5.起章の5
文人は山の頂上の森から、島の南側を一望していた。
眼下には山の裾野が広がっている。そこは果樹園らしく、ネットを纏った木々が植えられている。その下の麓には、グラウンドが広がっていた。グラウンドは荒れ放題で、雑草が跳梁跋扈している。そして何の設備も見当たらない。サッカーゴールも、野球のネットも、テニスコートも無かった。グラウンドの隅には体育用具の小屋があるが、備品があるのか疑わしい。小屋は半壊し、傾いていたからだ。
「よーし……掴みは上々だな」
文人は頬を引きつらせながら呻く。次は校舎だ。
校舎は棟を四角の形に並べて出来ており、かなり古い木造建築物だった。外観は日に焼けて黒ずんでおり、屋根からはツタの葉が垂れている。中を歩く人影が無かったら、廃屋と見間違える程、悲惨な建物だった。
「校舎はなかなか歴史の重みがあってポイント高いぞ……ふざけんな。次は……寮があるんだったな」
文人は最後に校舎の向こう側にある、二つの建物に注目した。その両方が木造で、校舎と同じくらい古ぼけている。建物の内、市街地に近い方は×の字の形をしており、こっちが男子寮なのか、付近を歩く男子生徒がちらほらと見える。彼らもやはり何らかの因子を持っているのか、輝夜たちのように特徴的な姿恰好をしていた。ターバンを巻いたり、狩猟装束だったり、帯刀していたり、背中に羽が生えたりしている。文人は彼らとうまく付き合っていけるか、心配になった。
市街地から遠い方が、女子寮である。こちらは男子寮と対照的に、○の字の形をしている。○の中は空洞で、小さな広場になっている。文人が臨む山の中腹から、広場の中が少し見えた。そこでは凪に揺れる洗濯物と、とぼとぼと俯いて歩く女子生徒がちらと見えた。○の形はプライベートな空間を作るためなのだろう。文人はあらぬ疑いをかけられる前に、そっと女子寮から眼を離した。
文人は果樹園沿いの階段から、山から麓へと降りていく。階段は麓の男子寮の近くで終わっていた。男子寮の壁では、狩装束を纏った男子生徒が背中を預けて、ぼぅと空を眺めている。彼も外国人なのか、緑を基調とした服に似合う、エメラルドの瞳をしている。口元をボロ布のマフラーで覆い、背中には洋弓と矢筒を背負っていた。
狩人は文人に気付いたが、興味さなさげにすぐに視線を反らす。だが文人は意気揚々と、彼に近づいていった。この島初めての男子生徒だ。是非とも友達になりたかった。
だが文人は、後ろから誰かに肩を掴まれた。有無を言わさず無理やり振り向かされ、その人と対面することになる。
相手は大人の女性だった。彼女はすらりとした高身で、高価そうなスーツを着こなしている。スーツはアイロンがかけられて、きちっと裾に折り目がついており、彼女の几帳面な性格を窺わせた。しかしスーツは彼女の汗を吸い、激しい動きに乱されて、あちこちに皺が寄っていた。髪は黒の短髪で、安物のヘアピンで前髪を留めている。普通なら人を猛々しく見せる短髪だが、彼女のきりりと引きしまった表情が、理知的な雰囲気を醸し出していた。
「語部文人? 語部文人だな!?」
彼女は荒い息を付きながら、文人を揺さぶって来る。文人は気圧されて頷いた。
すると彼女はほっと胸を撫で下ろし、文人から手を離した。
「すまない。港に迎えに行ったんだが、行き違いになったようだな。ああ。私は三国司馬懿。君の担任を務める事になっている。担当教科は社会だ。よろしく」
司馬懿と名乗った教師は、文人に手を差し伸べてくれる。だが彼女は手をじっとりと湿らせる汗に気付き、慌ててスーツで手を拭った。どうやら文人を探して、島中を走り回ってくれたらしい。文人は申し訳なくなって、頭を下げた。
「すいません! 俺が勝手に動いたせいで、先生に迷惑をかけてしまって」
司馬懿は気にしていないように笑った。詩舞姫と違い、この笑みは本物で、陰りが無く文人を安心させた。
「いやいいんだ。ごんに悪戯されたと詩舞姫に聞いてな、ここにいると聞いたから飛んできたんだ。ごんの事は勘弁してやってくれ。詳しくは後で話す」
司馬懿は握手し直すと、文人の背中を押して校舎の方に連れていく。途中で狩装束の男子の脇を通ったが、相手は文人を無視して、じっと虚空に魅入っていた。
文人は学校の正面玄関を抜けて、校舎の中に入る。正面玄関内の右側には受付がある。左側の空間は仕切られていて、用務員室と書かれた札が下がっていた。真ん中には下駄箱が並べられ、床には履き替えの為の簀子が敷かれている。どれもが長い年月を経た古めかしいもので、自然の中に溶け込んでしまいそうなほど、色褪せていた。
司馬懿は受付の窓から中に身を乗り出して、そこからビニルで梱包された、真新しい内履きを取り出す。それを文人に手渡し、彼女は一人先に校内に入って行った。
「校長先生がお待ちだ。疲れていると思うが、挨拶だけは済ましてしまおう。今着替えとタオルをもってくるから」
数分も待たない内に、司馬懿は新品のジャージとタオルを持って戻って来た。彼女は用務員室と仕切られた部屋に文人を案内し、そこで着替えるよう指示した。
文人は濡れた服を、同時に渡された籠の中に入れて、ジャージに袖を通す。ジャージの胸元には、『語部』と刺繍されてある。どうやら体育で使うものらしい。新しいジャージ特有の、プラスチック臭が文人の鼻をついた。
文人が着替え終えると、司馬懿は文人の濡れた服が入った籠を小脇に抱える。そしててきぱきと校長室へと案内した。木目の浮いた床は、司馬懿の軽そうな体重と、文人の大した事のない重さに、ぎぃぎぃと悲鳴を上げた。
校長室は校舎玄関のすぐ右端、つまり東側の角にあった。そこは職員関係の部屋が集中しているらしく、何人かの教職員とすれ違う。彼らのうち二人ほど、特徴的な見た目を持つ者がいた。下半身が馬の者と、場違いなタキシード姿を纏った者だ。彼らも因子持ちなのだろう。だが因子を持つ持たず関係なく、皆の雰囲気は一様に暗く、文人を見ると辛そうに視線を伏せた。
そうこうしている内に、文人は立派な樫の扉の前に辿り着いた。司馬懿は勇気づけるように、文人の肩を叩いた。
「ここだ。私は外で待っているから、挨拶してきなさい」
文人はまず司馬懿に深々と頭を下げた。そして金の光沢を放つ、ドアノブを握りしめる。司馬懿は何かを恐れて、文人の手を掴んで止めた。
「待つんだ。飲み物を出されたら、とにかく飲みなさい。毒は入ってないし、そうしないと話が進まないから。それと校長は見た目がアレだが、中身はしっかりしている。頼れるから頼りなさい。本当はいい人なんだ。そこを誤解しないで欲しい」
「ええぇ~、いま猛烈に司馬懿先生が誤解を植え込んだんですが……それって……校長も何かの因子持ちなんですか?」
「時々私も忘れるが、校長はサラの人間だ。国連のお偉いさんだよ。彼についてだが――」
司馬懿はそこで言葉を切り、頭を悩ますように目をきつく閉じて天を仰いだ。しかし適当な文句が思いつかなかったのか、彼女は自らの態度で語ることにしたようだ。文人の両肩を掴んで、真摯に彼を見つめた。
「言葉で言い表せるなら私もそうしている。とにかく会って慣れなさい。命までは取られないから。だがもし君の尊厳を奪う様なことをしたら、私を呼べ。外で控えている」
「それなら一緒に来て頂けませんか?」
「私は席を外せと言われている。理由も無くこんな事は仰らない」
そこで司馬懿は文人から手を離した。文人はおずおずと校長室へと入り、後ろ手にドアを閉めた。
校長室は他の学校と、そう変わらない内装だ。中央には応接用のテーブルとソファーが一式置かれ、奥には高価そうなデスクがでんと置かれている。そして左右には本棚があり、分厚い本がずらりと並べられていた。部屋の隅には校旗が二つ、旗立に掛けられている。それぞれ国連旗章と、校旗だった。文人は中学の時に、見慣れた風景を拝むことが出来て、ほっと落ち着いた。だがデスクを構える人物に目を移すと、声にならない悲鳴を上げて、全身を戦慄かせた。
そこには筋骨隆々の男がいた。頭頂は禿げ上がっているが、それ以外の髪は生え揃い、男の肩まで垂れている。まるで落ち武者のような髪型である。しかしその髪は、まるで輝夜の髪のようにきめ細やかで、真っ直ぐに伸びていた。正直気持ちが悪かった。口には無精ひげを蓄えており、それらは針のように空気を刺していた。彼の顎は盛り上がった胸の筋肉に埋もれており、丸太のような腕を胸の前で組んでいる。それはまるで、一張羅のタンクトップが引きちぎれない様に、自分を押さえているかのようだった。男は七色に光を反射するサングラスをしていて、表情を読むことが出来ない。それがより恐怖を掻き立てた。
「ちょっと遅いんじゃないかしら」
部屋の隅で声がした。文人が声のした方を向くと、校旗とは反対側の隅に、小さな学習机が置いてある。そこに三角帽を目深に被った女性が腰かけており、ボールペンで紙に何かを書きこんでいた。見た目は魔女のそれと酷似している。ズタボロのローブで体を覆い、破れた布の隙間から病的に白い素肌が見えた。ひょっとしたら、ローブの下には何も着ていないのかもしれない。
文人が戸惑っていると、筋骨隆々の男が吠える。
「テメェコラ入学初日から遅刻とはエエ度胸しとるやないか!」
割れんばかりの怒声に、部屋中に衝撃が走り、空気が震えた。文人は恐怖に凍えて、その場で棒立ちになる。そして時を忘れて、デスクを構える男に釘付けになった。殺される。文人は直感した。だが身体が動かない。心では脱兎のごとく駆けだしているが、現実では指先が微かに震えるだけだ。
やがて何の進展もないと、男は場をとりなすように、両手を軽く打ち合わせた。
「君。もっとこう……リアクションはないの?」
男の身体から空気が抜けるように、禍々しい雰囲気が消えていく。
「は……?」
文人は長い沈黙の後、ようやくその言葉だけを絞り出せた。当の男はファイティングポーズを取り、拳を回して見せる。
「もっと……こう……足掻き給えよ若人よ! ホラ、クラーク博士も言っていただろう。少年よ大志を抱けと。彼だって借金に苦しみながらも足掻き続けたんだ。我なんぼのもんじゃあって喚きながら、私をやっつけるんだよ。あのままだと君殺されてたよ!」
本当に殺す気だったらしい。今度は言葉すら出ない。男は文人から、これ以上は何も引き出せないと思ったのか、頭を掻くと溜息をついた。
「いやぁ~、司馬懿君並みの猛者はなかなか現れないかぁ……」
「司馬……ええぇ~一番まともそうでしたけど!」
「いや彼女意外と凄いんだ。私に馬乗りになって、我なんぼの――お~とこれ以上はよしておこう。盛男はまだ死にたくないからね。とにかく君も、悔いのない行動を心掛けるようにね。あの時ああしておけばよかったって――あの時なんてもう二度と巡って来ないんだから」
男はギシリと椅子を軋ませて立ち上がる。ぬぅと天井に頭をぶつけんばかりの巨躯が、露わになった。男の下半身も上半身同様に鍛えられており、大樹の様な足が身体を支えている。だが下半身につけているのはぴっちりとしたスパッツだけで、その肉体美を覆うにはあまりにも不釣り合いだった。文人は男の容姿に軽い眩暈を覚えた。
「おはよう文人君。私が校長の柳田盛男だ。気安く盛男と呼んでくれ。隅にいるのは鯖戸恵美先生だ。保健の先生だよ。魔女の因子持ちだから腕は確かだ。さ、飲み物でも頂きながら、話そうじゃないか。君にする話がたくさんあるんだ。そこに座りたまえ」
校長は文人にソファーを進めつつ、自分のデスクからボトルを取り出した。文人がソファーに腰かけると、校長はその対面に座り、用意したコップになみなみと、ボトルの中身を注ぎ始める。中身は粘度の高い白い粘液で、水のようには注がれなかった。一つの粘液の塊が、重みで落ちるようにコップに入っていく。校長は自分のコップにもその粘液を注ぐ。そして美味しそうに一口で空けてしまった。文人は顔を青ざめさせながら、コップに視線を落とした。
「飲まないのかね?」
(飲めるかっつーの!)
文人は心の中で絶叫する。だが口に出す勇気はない。ただ苦笑いで返答した。
「飲まないのかぁ……そうか……飲まないのか……」
そう言うと校長は、サングラスを下にずらして、隙間から文人をチラチラと見た。その猛々しい雰囲気を裏切らず、渋い目が文人を見つめる。だが瞳はまるで乙女の様なきらめきを宿していて、文人に鳥肌を立たせた。
(そんな捨てられた子犬みたいな目で、俺を見つめるんじゃねぇよ)
文人は膝の上に置いた手をきつく握りしめて、逃げ出しそうになるのをぎりぎりで堪える。そして引きつった笑顔を浮かべた。
「校長先生。それでお話とは?」
校長は露骨に顔をしかめた。人差し指でサングラスを元の位置に押し上げる。そしてソファーの背もたれにその巨躯を預けて、気だるそうにそっぽを向く。ソファーが断末魔に似た悲鳴を上げるが、壊れる事はなかった。
「あの……校長……校長? 校長……」
文人は校長の、突然の態度の変化に狼狽えつつも、その名を呼び続ける。だが校長はそっぽを向いたまま、わざとらしく口笛を吹き始めた。文人はある事に思い至り、言葉を変えた。
「盛男さん」
即座に盛男はソファーから体を起こして、真摯に相手に対応する、前屈みの姿勢になった。
「何だい文人君」
「お話とは何でしょうか?」
すると盛男はまたもやサングラスをずらし、きらめく目で文人をチラチラ見た。
「飲まないのかぁ……」
どうやら飲むまで待つつもりらしい。司馬懿が言っていたのはこの事だろう。文人は仕方なく、コップを持った。盛男がまるで子供のように喜悦の表情を浮かべながら、身を乗り出す。部屋の隅では、鯖戸が固唾を飲む気配がした。
文人は粘液を思い切って飲んだ。口の中に粘る液体が流れ込んでいく。それは咽喉や口に張り付いて、酷く不快な感触がした。液体は異様に甘く、粘り気に反して、するすると胃の中に滑っていった。コップを空けた文人は口元を拭いながら、顔を歪めた。
「何ですかこれ」
「何って……プロテインに決まっているじゃないか。筋肉はいいよぉ文人君。いつだって傍にいるし、裏切らないからね。君も早くムキムキになろう」
盛男は満面の笑みで、とんでもない事を言い出す。文人の顔が、まるで腐乱死体を目の当たりにしたかのように、ぐしゃぐしゃになる。すると盛男はソファーから腰を上げて、文人の背後に回り、耳元で囁いた。無精ひげが文人の頬を刺して、妙に爽やかな吐息が耳を撫ぜる。文人は悪寒に背筋を伸ばした。
「文人君。誤解が無いように言っておくが、このプロテインと鯖戸先生は全く関係ない。分かったかね? 彼女は無関係で、偶然ここにいるだけなのだ。それに出合い頭の言葉もジョークだよジョーク。まぁ信じられないだろうがね。それでどうかね?」
文人の視界の端に、鯖戸が物凄い勢いで、紙に何かを書き殴るのがちらりと映る。文人はひとまず、盛男を離れさせるために、質問に答える事にした。
「はい。来て早々に、先生や生徒の方に良くしてもらいました。その、娯楽とかそう言うのは何にもないですけど、人が優しくて、いい場所だと思います」
すると盛男は首を左右に振った。文人の頬は爪楊枝のような盛男の髭に、何度も刺された。
「違~う。私が聞いたのはプロテインの感想だよ」
(おいコラじじぃ)
文人は胸中で毒づいた。盛男は文人から離れて、デスクに戻る。そこから二本目のボトルを取り出すと、文人の対面の席に戻り、コップになみなみと中身を注いだ。今度のはさらりとした、黄色の液体だった。
「まぁ、それはいい事だ。ではもっと詳しく聞こうか。それでどうかね?」
盛男はコップを文人の目の前に置いた。流石に二度目とあって、文人は抵抗なくコップを空けた。
「あ。こっちは美味しいです。バナナの味がしますし、口当たりもよくてするするいけます」
すると盛男は悲しそうに口角を下げて、首を振った。
「君は何を言ってるんだね? ここの第一印象はどうかと聞いているんだ」
文人は手元のコップを力いっぱい握った。
(最悪だよジジィィィィ!)
鯖戸がペンを走らす音が、黙の中で軽快に響いた。
「さてプロテインも飲んだことだし、本題に入ろうかな。君も突然この島に移住させられて、驚いていると思う。だがね、これにはれっきとした理由があるんだ」
ようやく話が進んだ。文人はさっさと終わらせようと、盛男の説明を引き継いだ。
「はい。俺が英雄に選ばれたからですね。神様が起こせる様な奇跡を、俺が起こせるようになったから、ここに連れて来られたんですよね?」
盛男の肩がぴくりと動く。慎重に彼は訪ねて来た。
「何故知っているのかね? 外の世界じゃ、英雄なんて本の中にしかいないはずだ」
「その……ここに来る途中、水川詩舞姫という生徒に会って、話を聞かせてもらえたんです」
「なら専門用語を使わせてもらうが……君は詩舞姫君に自分の因子を見せたかね?」
文人は緊張しながらも頷く。校長は目の前を手で覆い、罪悪感に苛まされるように頭を振った。
「すまない。本当にすまない。私としたことが。言い訳だが、この土地で電波通信は禁じられているんだよ。神の遺物や英雄を狙うカス共が、世界にはうようよいるからね。だから打ち合わせとかが取れなくて、本当に申し訳ない。君の因子は見せるべきものではないのだ!」
あの盛男が取り乱して喚いている。この巨人は天から槍が降ったり、地の底が返ったりでもしなければ、取り乱すことなんてないだろう。そんな彼が、文人の宿した因子に一喜一憂しているのだ。文人は自らの宿した力に、期待を寄せた。