡張して、世界を神に変わって支配しようとした。英雄思想だ。祈る奇跡などに縋らず、己が強くなるべし。だが神とその下僕である連合国は、その不遜な行いに激怒した。神と人の約束の言葉を剽窃し、文字通り神を騙る事など、言語道断という事だ。結果連合国が勝利し、ここが作られた」
盛男は部屋の隅に飾ってある校旗を指で示す。そこには文人の腕にある、あの刺青の文様が描かれ、国連旗のようにオリーブの葉で挟まれていた。
「ここは英雄機関。国際法立伝統学園。英雄の健やかなる衰退を約束する場所だ。ここは一般市民に危害を与えず、因子が巻き起こす奇跡を処理する場所なのだ。残念だが外の世界に出る事は諦めたまえ。もし外に出ようとしたら、私もこの筋肉を使うことになる」
校長はソファーを立ち、呆然と虚空を見つめる文人の肩に手を置いた。
「君が誰かに何の因子持ちかと聞かれたら、証だけ出たと言ってお茶を濁したまえ。私は虐めを許さん。だが無理やり仲良くしろという事も出来ない。もし素性がばれたら、私に相談しなさい。全力で君を守る。詩舞姫君もこちらで何とかしておこう。話しはこれで終わり。色々あって疲れたろう。寮で休みなさい」
文人は言われるがまま、ふらりとソファーを立った。彼はそれまで胸に抱いていた、期待や自信、希望などを全て打ち砕かれて、魂が抜けたようになっていた。
完全に終わったのだ。この世界では何も望むことが出来ない。ただ物語の終わりが来ることに怯えながら、周りで知人たちが終わっていくのを眺めて、何も成すことが出来ぬまま死ぬしかないのだ。そしてその原因は自分にあるのだと思うと、酷くやるせない気持ちになる。それを他人が知ったらと思うと、居た堪れなくなる。
文人の容態に、盛男が心配するように指先を噛んだ。そして何を思ったのか、デスクから三本目のボトルを取り出した。
「元気を出すんだ文人君。これ……良かったら飲みたまえ。盛男のとっておきだ」
文人は最低限の礼儀として、首だけを左右に振った。盛男はボトルを床に投げ捨てた。
「ごめんね。文人君はこんなヘドロに興味ないもんな。時代はスムージーだ! 鯖戸君メモっといてね……その、全部が全部だめだってことじゃないんだ。時間はあるから青春しようよ。盛男に出来る事があったら、全力で手伝うから。厳しいこと言っちゃったけど、最低限の情報は知っといた方がいいと思ったんだ……」
文人は黙ってドアノブを捻った。頭が絶望でいっぱいで、他に物が入る余地なんてなかった。そして逃げるように校長室を後にして、ドアを少し乱暴に閉めた。
校長室の脇では、司馬懿が文人を待っていてくれた。彼女は消沈して出て来た文人を慰めるために、優しく背中を撫でた。
「まぁ何言われたかは大体想像がつく。でも英雄に選ばれたからには、逃げることは出来ない。お互い色々大変だろうが、協力して生きていこう」
彼女はそう言って、手の甲を文人に見せて来た。そこにはオリーブの葉に囲まれた、泉の刺青が浮き出ていた。
その後、文人は×字の男子寮に案内される。寮の壁では狩装束の男子が、相変わらず虚空を見つめている。だが文人はもう声をかける気にはなれなかった。相手の存在と、自分の存在が交わることに、恐怖を抱いていた。文人は身を隠すように首を縮めて、そっと寮の中に入って行った。
寮内はとても静かで、活発な男を収容する、男子寮とは思えなかった。人が住んでいるのかすら、怪しいほどだ。文人と司馬懿は歴史を醸す木造の廊下を、床をぎぃぎぃ軋ませて歩く。本来なら喧騒に飲み込まれるはずの、床の軋みや隙間風の唸りが、嫌にハッキリと聞こえた。
司馬懿は寮の、×が交わる場所近くの個室で足を止め、文人に錆の浮いた鍵を手渡した。
「ここがお前の部屋だ。じゃあまた明日学校でな。お休み」
司馬懿は文人に気を使ってくれたらしい。用件だけを告げて、さっと立ち去った。新しい環境に慣れる為、余計なことを聞かず、一人の時間をくれたのだ。
文人は新居となる、個室のドアをじっと見つめる。それは新品同様に傷や汚れが無く、しかし蹴り破れそうな程ぼろかった。長年大事に使われたというよりは、長年放っておかれたという表現が相応しい。きっと代々の住人たちは、病に伏せるように、終生を過ごしたに違いない。
文人は溜息をついて、ドアに鍵を差し込んだ。室内は事前に掃除をしてくれたのか、小奇麗だった。左手に学習机、右手にはベッドが置かれ、正面の壁には格子窓がつけられている。ベッド側の壁には吊り棚があり、いつ刷られたのか分からない、『堺島ニテ』という古い本がかけられていた。文人はそこに、持参したピンク色の本を並べた。床にバッグを放り出し、倒れるようにベッドに身を預ける。文人はしばらくベッドに寝そべり、天井の木目を目でなぞっていた。
何も聞こえない。何も感じない。時折窓の外から人の歩く気配がする。しかし彼らはまるで人形のように、何も語らぬまま通り過ぎていった。
やがて紅が窓の外から差し込んでくると、文人は気だるげに身を起こした。文人は寮を出て、山を登り、記憶を頼りに森の中に進んでいく。そして詩舞姫の住まう池へとやってきた。詩舞姫は池の縁に頬杖をついて、退屈そうに尾で水面を打っている。彼女は文人に気付くと、意外そうな顔をした。
「どしたの? 何か失くした?」
文人は首を振る。そして罪悪感に震えながら、恐れで小さくなる声で呟いた。
「その……謝りたくて……面白そうとか言っちゃって……」
「あ。話聞いたんだ。分かってくれたらいいよ」
詩舞姫は成程と納得して、からからと笑った。だが文人の用は、これで終わりではない。むしろここからが本題だった。
「それでさ……俺の因子だけど……」
ぴしゃりと、詩舞姫は尾で水面を打った。文人はその音の大きさに、頬にかかった飛沫に、思わず顔を上げる。
詩舞姫はあのからから笑いの根底にある物を、表情に滲ませていた。切なさに歪む口元、やるせなさに下がる眉、悲しみに涙を貯める瞳。それを包み隠すように、彼女はからからと笑う。
「やっぱりアタシはいいよ。聞かないでおく。どうせ聞いたって何にもなんないしさ、それに変に同情し合うのも嫌でしょ。お互い何時くたばるか分かんないし、そうなると辛いからね。それに他人に依存すると、その人がいなくなったら大変だからさ」
そんな寂しい考え、全てを奪われた文人にですら、認めることは出来ない。まだ残った心が、人としての美徳が、それを強く否定する。だが文人は、詩舞姫のからから笑いを押し退けて、否定する気にはなれなかった。文人は擦れた息を吐くように「ああ」と答えて、首を縦に振ってしまった。
詩舞姫はとても満足そうに微笑む。それは少なくとも、あのからから笑いより救いのある笑みで、文人の心をずたずたに引き裂いた。
「じゃあアタシ寝るわ。お休みぃ~」
詩舞姫は手を振ると、池の中に潜る。残された文人は、波紋を広げる水面を、ただただ見つめていた。
*
その島に今日、青年が一人訪れた。
齢一六を数える、青年が訪れた。
船に揺られ、歓迎する者もいない中、ぽつりと訪れた。
全世界の政府に、完了報告が伝えられた。
『完了報告。甲一号目標安置。繰り返す。甲一号目標安置。現在境島に居住。各政府の緊急事態対処に感謝の意を示す――以上』
その報告が島から全世界へと、通信網を伝っていく。
世界政府が、その報告に胸を撫で下ろす中、島はただ静かだった。
そこには青春を謳歌する学び舎があり、人の住まう市街があり、綺麗な自然に囲まれていると言うのに。
ただただ静かだった。