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昔々……  作者: 水川湖海
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4.起章の4

 獣道を進んでいくと、二人は森の中ぽかりと空いた、大きな広場に辿り着いた。広場は円形でそこだけ草木が無い。今まで緑に遮られていた日光に照らされて、文人は眩しさに目を細めた。眼が次第に光に慣れてくると、広場の全容が見えて来る。広場は土が剥き出しで、人の手入れがされているのか、雑草や石ころの類はなかった。まるでグラウンドのようだ。広場の三面は、文人たちが来た森に囲まれている。だが残りの一面――文人の正面には、延々と荒野が広がっていた。


 文人はその荒野に違和感を持ち、吸い込まれるように魅入った。そして森の中に納まるには、その荒野が広すぎる事に気付いた。荒野は延々と地平線の果てまで続いているが、本来見えるはずの、森の向こう側や、海の水平線を見る事が出来なかった。荒野の入り口には、『是ヨリ先未踏ノ大地也。許可無キ者ノ立チ入リヲ禁ズ』と記された看板が掲げられている。


「向こう行かないでよ。そこから先は神様の世界に繋がっていて、下手すると神隠しに会うから。そうなったらアタシもう知らないから」


 詩舞姫は荒野に見とれていた文人に釘をさす。そして荒野の近くにある塚へと、タライを進ませた。塚には人一人がやっと通れるほどの小さな穴があり、粗末な木戸で封がされていた。


 詩舞姫はタライから飛び降りると、戸を尾ビレで叩いた。


「おいコラ! 出てこいクソ狐! お前だろ! ここ最近あたしン家荒してんの!」


 詩舞姫は余程頭に来ていたのか、まるでまな板の上の魚のように、激しく尾をばたつかせた。戸板が軋んで今にも壊れそうな音を立てる。だが詩舞姫の攻撃は、戸板を破る決定打にはならないようだ。やがて詩舞姫の顔が青ざめ、息切れし始めた。どうやら水を出て、長くは活動できないらしい。よたよたとタライに戻ろうとする。文人はそこで彼女の元に飛んでいった。


 詩舞姫を抱え上げて、そっとタライの中に入るのを手伝う。文人は宥めるように詩舞姫の肩をさする。流石に乙女の柔肌に直接触れる事には抵抗があったが、そんな事は言ってられない。詩舞姫の眼は据わっていて、仇敵を睨むかのように戸板を見ていた。彼女は何かを思いついたのか、急に口元を歪める。そして身体を前後に揺さぶって、タライに張った水を、少しずつこぼし始めた。こぼれた水は穴を伝い、戸板の隙間に染み込んでいく。詩舞姫は満面の笑みを浮かべた。


「クソ狐! 出てこないとお前の秘密基地水浸しにするぞ!」


「おい待て! ンな事したら水川が干からびちまうだろ!」


 文人は慌てて詩舞姫を後ろから羽交い絞めにした。僅か一分足らず外に出ただけで、息も絶え絶えになっていたのだ。ここでタライを空けたら、池に戻るまで彼女は持たない。


「文人は黙ってて! アタシだってガキじゃないんだから、石やゴミは大目に見てあげるわよ! だけど墨汁なんか流し込みやがってこの大バカチンが! 死ぬかと思ったわ!」


 ごんの過ぎた悪戯に、文人の手から少し力が抜けた。詩舞姫はするりと文人の拘束を逃れて、タライの前面に体重をかけ始める。そしてタライをひっくり返して、水を流し込もうとした。文人は彼女に抱き付くようにして、寸でのところで止めた。


「だからって本当に死んだら意味がないだろ! それに怒ってる水川には悪いけど、俺の荷物もあるから!」


 文人は踏ん張って、タライを水平に戻そうとする。しかしタライの半分は、洞穴の中に浮いている。土を踏む残りの半分も、底面のローラが滑って、少しずつ穴の中にずり落ちていった。


「ちょっと変なとこ触らないでよ!」


 詩舞姫が羞恥に顔を赤くしながら吠える。


「アホか! 手を離したらタライがひっくり返るわ!」


 文人も負けじと叫び返した。


 唐突に塚の木戸が開いた。そして中から、青い振袖を纏った女性が顔を出した。彼女も詩舞姫と同じ年頃だ。人形のように精緻で落ち着いた表情からは、気品と柔らかさが感じられる。髪は川のように真っ直ぐで、黒曜石の様な目に栄える光沢をもっている。しかし彼女には、美しさに見合う気力が感じられなかった。美しさだけが際立ち、自己の主張が全くなく、文人は最初人形だと勘違いした。


 女性は長い袖を上品に揺らしながら、雅な足運びで塚の外に、一歩踏み出して来た。彼女はまず、塚内に落ちそうになる詩舞姫のタライを見て、驚きに口を窄める。そしてそれを引き留める文人を見て、恐怖に目を見開いた。


「輝夜、大丈夫! こいつ彼の者じゃないから! 迎えじゃないから! それより何とかして!」


 詩舞姫は右手でタライを押さえつつ、左手で背中にへばり付く文人の頬を、つねりながら言った。


「タライを持ち上げてくれ! 多分底のローラーか何かが、段差に引っかかってるんだ!」


 輝夜と呼ばれた振袖の女性は、口元を上品に押さえて、自らの驚きを表現して見せる。そしてすぐに袖をまくると、下からタライの底を持ち上げてくれた。


 その瞬間、タライが文人の引っ張る方に、勢いよく転がった。ばしゃり、とタライの水が波打つ音がして、文人は土の上に尻餅をつく。その上に詩舞姫が倒れこんできた。詩舞姫は文人の腹の上で、仰向けに成りながら、もうどうでもいいように脱力していた。


「何なのコレ……」


「無茶するからだろ」


 文人もしばらく動く気にはなれなかった。顔にかかった水を手の平で拭うと、詩舞姫が退くのを待って、そのままぐったりと横たわった。二人を照らす日の光に影が差す。文人が視線を上げると、先程塚の中から顔を出した女性が、心配そうに二人を覗き込んでいた。


「わぁ……あの……大丈夫ですか?」


 輝夜は、詩舞姫の隣までタライを転がしてくれた。詩舞姫はその中に飛び込んで、文人の上から退く。離れ際に彼女は、わざと尾ビレで文人の顔を叩いていった。それから詩舞姫は少し恨みがまし気な眼で、じろりと輝夜を見つめた。


「輝夜。アンタこんなとこで何してんの? ていうかいるなら出なさいよ。おかげで恥かいたじゃない」


「休みですから、ごんちゃんの秘密基地に遊びに来ただけですよ。それに詩舞姫ちゃん、出ますよって言っても、話を聞かないんですもの」


「はぁ? 聞こえなかったわよ」


 詩舞姫は腕を組んで、頬を膨らませる。


「あれだけ騒げばね」


 声と共に塚の中から、赤い着物の少女――ごんが顔を出した。彼女は輝夜の背中まで走り、まるで隠れるように足に抱き付いた。そして小馬鹿にした笑みを浮かべると、詩舞姫にあかんべぇをした。文人はごんの姿を見て飛び起きる。


「あ! 腐れポンポコ!」


「私は狐だよ!」


 ごんは口の両端を、人差し指で引っ張って、イーをして見せる。文人はごんに掴みかかろうとしたが、彼女はさっと輝夜の陰に隠れた。自然に文人の視線は輝夜を向く。輝夜は困ったような表情で、文人を見つめていた。そうなると文人は輝夜を撒きこむ事を躊躇って、立ち止まるしかなくなった。しばらく文人と輝夜は、お互いを見つめ合っていた。単純に双方が初対面で、どう接していいか分からなかった。輝夜は物腰柔らかで、温厚そうな外見をしているが、詩舞姫のようにとっつきやすいという訳ではなかった。場に気まずさが満ちていき、それが限界に達っする。すると輝夜は文人から視線を離して、詩舞姫の方を向いた。


「ごんちゃんが、また何か悪戯したのですか?」


「私はさっき言った通りよ。こいつは荷物パクられた」


 タライの縁に寄り掛かっていた詩舞姫は、自分と文人を指さして、要点だけを簡潔に述べる。


「私知らないよ! あいつら私を虐めようとしているんだよ!」


 ごんは白々しく、そのような嘘を叫ぶ。輝夜は背後のごんを振り返り、膝を折って彼女と視線を合わせた。それまでの生意気はどこへやら。ごんは輝夜の真っ直ぐな視線に射抜かれて、悄然と肩を落とした。


「ごんちゃん。嘘は駄目だよ。やったの? やってないの? どっち? 嘘ついたらお姉ちゃん、もうごんちゃんのいうこと信じないからね」


 ごんがハッと顔を上げて、泣きそうな顔を見せる。かなり輝夜になついているようだ。やがてごんは唇を震わせながら、短く首を縦に振った。


 輝夜は清冽なため息をつくと、がっかりしたように瞳を閉じた。ごんは弁明するように、両の手を忙しなく動かす。だが良い言い訳が出てこないのか、唇は空気を吐いて震えるだけだった。やがて輝夜が厳しい目つきでごんを見つめた。ごんは肩の間に首を埋めて、縮こまった。


「ごんちゃん。駄目でしょ。詩舞姫ちゃんの池に、墨汁なんか流し込んだら。詩舞姫ちゃん寮に住めないから、仕方なしにあそこに住んでいるの。そしてあそこが駄目になったら、住むところなくなっちゃうんだよ。私たちみたいに、部屋を変えることは出来ないの。ごんちゃんも秘密基地壊されたら嫌でしょう? 私に助けてっていうぐらいだもの」


 ごんは納得がいかないように、着物の裾を手の平でくしゃくしゃに握りしめた。やがてしぶしぶと言った様子で頷いた。


「ごんちゃん。ほら、いう事あるでしょう」


 輝夜はにっこりとほほ笑むと、ごんを詩舞姫の前へと歩ませる。ごんは軽く腰を折って、ぎりぎり礼と呼べる程度に傾けた。そして輝夜に顔が見えないのをいいことに、ごんはジト目で文人と詩舞姫を睨んだ。


「ごめんなさい」


「おう。二度と私ン家の近く、うろつくんじゃないわよ」


 詩舞姫はそれが形だけの謝罪だと分かっているのか、まともに取り合おうとしていない。手をひらひらさせて、一応謝罪を受けたと仕草で示す。そして傍らに立つ文人の尻を叩いた。


「それよりこいつの荷物」


 輝夜はごんの肩に手を置いて、後ろから顔を覗き込んだ。その時ごんの顔は、素早く反省したものにすり替わっていた。


「荷物は? 汚さずに、ちゃんと大事にしまってある?」


 ごんはこくりと頷くと、輝夜の元を離れて塚の中に飛び込んでいった。残された輝夜は、再び文人と向かい合う。文人は自己紹介がまだの事に気付いた。


「文人。語部文人。今日からここに住むことになった」


 文人はそう言って握手を求める。輝夜はそこで明らかな戸惑いを見せたが、おずおずと文人の手を取った。


「あ、文人さん。初めまして、私は竹取輝夜と申します。詩舞姫ちゃんのクラスメイトで、ごんちゃんのお友達です。どうぞお見知りおきを。それでですね、今回だけは許して頂けないでしょうか。この通りです」


 輝夜は文人の手を離して、深々と頭を下げた。文人はギョッとして、輝夜に頭を上げさせる。


「謝らなくてもいいですよ。あなたが悪い訳ではないですし、荷物が戻って来ればそれでいいです」


 輝夜の高貴な雰囲気に当てられて、文人の言葉遣いも自然と丁寧なものになる。文人の隣で詩舞姫がからかうように、尻尾で水面を打った。


「アタシの時と対応が違うんだけど」


「こう丁寧にされちゃ仕方ないだろ」


 塚内からごんが出て来た。頭には文人の旅行カバンを抱えている。彼女はぞんざいに、文人の目の前へと、カバンを投げ捨てた。中を漁ったのか、カバンの口は開いており、放り出された衝撃で中身が零れる。綺麗に畳まれていたはずの衣服が、クシャクシャになって飛び出た。


「これ。落ちていたから、拾ってあげたんだよ。ば~か」


「ごんちゃん。駄目でしょ!」


 輝夜が悲鳴を上げる。そして散らばった荷物をかき集め始めた。文人がカバンを手に取る中、輝夜は衣服を集めて、可能な限り綺麗に畳んでくれる。そして彼女は、衣服に埋もれていたピンク色の本を手に取って硬直した。


「申し訳……あり……ま……あ……?」


 輝夜は赤面し、かすれた声を出す。文人は輝夜の異変に気付きくと、ギョッとした。


「それは違います!」


 文人は輝夜の手から本を奪い取り、急いでカバンの中に放り込んだ。そして散らばる衣服を詰め込んで本を覆い隠す。輝夜は呆然自失と言った様子で、文人が必死になって荷物を集めるのを見つめていた。


「これは違うんです! 何故か入っていたんです! 私は読んでいないです! 検閲の判が押されていたから、検閲の時あけられたんです!」


「ハンコ確認したってことは読んだんじゃん」


 詩舞姫が軽蔑の篭った声で言う。文人は振り返って詩舞姫を睨む。しかし詩舞姫はわざとらしく上目使いで文人を睨み返し、恥じらうように腕を交差させて胸を隠した。


「文人……さっきはまさか、私の身体に触れるためにワザと……」


 文人は助けを求めるように、輝夜に視線を戻す。彼女は赤面しつつも表情を険しくし、文人と視線を合わせぬよう顔を伏せていた。そして距離を取り、詩舞姫と同じように胸を隠している。輝夜の後ろではごんが、口元を押さえて必死で笑いをこらえていた。仕込んでいたに違いない。


 輝夜は胸を隠す右手を離して、そっと広場の出口を一つ指した。


「こちらの獣道に沿って歩いて下さい。じきに森を出て校舎の前につく事でしょう。それでは」


 輝夜はそう簡潔に述べると、ごんの背中を押して、秘密基地のある塚の中へと戻っていった。


 文人は最悪の初対面に頭を抱え込む。輝夜ほどの美人であれば、校内でかなりの発言力を持っているのではないか。その口で「あいつは変態だ」などと言われたら、のうのうと学園生活なんて送れなくなる。陰口を叩かれ、奇異の眼で見られることになるだろう。頭を抱える手が、髪の気を掻き毟った。文人の内情を読んだのか、詩舞姫が励ますように背中を叩いた。


「輝夜は私と違って、噂話は嫌いだから、心配しなくていいと思うよ」


 文人は涙目になって詩舞姫を見た。


「ええぇ~。じゃあ賄賂は何が欲しいの? 水川姐さん」


「そうでなくても、ここの人って他人には無関心だから。気にしなくていいよ。どうせ――」


 詩舞姫はそこで言葉を切る。そしてやるせない笑みを浮かべて、溜息をついた。


 文人は前々から気になっていた。ここの住人には嫌に活気が無い。輝夜は出会った当初から影に覆われている。詩舞姫は活発そうだが、どこか空元気を匂わせるように、疲れを見せていた。ごんは元気な子供だ。だが行き過ぎた悪戯はヤケクソを思わせる。文人はその原因を聞こうと思った。しかし因子の際に、詩舞姫が見せた拒絶の言葉が、それ以上の追及を躊躇わせる。


 文人は一旦全てを忘れる事にした。そしてタライの縁に手をかけた。


「じゃあ一回池に戻るか」


「へ? 何で」


 詩舞姫が目をぱちくりさせる。


「タライを漕ぐの大変だろ。送ってくよ」


「いいよいいよ。気にしないで。そんなことよりアンタ風邪ひくから、さっさと学校行きな」


 詩舞姫はからからと笑い、タライから手を離させようと、文人の手に自分の手を重ねた。だが文人は心配そうに、その手を離さない。詩舞姫は迷うように、じっと重なる二人の手を見つめた。やがて彼女は挑発的な笑みを浮かべた。


「私にエロい事したいの? あの本みたいに?」


「池にタバスコを流し込むぞ」


 これ以上は押し売りである。文人はタライから手を離した。詩舞姫はオールを取り出すと、それで地面を突いて、来た道を引き返していった。森の中に入る前、彼女は文人に手を振った。


「私はマジで大丈夫だから。じゃまた明日学校で」


 文人も手を振り返し、詩舞姫の背中を見送った。


「いい人達だったな……友達になってくれるといいけど……でも俺、嫌われているのかな」


 文人は壁を感じていた。確証はないが、何所か避けられているように感じる。普通は新入生を見たら、案内してくれるものではないだろうか。それに今考えれば、詩舞姫や輝夜の付き合い方にも違和感がある。表面上は仲が良さそうだが、互いが声をかけるまで、手を貸そうとはしなかった。まるで最低限の付き合いで済ませようとしているみたいだ。


「ここで考えても始まらないか」


 文人はカバンを肩に担ぐと、輝夜の指した獣道に足を踏み入れた。その道は詩舞姫と通った道よりも幅が狭く、雑草と木々の伸びも激しかった。文人は草を踏みつぶし、横伸びする枝葉をかき分けて黙々と進む。やがて日の光が強くなり、それまで森に遮られた潮風が、鼻孔を満たし始める。そして視界が開けた。

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